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◎無常な心

【本文】
 心に思うことは、水や地や石に描かれた絵のようなものであると知るべきです。そのうち、けがれのある心をはじめとし、最上であり法を求める心を終わりとします。

 このたとえはちょっと分かりにくいんだけど、普通は水のたとえがよく出されるんだね。ここはこれしか書かれていないので推測になるけども、水に描かれた絵ってどういうことかっていうと、水があるでしょ――波立っていない水があります。それに木の棒でぐっぐっとやるわけです。例えば木の棒で、数字の「3」を書いたとしますよ。はい、「3」って書きました。一秒か二秒は「3」が見えるよね。一秒も見えないかな。〇・五秒ぐらいは見えるけども、すぐにぱーっと消える。これがこのたとえです。つまり心なんてそんなものだと。心っていうのは瞬間瞬間移り変わるんです。この移り変わりの速さを、この水に棒で描いた絵であらわす。
 次の砂とか石というのは、もうちょっと長いものをあらわしているんだと思う。砂に描いたものというのは、水ほど瞬間的には消えない。しかし風が吹いたり、手でがーっとやったりすると消える。
 石っていうのはもちろん、石にペインティングっていう意味じゃなくて、がりがりがりがりと石に描いた場合。これも砂や水よりは長持ちするけど、同じようにがさがさやったり、あるいは誰かが踏んだりしたら消えてしまう。
 だからこれは、心はすぐに入れ替わる。しかし若干続くものもある。あるいはそれよりももうちょっと長く続くものもある。でもやっぱり入れ替わっている。これが心の習性だね。心の思い。
 「そのうち、けがれのある心をはじめとし、最上であり法を求める心を終わりとします」――つまり、瞬間瞬間入れ替わっているんだから、次は前よりもいい心、次は前よりもいい心と変えていきなさいと。
 これは瞬間瞬間が戦いなんだね。いったん気を抜くと、どんどん落下します。逆にいうと、上昇の道も一瞬一瞬の積み重ねなんです。長いタイムスパンで見ると、いきなり上に上がっているような気もするんだけど、それは小さな積み重ねの連続なんだね。ほんの小さな悪魔との戦いに勝ちましたと。ちょっといい心が根付きました。はい、じゃあそれをベースにもうちょっといい心を根付かせましょう。
 これは何だってそうでしょう。何かのトレーニングもそうだけど、ここでやらせている慈悲の瞑想もそうだね。「はい、あなたの一番嫌いな人の苦しみを吸い取ってください。そういうイメージをしてください。自分の中の幸せを全部一番嫌いな人にあげてください」――これをやると、みんなはどうか知らないけど、一番最初にそれをやらせると大体の人が、「え? できません」と。あるいは、「ちょっと苦しすぎます」と、こうなる。「じゃあ、できるところからちょっとやってみましょう」と。あるいは、「できなくても、一日一回ぐらいはやってみましょう」と。わたしもそうだったんだけど、「え? ちょっとできない」と。「でもちょっとだけでもいいからやろう」と。「次の日はもうちょっとやろう」と。あるいはものすごく嫌いな人がいるとしてね、「こいつはちょっとまだできませんと。だからまずはちょっとその辺の人から始めます」と。で、「ちょっと嫌いな人をやってみようか」と。「これはできた」と――これをやっているうちに、いつの間にかもうものすごい嫌いだった人にできるようになってくる。そのころにはもう、ものすごく嫌いでもなくなっています、その人を。自分の中に憎しみというのが完全に消えているというかな。じゃあこの人はいきなり憎しみを捨てられたんですか?――そうじゃないわけだね。ちょっとずつ自分の心を戦ってきたわけです。
 だからそのようにしてちょっとずつちょっとずつ自分を変えていって、最終的には最上の心の状態に達してくださいと。
 だから逆にいうと、その逆は駄目なわけだよ。ちょっとでも気を許したら、心はどんどん落下します。で、いつの間にか、「え? あなたどうしちゃったの?」と。「いやあ、分からないけど、いきなりこうなっちゃったんだよ」と。それはあり得ないんです。絶対にちょっとずつ落ちてるんです。絶対ちょっとずつ気を抜いているうちに、「これぐらいいいか……」「いやあ、やっぱりちょっとあいつ嫌だから……」とか、こんなことをやっているうちに、いつの間にか憎しみの塊になっているとか。
 でもここまで落ちたとしても、まだ復活はできるんです。だから――ちょっとかっこいいこというけどね――修行者にとっては、一瞬一瞬が生まれ変わりなんです。一瞬一瞬がリスタートなんです。よく「おれは終わった」とか、「おれはもう駄目だ」っていう人がいるんだけど、それはあり得ないんです。なぜかというと、われわれには遥かな過去世がある。そして遥かな来世がある。つまり遥かな過去と未来がある。もしこれくらいの失敗でおれは駄目だっていうならば、遥か何億年か前に終わってます(笑)。われわれは過去に遥かな失敗を繰り返してきたんだね。しかし素晴らしいことに、心というのは瞬間瞬間入れ替えることができるというシステムを持っている。
 修行者と修行者じゃない人の大きな違いはここにあります。修行をあまりしたことがない人って、この心の無常性をあまり理解していない。でも修行すると、自分が変わっていくということが分かるから、希望が持てるんだね。つまり自分で自分にロックをかけて、おれは変われないっていう観念が強すぎると変われないんです。でも人間は変われるんだと。今わたしはこうだけども、誰だって最終的には仏陀になれるんだと。今のこのエゴに満ちたわたしの心も、練習によって菩薩になっていくことができるんだと。今わたしはこんなに悪いカルマがあるけども、絶対にこれは完全に浄化して仏陀になれるんだっていう確信が、修行していると生まれてくるんだね。
 というのは、自分も変わってくるし、もちろん教えでもそう説かれているし、あるいは周りの人を見ても、「あれ? あんなに怒りっぽかった人が、こんなに優しくなってる」とか、「あんなに無智だった人が、こんなにいろんな現象を正確に見るようになってる」とか、そういうのは自分も周りもどんどん進化していくのが分かる。だから自分が何か失敗して、ちょっと悪い状態になったとしても、ここからでもいくらでも上がれるということが分かるんです。だから、そういう思いを持ってね、日々自分と瞬間瞬間戦って、「最上であり法を求める心を終わりとします」という状態に自分を引き上げなきゃいけない。

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