「あらゆるものへの支配力」
◎あらゆるものへの支配力
【本文】
『パラマーヌ パラママハットヴァーントーシャ ヴァシーカーラハ
以上のような方法で、心が不動になった人には、極微の原子から極大の無限者に及ぶすべてのものに対する支配力が生ずる。 』
はい。ここで支配力っていっているのは、別に思いのままに動かすっていう意味ではなくて、あらゆるものに対して自在に集中できて、サマーディに入れるってことだね。全くそれらによって動かされないというか。
◎サマーディ
【本文】
『クシーナヴリッテーラビジャータシェーヴァ マネールグラヒートリ・グラハナ・グラーヒェーシュ
タットスタ・タダンジャナタ サマーパッティヒ
かくして心の作用がすべて消え去ったならば、水晶がその傍らの花などの色に染まるように、認識主体、認識器官、認識対象が、集中して同一になる。 』
はい。これはサマーディの一つの定義ですね。サマーディって一体何かっていうと、これは私の経験も含めていうと、さっきも言ったように何かに集中するわけです。で、集中した対象が、ある一定の集中力を超えると拡がりだします。これをディヤーナといいます。ばーっと拡大するんだね。最後に拡大しきって、自分もそれにつつまれた感じになって一体化します。
例えば、花に集中してたとしたら、花が巨大化するんです、本当に。イメージじゃない。たとえで言ってるんじゃないよ。本当に巨大化するんだよ(笑)。本当に巨大化して、自分がつつまれるんですよ、最終的に。
前にもちょっと言ったけど、高校時代に私がよく経験してたことで、壁に画鋲を刺して、画鋲に集中してるんだけど、画鋲が巨大化しだすんだね。でも画鋲の隣にね、窓があったんだけど、窓は巨大化しないんです。画鋲だけが巨大化するんです。で、画鋲と窓の大きさの比率――つまり窓の二十分の一ぐらいの画鋲だとして、この比率は変わらないんです。画鋲は窓の二十分の一って変わってないのに、窓は大きくならなくて、画鋲が超巨大化するんです。ちょっと論理的に言うと、変な感じなんだけど。そういう感覚になる。これがディヤーナ。
これを目をつぶってやったばあい、うわーっていう感じで意識が拡がります。がーって意識が拡がって、最終的にその拡がったものに飲み込まれるような感じで。つまり自分と画鋲とこの目っていうもの、あるいは見ているという行為、全部が一緒くたになるんだね。これがここに書かれてる――水晶が色に染まるようにって書いてあるけども、主体と客体が合一してしまう。これをサマーディと言ってる。それの説明ですね。
ちょっと前に戻るけども、いろんなサマーディの入り方が書いてありましたが、クンダリニー・ヨーガ的な入り方――クンダリニー・ヨーガっていうのは、ヨーガの世界でいうと非常に新しいヨーガなんだけど、それはチベットでいうところの完成のヨーガって言ってもいいわけだけど。この完成のヨーガとかクンダリニー・ヨーガっていわれる方法のサマーディの入り方――これはね、現代的にはこれが一番いいのかもしれないと私は思う。これはどういうものかっていうと、今日もちょっと瞑想でやったけど、頭から甘露、つまりアムリタを落とすんです。このアムリタと呼ばれるものは、われわれの心の徳の現われと言ってもいいし、歓喜のエネルギーの現われだね。これはチベットではティクレ、あるいはボーディーチッタという。このボーディーチッタは菩提心という意味でもあるんだけど、男性の精液を表わす言葉でもあるんです。それはなぜなのかというと、結局その男性の精液も含めて、われわれが煩悩的喜びを味わうための喜びのエネルギーみたいなものが、われわれの中にあるんだね。それを修行者は、そういう低級な喜びには使わないで、昇華させて――つまり、もうちょっと高度な、錬金術のように、高度なエネルギーに元素変換して現われるのが、アムリタなんです。
