「すべてを投げ出す帰依」
◎すべてを投げ出す帰依
【本文】
知性低き者たちの得る利益は、非常に限られたはかないものである。
それでも神々(デーヴァ)を礼拝する人々は、神々の世界に到達するであろう。だが私に帰依する人々は、必ず私のもとへと到達する。
「知性低き者たちの得る利益は、非常に限られたはかないものである」。
――結局われわれは、さっき言ったように、知性というのがあって、我執というのがあるんだね。つまり「私は」っていう思いが非常にある。これによってわれわれは、限られた知性によって、自分の世界・自分の可能性というものを限定してしまうんだね。
本当はわれわれは、無限なる恩恵を至高者から受けられる可能性があるんだが、「これはこうでこうでこうで……」って自分の低い知性で考えてしまうがゆえに、受けられる恩恵が限定されるんです。だからさっきから言っているように、ギーターの思想っていうのは、「投げ出せ」っていうんだね。
君の知性なんていうのは、たわいもないよと。つまりクリシュナ――バガヴァーンっていうのは、われわれに完全なる恩恵を常に与えているんだが、受け取る側のわれわれが「こうですかね、こうですかね」って入り口を作っちゃっているから、わずかな恩恵しか受けられない。
例えば神に信仰している人もそうだけども、神というのも非常に限定的な自分の考えで作っちゃって、「これだ!」ってやってるから、その限定された恩恵しか受けられない。この限定の広い狭いの差はあれ、みんなそうなんだね。
さっき言った科学もそうです。科学っていうのも、あれも一つの真理なわけだけど、この物理法則っていうのはね。それもある意味限定されたものなんです。実際の真理っていうのは、もうちょっとそれを超えている。でもそれにすごく観念を持つ場合、この科学技術の恩恵は受けられるだろうが、それを超えた恩恵は受けられない。
だから結局ね、知性も含めてわれわれは投げ出さなきゃいけない。バガヴァーンっていうのはすごく曖昧な言い方ではあるんだけども――だからヨーガとかチベット仏教の伝統では、その役割を本当は師匠がやるんだね。師匠を弟子はバガヴァーンの現われと見て、師匠が弟子の観念を壊していくようなやり方をする。
例えば一番いい例はナーローパとかティローパの話だね。ナーローパって、一つの密教行者の鏡みたいな人で。なぜかというと、ナーローパっていうのは、みんなも知っているように、インド一の大学者だったんです。大学者っていうのは仏教学者。つまり仏教においては、インドにおいては、誰もあの人に教えにおいても理解においてもかなう者はいませんねって言われたほどの、知性高き仏教学者だった。でもダーキニーがそこにやってきて、「あなたは真理の言葉はよく理解しているけども、本当の意味を分かっていませんね。ティローパのみが分かっています」。この言葉を聴いてナーローパは、すべての地位と知識を捨てたんです。ここがナーローパが智慧があったところだね。で、ティローパに弟子入りしてからは、一切の今まで築き上げてきた仏教の教えに対する理解を捨てた。で、ティローパに従った。
ティローパがやったことっていうのは、ティクレとかにも書いたけども、われわれのレベルから見るとわけが分からない。高いところから飛び降りさせたりとか、火の中に飛び込まされたりとか。実際はナーローパ個人のカルマとか段階とかに応じた、いろんな深い意味があったわけだけども。ここにおいてはナーローパはそれを理解していたわけじゃないんですよ。「ああ、なるほど。仏教的にいってこうだから師匠はこうやっているんですね。はい、わかりました」――じゃないんです。これをやる限りは、その理解の範囲内の恩恵しか受けられない。じゃなくて、至高者に対して――この場合はティローパだけども――私は無智ですと。私は無智ですから、お任せしますと。ね(笑)。はい、お願いしますと(笑)。こういう姿勢が必要なんだね。これをやる者っていうのは完全なる恩恵を受けられますよと。もちろん、この師匠と弟子の関係の場合は、その師匠の力量にもよるけどね。
そもそも師匠というものを媒体とする場合も、その裏側には完全なる存在を見ている。密教的にいうと、よくヴァジュラダラとかあるいはクンツサンポね、サマンタバドラっていう言い方をする。これはアーディナータっていって、あらゆる仏陀の根源にある存在があるんだっていうんだね。だから密教ってすごくね、ヒンドゥー教に近い、実は。近いっていうか、本質に到達しちゃっているんだろうね。大乗仏教の段階っていうのは、いろんな理論が登場して、ヒンドゥー教とかヨーガとかを批判したりして、ちょっとこう違う感じもあるんだけども。密教になってくると非常に近くなってくるんです。バガヴァッド・ギーターの世界とチベット仏教の最高の教えが説く世界って、非常に近くなってくる。その完全なる存在、第一の存在っていうのがあって、それに対して自分をいかに投げ出せるかっていうのがあるんだね。
さっきの動物の例えでいうと、ある程度自分になついている動物が、この主人はいつも自分の体を掃除してくれると。掃除は何か気持ち悪いんだけども、でもこれによって自分が後できれいになることはよく知っていると。この場合、この動物は、掃除されることに対しては身を委ねられる。でも主人が全くやったことのない――例えば予防注射をやろうとおもって、注射をしようとした場合、逃げるかもしれない。これが「知性による信」なんだね。つまり限定されているんです。この場合、動物は、掃除の恩恵は受けられるが、予防注射の恩恵は受けられない(笑)。ね。
じゃなくて、投げ出せと。完全に投げ出した場合、ユクテスワが言うように、人間の利己的知性――これは限りがあるので、「え? これって、何でこんなことを神はなさるんだろう?」っていうことが、実はわれわれに恩恵を与える道であるっていうことが、たくさんあるんです。これはさっきから言っている、動物の例えと同じようにね。動物が、人間が手術してあげることを理解できないように、例えば神の愛によってわれわれの人生にいろんな苦難が起きることがある。これも全部ひっくるめて、神の愛だと。
こないだも言ったように、「神が私にお与えになり、神が私からお奪いになる」と。「神が私に苦難をお与えになり、神が私に喜びもお与えになる」と。「ああ、ありがたい」と(笑)。ね。このような完全なる投げ出した精神ね。これがバクティ・ヨーガとかカルマ・ヨーガとかの一つの真髄なんだね。
これもちょっと利己的なというか、エゴ的な知性が入り込むと、くだらない議論の中に入っていく。「いや、それはこうじゃないですか」と。「それは妄信じゃないですか」とか。「それは論理的におかしいんじゃないですか」と。そういう世界じゃないんだね。今日話している話っていうのも、あまり論理的じゃない話なんだけど(笑)。心で聞いて欲しいんだけど(笑)。そういう一段階上の教えなんだね。この教えっていうのはね。