「アドブターナンダ」(4)
「おお、心よ、主の御名を唱えよ。
そして、どんな食べ物であれ水であれ衣服であれ、
主がお前に下さったものに満足せよ。」
ラーマクリシュナがよく歌うこの歌がラトゥは大好きで、自分でもよく歌っていました。
あるときラーマクリシュナはラトゥに言いました。
「他に何がしたいのかね? これ(師の身の回りのお世話をすること)自体が、お前に完成をもたらしてくれるのだよ。」
ラーマクリシュナとラトゥは、非常に近しい関係にありました。時にはラトゥは、ラーマクリシュナが十分に食事をとっていないからといって、まるで幼子をしかるように師をしかりつけました。あるいは子供を気遣う母親のように師のそばに座り、なだめすかしながら、もうちょっと、あともうちょっと、と食べさせるのでした。
師がサマーディに入っているときには邪魔が入らないようにし、師が眠っているときには見張りをしました。
また、ラトゥは、ラーマクリシュナの弟子の中で、ラーマクリシュナの妻であるサーラダー・デーヴィーと親しく交流があった数少ない人物の一人でした。サーラダー・デーヴィーは控えめで謙虚で恥ずかしがりやな性格だったので、男の弟子たちとはほとんど顔を合わせることもなかったのです。
あるときラトゥが瞑想していると、ラーマクリシュナはそれを中断させて、言いました。
「お前はここに座っているが、ナハバトにいる彼女には、チャパティの生地をこねる者がいないのだ。」
そう言うと、ラーマクリシュナは、ラトゥをサーラダーのところへ連れて行って、言いました。
「この少年は非常に純真である。君が必要とすることは何なりと手伝ってくれるだろう。」
ラトゥはとりわけ無邪気なたちで、年少でもあったので、サーラダー・デーヴィーは非常に彼に打ち解けていました。彼女はラトゥを自分の息子のように思っており、ラトゥもサーラダー・デーヴィーを、師に匹敵するくらいに尊敬していました。
1885年、ラーマクリシュナは咽頭癌を患い、弟子たちは師を、治療のためにシャンプクルという場所に移し、後にコシポルのガーデンハウスに移しました。
若い弟子たちはつきっきりで師の看病と身の回りのお世話をしました。もちろんラトゥもその一人でした。
師が徐々に衰弱していき、トイレに行くのも困難になったとき、ラトゥは師に向かって、真剣な顔で言いました。
「師よ、私がおります。あなたの掃除人です。私が何もかもお世話いたします。」
病の痛みが激しさを増したとき、ラーマクリシュナは笑ってこう言いました。
「肉体と痛みとは仲良くさせておけ。私の心よ、お前は常に至福であれ!」
そして1886年8月16日、ついにラーマクリシュナはマハーサマーディに入り、肉体を捨てられたのでした。
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