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「すべては至高者の中で」

◎すべては至高者の中で

【本文】
 姿をあらわさぬわたしの中に全宇宙が広がり、全生物はわたしの内にいるのだが、
 わたしが全生物の中にいるわけではない。

 全生物は、もともとわたしの中にいたわけではなく、わたしがそれらを創造し維持しているのだ。
 また彼らの中にわたしが存在しているのではない。君はわたしの持つこの神秘力をよく見ておくがいい。

 いつもどこにでも流れている大気が、常に空間の中にあるように、
 万物も、それと同じように、常に私の中にあることを、君は知っておくがいい。

 カルパの終末に、万有万物はわたしの性質の一つであるプラクリティの中に吸収されてしまうが、クンティー妃の息子よ!
 次なるカルパが始まると、わたしは再びそれらを吐き出し、元通りにしてやるのだ。

 わたしは自分の性質の一つであるプラクリティを活性化し、万有万物を繰り返し何度も出現させているが、
 これら万有万物は、わたしの性質であるプラクリティによって支配され、まったく自由が失われている。

 しかし、わたしはこれらの活動に縛られることは決してない。ダナンジャヤよ!
 なぜなら、わたしは常にそれらからは離れており、無執着で中立だからである。

 わがエネルギーの一つであるプラクリティは、わたしの指示によって活動し、動くものと動かぬものとを生み出す。
 このようにして宇宙の歯車は回っていくのだ。クンティー妃の息子よ!

 これは前の方でも出てきたね。サーンキャ哲学とかに通ずる話で、この宇宙の本質というのは、絶対的な、全く過去から未来まで変わることのない絶対的な存在というかな、寂静の境地があるわけだけども、それとは別にプラクリティというのがあると。このプラクリティというのは、いろんな説明がされるけども。
 仏教でもヨーガでもそうなんだけど、この宇宙というのは完全なる寂静だと。何回か言ったけど、私はシヴァ神とカーリー女神の絵ね、あれがとても分かりやすいと思うんだね。シヴァ神がこう寝ていて、その上にカーリー女神が舌を出して暴れている絵があるけども、あれはまさに宇宙の本質を現わしていて。この寝てるシヴァ神というのは、一切何があっても全く変わることのない、純粋な寂静の境地をあらわしてる。これがこの宇宙の本質なんだね。でもそれと同時に――これも言葉にすると矛盾があるんだけども――その寂静の境地の中に、あらゆるものを生み出す動的な力の本源みたいなものがあるんだね。これはいわゆる虚空期といわれる時代には、その力はただ内在因としてあるだけで、まだ発動していない。これがある時期が来ると、発動するんだね。つまり力のあらわれとして、この宇宙を生み出す。これがプラクリティの働きといわれてる。
 プラクリティから、三グナといわれるラジャス・タマス・サットヴァっていう三つのエネルギーに変化して、その三つのエネルギーがこの宇宙のさまざまなものを作っていますよと。こういう考え方がある。でもその真我とか、あるいはその寂静の状態というのは、一切そのプラクリティにけがされないっていうかな。これが根本的な宇宙観としてあるわけだけども。
 このプラクリティさえも、このバガヴァーン――この宇宙の唯一なる完全なる神の一部に過ぎないと。このクリシュナ、バガヴァーンの中から出てきたプラクリティが、この宇宙をいろんな形で創造して、それによってみんなが苦しんだり喜んだりいろいろして、みんな最後には解脱して、で、プラクリティがまた元に帰っていって、宇宙は消滅すると。で、虚空の時代があって、で、またプラクリティがよみがえって、ばーっと宇宙が創造されると。これはだから、このバガヴァーンの中で行なわれているだけなんだよ――というところだね、ここは。

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