yoga school kailas

◎本質を忘れるな

 そして、逆に『一方では行動の諸器官を抑制しながら、他方では心を感覚の対象に向けている者は、またおろかな偽善者と呼ばれよう。』
 はい、つまり「行動の諸器官を抑制しながら」っていうのは、つまり例えば戒律を守って、例えば一般の人に比べて禁欲をしてますと。あるいは、テレビとかも観ませんと。あるいはおいしすぎる食べ物を食べないようにしていますと。――という態度をとっていながら、心の中ではものすごく――例えば、欲望を追い求めていると。あるいはそれを表層の意識でそれを気づいていなくても、実際ものすごくいろんなことを追い求めてると。これは偽善者だっていう厳しいことを言ってるわけですね。
 もちろんそういうスタイルに入ることが悪いって言ってるわけじゃない。例えば出家して、現世を離れて修行生活に入ること、これが悪いわけではない。しかし逆に言うと、もしそういう人がいるとしたら、そこに気をつけなさいよっていうわけだね。
 つまり単純に、そのような外的な条件を整えたとしても、心がひたすら欲望を追い求めていたら、それは偽善者にすぎないと。だから本質を忘れるなと。で、その本質というのが、次に書いてある、

『それとは反対に、心で感覚を制御し、何事にも執着せず、行動の諸器官を動かす人は、まことに秀でた人と言われよう。 』
と。

 つまりわれわれが――例えば出家の人たちが外的な状況を、そのように整えるのは何のためなのかって言うと、心において欲望を完全に破壊してしまう、もしくはコントロールしてしまうことが本来の目的なわけだね。
 それには、外的なものを少なくしたほうがいい。もしくは捨てたほうがやりやすいっていうだけなんです。
 だから外的なものを捨てれば解脱するするんだったら、乞食は解脱してるのかと(笑)。ね。
 例えば、こういう人がいる。「いや、私はなにも所有していない。どうでしょうか」と。それは徳がなくて金がないからだと(笑)。その人がもし大金を手にしたら、いろんな物買うかもしれない。徳がなくて金がないから、ただ所有してないと。
 だから外的なものだけ見たらわからないんだね。そうじゃなくて目的は心における、完全なる欲望からの解放だと。あるいは感覚がもたらす、幻影の喜びからの解放だということをまず、念頭におかなきゃいけないっていうか、第一の目的におかなきゃいけないんだね。
 だからこれは理想だけども、――つまり心で感覚を制御し、何事にも執着せずに、行動の諸器官を動かすと。つまり、この世で普通に生きてるように見えながら、全くなんにも執着していない。これが最高の理想ですよと。
 だからこれは対比して言ってるわけだね。この世を捨てたようなふりをしていながらいろんなものに執着している人と、普通に生きているように見えながら全く執着してないで行動してる人と。これは後者のほうが素晴らしい。もちろん、前者のかたちをとって、何も執着せずに生きると。これは素晴らしいけどね。ただ、ここで言ってることっていうのはわかるよね?

◎出家の意味

 で、もう一つ言えることは、出家とかあるいは世を捨てるってことの意味だね。つまり修行しやすい環境をつくるってことだけを言ってるだけであって、本当の意味でわれわれがこの世において、さっきも言ったように、身・口・意の心を止めるってことは不可能なんです。だってどんなかたちにしろ、生きるためには行動しなきゃいけない。
 例えば、もう一回言うと、僧院内に入ったら僧院内の人間関係もあります。「じゃあ、僧院やめた」と。放浪してサドゥーになると言っても、当然生きなきゃいけないから、お供物とかお布施をもらう人との関係がある。あるいは自然の中でね、例えば、生きる中で当然体を動かさなきゃいけないし、その中での「ああ、雨が降ったら嫌だな」とか、「ああ、寒いな」とか、そういうような心の動きがいっぱいある。
 私は前も言ったけど、インドでいろんな修行者に会ってきて、これは別に批判するわけじゃないけども、私の感覚だけどね、インドの修行者の七、八割はビジネス・ヨーギーとかコマーシャル・ヨーギーっていう人達だね。つまり生活の為にサードゥやってるって人がほとんどです。悲しい事にね。で、残りの二、三割の内、さらにその中の半分ぐらいは、ビジネスでやってるわけではないが、ちょっと動物的なヨーギーが多いね。つまりマリファナとか吸って、あるいは吸わなくても――私も以前ガンジス河とかバラナシとかで、一見聖者っぽい人がいて、「ちょっとこい」とか言われて、なんか教えを説いたりしていて、私も興味があったから、そのそばで修行したりして、ずっと一緒にいたりしたんだけど、その人はあんまり修行しない(笑)。一日中ガンジス河で「ああ、ピース、ピース」とか「ハッピー」とか言って(笑)。「えー、これでいいのかな」って。そういうタイプの人もかなりいる。
 残りの中で、まじめに本当に悟りを求めて厳しい修行に打ち込んでる人ってのも、もちろんいるね。で、その中で、もちろん素晴らしい心の達成をしてる人もいるだろうけど、その中でもやっぱりいろんな性格の人がいるね。本人は悟りを求めているんだろうけど、すごく細かいことにとらわれてる人とかね。例えば、話してても、ものすごい言うことはとても崇高で、確かにまじめに修行してるんだなって感じはするんだけど、さっきも言ったように、例えば、今日どういう食事を得られるかをすごく悩んでいたりだとか、自分の持ってる、もちろん持ってるものはわずかなんだけど、例えば、水を入れる物とかね、お供物入れる物とかなんだけど、その汚れをものすごく気にしたりとか、例えば、自分の着てる服の破れをすごく気にしたりだとか。
 だから――例えば、サドゥが一枚の服しか持っていなくて、この人が自分の服が破れてるのをすごく気にしてることとですよ、大金持ちが百着服を持っていて、その人が自分の服の汚れとかを気にするのと、何が違うんだと(笑)。同じなんだね。結局レベル的には。状況っていうか、その人のカルマにおいて、現象が違うだけであって。
 もちろんそのサドゥが、「いや、こんなんではだめだ」と、「私は一切のことに執着しないようにしよう」って思ってるんだったら問題ない。でもそうじゃなくて、何度も言うけども、「自分は修行してるんだ」っていうようなフィーリングっていうか、イメージに惑わされて本質を見失ってしまう場合がある。それは駄目だっていうことだね。だからこれはもちろんわれわれも気をつけなきゃいけない。
 例えば、一応修行のかたちをしていると。あるいは普通の人よりもできるだけいろんなことにとらわれないような――外的に見るとね、生活を送ってると。しかしその、残されたわずかのものの中で、いかに欲望を満たすかっていうのに心が向いてるとしたら、それは単にスケールが小さくなっただけで、やってることは全く変わらないってことだね。だからそのへんは気をつけなきゃいけないね。

