「すべてはわが身の上のこととして」
◎すべてはわが身の上のこととして
【本文】
『すべてはわが身の上のこととして、他者の苦楽も自己の苦楽であると考え、
あらゆる生き物を自己と等しく見る人こそ、最高のヨーギーなのだ。アルジュナよ!』
はい。これはもう大乗的な話になってきたね。これはだからさっき言ったことの進展系ですね。
すべての衆生と自分が変わりないというふうに見えるようになってきたら――単純にね、
「いや、私はすべてと平等です」
とか口で言うだけじゃなくて、本当にそう見えてきたら、例えば自分とまったく関係ないことで人が喜んでても嬉しいはずなんです(笑)。それはね。ウォーッて感じで(笑)。
例えば全然他人がいて、その他人が組めなかった蓮華座が組めたと。「おお! やった!」って喜んでたら、自分も同情とかいうんじゃなくて、まさに自分だからそれは――まるで自分が組めなかったのが組めたかのように「おお! 嬉しい!」と(笑)。喜ばなきゃいけない。喜ばなきゃいけないっていうか喜ぶようになるはずなんです。
で、苦しみも同じでね、本当に自己と他者が平等になってきてたら――誰かが苦しんでたら、「ああ、可哀想だね。同情するよ」じゃなくて、もう自分がそうなったかのようにウワーッてなるはずなんです。ただもちろんこちら側にある程度悟りがあったら、そこで苦しくはなんないかもしれないね。そのウワーッていう気持ちは来るけども、それを冷静に見れるかもしれない。で、それをもって「ああ、この人はこういう形で苦しんでる」と。よって、心を改善する教えを与えてあげようと思うかもしれない。
でもどちらにしろ、日々出会ういろんな人の苦しみをまるで自分のことのように感じて、「ああ、救ってあげなきゃいけない」と。
――例えばさ、さっき言った「過去の自分」っていうのはまさにそうだけど、同じような境遇にあったとしても私は全然苦しくないんですけども、あの人は相当苦しんでいるようだと。これはあの人のあの心が問題だと。これを治さないわけにはいかないと。何故ならば自分と相手は同じだから、自分と同じあの人がまだ心の問題があるが故に苦しんでるんだとしたら、もう治してあげるしかないと。でもここでまた問題があるんだけどね。だからといって無理やり修行させればいいってものでもない(笑)。人それぞれカルマがあるから。
例えば家の母さんは本当煩悩だらけで苦しそうだと。そういう人を例えば首に縄をかけてね、カイラスに連れてきたとしてもそれはちょっとこっちが困ってしまう(笑)。やる気がない人が来てもちょっとためにならないかもしれない(笑)。だからその人にとって一番いい、例えばストレートに――例えば本当にもう、「こういうことがあってこういうことがあって苦しい!」って言ってる人にいきなり行って、「ああ、カルマだよ」って言ったら(笑)、「ああ、冷たい人だ」って思われて、言うことも聞いてもらえないかもしれない。
だからある段階の人には当然「いや、分かるよ」と(笑)。「苦しいね」と。ちょっと相手の心のレベルに自分も降りてあげて、で、励ましてあげることも必要かもしれない。
だからよく仏陀っていうのは優秀なお医者さんであるというけども、逆にね――阿修羅的な修行者ってそういう過ちに陥りやすいんだね。阿修羅的な修行者って人の悪いところ見つけて、「君そんなんじゃだめだ!」と。「こうしなさい!」と。バーって言って満足すると。言ったことに満足する(笑)。でも相手は全然ためになってないっていうか(笑)。だから言ったことに満足して相手が全然伸びないような、あるいはマイナスになるようなことはやっちゃいけない。
だから自分がどう言うかっていうのは、あるいはどういう表現をするかっていうのは、結果的に相手にどのような利益を得るかだけなんだね、ポイントはね。
それはだからストレートに言うことがいいときもあるし悪いときもある。全然別の方法を取った方がいいときもある。だからそれもまたわが身に代えて思うんです。
自分が過去のあの状態だったら、どういうやり方をしてもらったらよかったかと。ね。過去のああいう全然駄目な状態のときに、「こういう言い方をされたらたぶん私はヨーガとかやってなかっただろうな」とかね。そこら辺を考えて、――だからすべてをわが身のことと考えるっていうのは、この今現在の私とみんなを同等に見ては駄目だよ。さっきも言ったようにすべての人っていうのは自分より優れている部分もあれば、劣っている部分もある。だから劣ってる部分に関しては過去の自分だって見なくてはいけない。で、優れている部分に関しては未来の自分だって見る。その上で対処してあげるわけだね。
はい。で、それこそが『最高のヨーギー』なんだよと。つまり単純に、小乗的にね、他の人関係無いと。で、山に籠って心の――自分の浄化だけを行なってこの世から去っていくヨーギーではなくて、すべての人々の中に見た苦楽を自分の苦楽と同じものだと考えて、で、衆生のために働くヨーギーね。大乗的な修行者こそが最高のヨーギーなんだよと。