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◎眠り

【本文】
アバーヤ・プラティヤヤーランバナー・ヴリッティルニドラー

空無を対象とする心の作用が、眠りである。

 はい、眠り。ここでは何をいっているのかというと、眠っているときは心が止まっているんじゃないですか?――いや、そうじゃないんですよと。空無――つまり「無」という状態に対して心が動いている状態。これが眠りなんだと。
 これはね、瞑想などでもよく勘違いする人がいて、これも前にも何回も言ったけど、「空だ」「無だ」とか言って、心をぐーっと止めようとする。で、実際に何か止まったような感覚がある。でもそれはただタマス――つまり無智になっている場合が多いんだね。これはいろんな人が警告をしていて、マハームドラーとかの経典でも警告されているんだけど。マハームドラーとか心を止める瞑想というのは、ちゃんと師匠の指示通りしっかりやって、本当にそれを得ていれば素晴らしいけども、ちょっと間違うとただタマスが増大して動物界に落ちるって書いてある(笑)。つまり非常に無智的な、「無」というものを対象として心が動いて、それを心が止まってるという錯覚をしてしまうんだね。
 それは止まっているんじゃなくて、「無」っていう動きをしているんです。変な話だけど。無にただ覆われているだけというか。これは駄目なんです。より悪いんです。人間がああだこうだ理性で考えているよりも悪いんです。無智だから。
 現代の瞑想家とかもそういう人多いと思うけども、自分で瞑想に浸っちゃって、「無だ、私は何もない」と。「無の境地に達した」とか言っている――もちろん中にはちゃんと本当に心が止まっている人もいるだろうけど、そうじゃなくてただその「無」っていう無智的なものに心が覆われているだけの状態。こうなってしまうと、われわれはより下に落ちてしまう。修行していい状態になるどころか、より無智が増大してしまう。
 だからね、少なくともしばらくのうちは――しばらくっていうのは人によるけどね、何ヶ月なのか何年なのか何十年なのか分からないけど、しばらくのうちは無になるとか空になる瞑想――つまり禅的なただ何も考えない――こういう瞑想をたくさんやるよりは――やってもいいんだけど、それは全体の中の本当に一部分にしておいて、その他は徹底的に自分を作り変えるとか、あるいは集中力を増すとか、そういう能動的なというかな、自分を作り変える修行に精を費やした方がいいんだね。
 徹底的に自分を作り変える。無智が多いんだったら無智を消して光を増していく。心のけがれが多いんだったら、けがれを浄化して正しい心に変えていく。徳がないんだったら徹底的に徳を積み上げていく。このように自分を作り変えていく修行を徹底的にやって、ちょっと無になる瞑想をする。
 私の経験でも、本当の心の停止とかそういう世界っていうのは自然にきます。準備が整うと――私の一つの経験で言うと、たとえばあまりそういうのをやりたくなかったとしても――つまり何も考えない瞑想というのがあまり好きじゃなかったとしても、例えば神に変身するとか、あるいは瞑想で慈悲の訓練をするとか、そんなのばかりやっていたとしても、ある段階で「さあ、今日も神に変身したり、慈悲をやろうかな……」と心をぐーっとそういうふうに高めていくと、グッと体が固定されて、グワッと心が止まって、バーッとそういう世界に引きずり込まれます。こういう感じで自然に本当のサマーディとか心が止まった状態ってやってくる。
 だから自分で止めようという瞑想ももちろんいいんだけど、それを自分の修行のメインには置かない方がいいね。それは例えば一日の最後にちょっとやるぐらいでもいいかもしれない。いろんな修行やって、最後にちょっと心をすべて止めてリラックスしよう――これはいいかもしれないけど、それを自分のメインにしてしまうと、さっきも言ったように、ちょっと間違うとただ無智が増大して動物的になる可能性もあります。
 ちょっと話がずれちゃったけど、だから眠りというのも同じだね。眠りというのは別に心が止まっているわけではなくて、空無――つまり無というその状態に対して心が動いている状態に過ぎないんですよと。それも心の作用の一つなんだよ、ということだね。

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