じゃあ、このアムリタと精液の違いは何かと。まずはもちろんアムリタの方が、強烈な喜びがある。ものすごく肯定的歓喜に満ちてるというか。で、最も大きな違いは、アムリタは超気持ちがいいが、漏れないんです(笑)。つまり、精液に代表される現世的喜びっていうのは、「漏れの喜び」なんだね。セックスが一番分かりやすいんだけど、男性の場合が一番分かりやすいんだけど、エネルギーが漏れることで喜びがあるんです。あるいは女性も同じなんです。女性は目に見えないけども、エネルギーが漏れてるんです。漏れるときの喜びなんだね。あるいは他のやつも全部そうなんです。例えば、食べる喜びもそうだし、現世的なプライドを満足させるときも、エネルギーが漏れてるんです、実は。でもこのクンダリニー・ヨーガとかで生じるアムリタの歓喜っていうのは、漏れがないんです。じゃあどうなるのかっていうと、どんどんどんどんわれわれのチャクラの世界に溜まっていくんだね。
だから最初は、この歓喜状態って、なんか体中自体は普通なんだけど、体のどこかにぱーっと歓喜が生じます。「あ、今ここ歓喜だった」って感じなんだけど、だんだんそれが体中を浸してくるから、どこって感じじゃなくなってくるんだね。エネルギーの上がり方もだんだん変わってくるんですよ。よくエネルギーが上がるときって、最初はちょろちょろって感じで「あ、背中のこの辺を、あ、何か来た」って感じだったりとか、「あ、なんか顔のところ、ぱって降りてきた」とか、そんな感じなんだけど、だんだんだんだん――エネルギーを上下させるときも、体よりも大きくなる。体よりも大きなものが、なんか上下してるって感じなんだね(笑)。全体をこう行くっていうか。
その繰り返しによって最後どうなるかっていうと、飽和状態になるんです。飽和状態ってどういうことかっていうと、このナーディーの器があって、その中をちょろちょろいろいろ行ってるんじゃなくて、満杯になっちゃうんです。満杯になって、外の世界と繋がるんです。これにより寂静が生じるんだね(笑)。つまり、隙間があるから、われわれはいらいらするんだけど、完全に歓喜のエネルギーが満杯になったとき、外の空間と完全に一体化したような――まあ、イメージだけどね、そんな感じになって寂静が生じるんです。これがクンダリニー・ヨーガ的な寂静の入り方なんです。
これは私も前、それを経験したときに、そういう感じがあった。最初はすごく気持ちよくて、いろんな段階で歓喜が生じて、で、体がすごく軽くなるんだね。もう本当に歩いてても飛んでいるような感じがするし、あるいは瞑想しててもなんか浮くような感じがする。それがある一定段階を超えたときに、「あれ?」って感じがして、「体がない」って感じ。「軽い」も超えて、「ない」なんです(笑)。一種の空なんだけど、ここでいう空っていうのは、いわゆる「何もない」ではなくて、まさにさっき言った「満ちてる」って感じなんです。満ちきったって感じ。満ちきって固定されたっていう感じ。これがクンダリニー・ヨーガ的な寂静の入り方だね。だから完全に気道が浄化されて、そこに浄化されたアムリタが満ちて、満ちきった状態のときにそれが生じるんです。これは瞑想に一番適した状態です。これが、私が思うにはね、現代的にはすごくいい入り方だなと思います。
アムリタのことをボーディーチッタとも言いますが、つまりこれは四無量心の訓練によって、ボーディーチッタというのは歓喜を増すんです。逆に言うと、射精してたら四無量心は減ります(笑)。あるいは歓喜も減ります。だから徹底的にまず――道徳的な意味じゃないんだね――道徳的な意味で禁欲するんじゃなくて、われわれの悟りとかあるいは慈悲の心をまず完成させるまでは、徹底的に禁欲しろっていうことだね。そして四無量心の力によって、ボーディーチッタの歓喜の力をグーンと強くして、あるいはもちろん戒律を守ったりして、漏れなくして、その状態に入っていくんだね。
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