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「わずかな苦しみ」

【本文】

 生き物が受ける苦しみは、意志を持つ者によって作り出される場合と、意志を持たない物によって作り出される場合とがあるが、苦痛は、意志ある者の上にのみ認められる。それゆえに心よ、汝はこの苦痛を忍ぶべきである。

【解説】

 誰かが自分に悪口を言う。--これは、意志を持つ者によって引き起こされた苦しみですね。
 偶然石が落ちてきて怪我をする。--これは、意志を持たない物によって引き起こされた苦しみですね。
 
 しかし、石に対して悪口を言っても、石を蹴っても、石は苦しみを感じません。石は意志を持たないからです。

 ここで言いたいことは何なのでしょうか? 私はこのように思います--意志を持たない石が、殴られても罵倒されても苦しみを感じないように、その現象そのものは苦しみの因ではない。意志、精神、心、--これらが苦しみという概念を作り、我々は苦しんでいるように錯覚しているだけである。そのことを理解して、苦しみを耐えよ、ということですね。本当にこのことが理解できたら、心は空の境地に達し、苦しみは消滅するでしょう。しかしいきなりそれは無理なので、まずはその理念を理解し、その理解のもとに苦しみを耐え忍べ、ということではないでしょうか。

【本文】

 ある人々は迷妄によって過ちを犯し、ある人々は迷妄によって怒りを発する。われらはこれらの人々の中で、いずれを「過失なし」と言い、いずれを「過失あり」と言うべきか。

 なぜ汝は、そのために今汝が他人に悩まされるような行いを、昔なしたか。全てはカルマに依存している。私が誰であれば、これを変更しうるか。

 かように悟って、私は全てが互いに慈愛の心ある者となるように、功徳に励む。

【解説】

 全ての人は迷妄に覆われています。加害者も迷妄に覆われて他者に被害を与えたのだし、また被害者も迷妄によって、加害者に怒りを発します。このどちらが罪ある者であり、どちらが罪なき者なのでしょうか?--どちらもこの迷妄のマーヤーに覆われた、哀れむべき衆生なのです。

 そしてもう一度、カルマの話も出てきましたね。誰も、原因と結果の法則、自分が他に対してなしたことが将来自分に返ってくるという法則は、変更不可能なのです。今の自分に生じている苦しみはすべて、過去に自分が他に与えた苦しみなのです。

 それらのことを理解し、悟り、
--すべての衆生が、この迷妄を脱して、互いに慈愛の心を持つ者となるように
--加害者も被害者も、その怒りも、すべてが永遠に存在しなくなるように 
--ただ他者を愛し、他者を幸福にし、そのカルマによって自分も愛され、自分も幸福になるという、慈愛のカルマ、幸福のカルマだけで成り立つ世界がやってくるように
--そのために、まずは私が、修行をしよう。功徳を積もう。まずは私から慈愛を発そう。怒りを捨てよう。他者を害することをやめよう。カルマを浄化しよう。

 このような深い思いと決意が、この一文から伝わってきます。

【本文】

 家が火事となり、火が他の家に燃え移って、そこの藁などにつくおそれのある場合に、それは引きずって運び出される。
 それと同様に、心が物に執着し、そのために怒りの炎で焼かれる場合には、功徳の体が焼き尽くされぬよう、直ちにそれを投げ捨てねばならぬ。

【解説】

 これは絶妙なたとえですね。
 外界のさまざまな物、あるいは物質だけではなくて、地位とか名誉とか、愛情とかもそうですが、それらへの執着によって、それらが害されるときに怒りが生じます。
 そしてその怒りの炎は、それまでに長く積み重ねてきた功徳、自分の幸福の因を、焼き尽くしてしまいます。
 よって、そうならないように、怒りの炎を燃やす原因となる執着の対象を、自分の心から直ちに捨て去るのです!

【本文】

 死なねばならぬ者が、手を切断するだけで死を免れるならば、何の不幸が彼にあるか。
 人間の苦しみによって、地獄から免れうるとすれば、何の不幸があるか。

 もしわずかばかりの苦しみすらも、今日耐えられないなら、なぜ地獄の苦しみの因である怒りを除かないか。

 怒りのために、実に私は、数千回地獄に落ちた。そして自己のためにも、他のためにも、なんらの利益をもたらさなかった。

 この世の苦しみはさほどのものではなくて、将来に大きな利益をもたらす。そこで、世界の苦しみを取り除く苦しみを、まさに喜ぶべきである。

【解説】

 相対的に大きな苦しみを避けるために、相対的に小さな苦しみを受け入れることが、我々にはできるはずです。
 地獄の苦しみは、仏典等を見る限り、想像を絶する、とんでもない苦しみがとてつもなく長い間続きます。しかしこの人間界における、カルマの浄化の苦しみは、それに比べればさほどのものではありません。その程度の苦しみによって地獄を避けられるとするならば、それは喜びであって、悲しいことではないはずです。

 我々の意識は無智により転倒しています。地獄どころか、ほんの小さな苦しみでさえ、我々は耐え難く感じます。たとえば誰かに悪口を言われただけで、死ぬほどの苦しみに襲われることもあります。そんな弱い心ならば、到底、地獄の苦しみなど耐えることはできないわけですから、地獄に落ちる因である怒りの心を、消滅させなければなりません。
 ということは、小さな苦しみを受けてそこで怒るというのは、本末転倒なのです。その怒りこそが、より巨大な苦しみの世界である地獄に落ちる因となるわけですから。小さな苦しみに耐えられないと嘆きながら、より大きな苦しみの因を作っているという、大変な無智を、我々は行なっているのです。このような無智からは脱却しなければなりません。

 そして我々は過去世において、数え切れないほど、地獄に落ち、想像を絶する苦しみを受けてきました。しかもその苦しみは、そこでいくら苦しんだからといって、自分にとっても、他者にとっても、なんらのメリットをもたらさない苦しみでした。なぜなら、そこに法、教えがないからです。苦しむことによって再び嫌悪や怒りを増させるだけの苦しみだったのです。
 しかし今、教えにめぐり合い、修行にめぐり合い、カルマの法則を知り、解脱の法則を知り、慈愛の法則を知った我々に生じる苦しみは、そこで耐えることによって、自分と衆生に大きな幸福をもたらす苦しみなのです。しかもその苦しみの程度は、地獄の苦しみなどとは比較にならないほど小さな苦しみです。
 その辺のことを、十分に熟考・思索すべきです。そして、
「衆生のために、世界の幸福のために、私はこのわずかな苦しみを耐え忍ぼう」
と決意するべきです。

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