◎常に本質に心を合わせて
【本文】
『このように回転する法輪に従って正しい行為をせぬ者は、必ずや罪深い生活を送り、感覚的快楽に浸ってむなしい一生を終えることであろう。
だが自己の本性を知り、それに満足し、喜び、それに安らぎ、楽しむ人にとっては、もはやなすべき行為は何もなくなる。
そのような人にとっては、行為しなければならぬ目的もなく、行為せぬことによって失うものもない。
したがって、他の何ものにも頼る必要はまったくないのだ。
ゆえに、行為の結果に執着することなく、ただ己のなすべき義務としてそれを行ないなさい。
なぜなら、無執着の心で行動することによって、人は至高の境地に達しうるからである。』
はい。ここまでというのは、もうさっきから言ってることの繰り返しだけどね。つまり無執着の心で神の意思としての行為をひたすら行ないなさいと。で、それは永遠不変のブラフマン――つまりこれは神といってもいいし、自己の本性といってもいいんだけど――まあ、だからチベット的な言い方をすると、常にリクパに心を合わせなさいと。そうすれば――もうちょっとかみ砕いて言うと――リクパ、あるいは智慧、あるいは神の本性と言ってもいいが、それに心を合わせ続けて生きるならば、絶対に、純粋に、今何を為すべきで、何を為すべきでないかわかるんです。
あのね、私もよくこういうことがある。例えば、いろんなことで迷う。ね。「これどうすればいいのかな?」って何時間か迷ってる。こういうときの最大の対処法は、修行して瞑想することです。修行してしっかり瞑想すると答えが出ます。で、それは出ないときもあるけど、出ないときは自分の瞑想が足りないときで――出たときっていうのは、もうね、それ以外にないんです。もう、一つなんです。「こっちとこっちがあるけど、今日はこっちにしとこうかな」じゃなくて、「あ、なんでこれがわかんなかったんだろう」ってぐらいに出るんです。
で、それはものすごく理想なんだけども、常にわれわれが宇宙の本質、あるいは心の本質に心を合わせ続けて生きていたならば、そのときそのときの、正しい行為、正しい心の持ち方、正しい供養の仕方が当たり前のようにわかるんです。そのような生き方で、一切の行為の結果にも執着せず、行為そのものにも執着せず、生きなさいってことだね。