◎グナとカルマの関係

 はい。じゃ、ここまでで何か質問等ありますか?

(H)三つのグナとカルマって何か関係あるんですか?

 あ、それは関係あるよ。つまりグナって言うのはさ、この間のヨーガ・スートラの話でも言ったけど、ものすごく大雑把に言うとね、この宇宙には二つだけ実在がありますと。それはわれわれの本質である、真我。で、もう一つは現象の本質である、まあ、プラクリティとかね、自性とかいうね。
 この真我とプラクリティ。この真我っていうのはもう、永遠に不変で、寂静で、智慧に満ちてる。で、プラクリティっていうのは、最初は止まってるんだけど、この幻影の世界、マーヤーの世界を現わす可能性を秘めたエネルギーなんだね。
 だからそれは一つの一番いい例としては、カーリーとシヴァの関係だね。あれはいろんな説があるけど、シヴァが眠っていて、で、その上にカーリーが乗っかってね、カーリーがガーッて暴れてる絵がある。あれは、つまりシヴァっていうのは永遠不変なる真我。つまり完全に寂静なんです。で、その真我と同体のような感じで、そこから立ち現われるカーリーがいる。このカーリーっていうのは、活動の源なんだね――象徴なんだね。
 で、そのプラクリティが実際に宇宙を創ろうかってときに現われるのが、三つのグナなんだね。サットヴァ・ラジャス・タマス。つまり光のエネルギーであるサットヴァ。それから、動きのエネルギーであるラジャス。闇のエネルギーであるタマス。
 この三つが、グアーッて折り重なるようなって、この幻影の世界を創ってるわけです。
 で、カルマっていうのもこの世のものだから。だから真我っていうのは、そもそもカルマと関係ないんです。これはだからまさに仏教、特に密教の見解と全く同じです。つまりわれわれの仏陀の本性っていうのは一切カルマとさえ関係ないんです。でももう一方で――まあ仏教的に言うと、行とか識とか、そういった動きがあって、それっていうのは、われわれの本性とは関係ないとこで、グワーッて動いてるんだね。
 で、本来このカルマの動きと、真我っていうのはなんの関係もないんだけど、カルマによって動いてるものに、真我が、「あ、これオレかな?」って感じで、感情移入しちゃってんのが、今のわれわれなんだね。
 だからグナとカルマの関係って、まさにそういうことです。だからわれわれはもうすでに、真我の意識から離れ――離れっていっても、いつも言うように、今この瞬間もわれわれは真我なんだけど、そこから離れ、この世の固体にね、例えばHさんだったら、○○○○という、曖昧な名前でね、限定された曖昧な、なんとなくある存在に、自我を持ってしまってる。で、この存在っていうのはカルマによってできてるから、カルマの影響を受けるっていうよりは、カルマによって生きてるんだね。で、そのカルマを創りだしてるおおもとが、三つのグナなんです。で、この三つのグナのグニャグニャした動きによって、この世っていうのは止まることなく動き続けてるんです。その支配下にいる限り、われわれは一切止まることは不可能なんだよって言ってるんだね。
 それをイメージで「出家したから私は全て止まってるんだ」っていうのは過ちなんだよと。そこに気づけと。
 いいですか?

(H)グナによってカルマが動いてるんですか?

 そうだね。まあ、そう言ってもいいね。
 グナによってこの幻影の世界が創りだされていると。
 もちろんそこで動いたのはわれわれなんだけど――われわれっていうか、われわれがその動きっていうものを持続させてるんだけど。

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