◎修習と離欲
【本文】
アビヤーサヴァイラーギャーヴィヤーン タンニローダハ
修習と離欲によって、それらは滅尽される。
まあちょっと分け方はどうあれ、とにかく心はいつも動いていると。その心のさまざまな作用は修習と離欲によって滅尽されますよと。この修習と離欲って大事な言葉です。これは頭に入れておいてください。ここは重要ポイントです。ヨーガとは何だろうか――修習と離欲である。これは重要です。
はい、修習と離欲とは何かというのが次から出ているね。
◎不断の努力
【本文】
タトラ スティタウ ヤトノービヤーサハ
心の流れの静止をもたらそうとする努力が、修習である。
サ トゥ ディーガカーラナイランタリヤサトカーラセーヴィトー ドリダブーミヒ
それは長期にわたり、深い愛をこめて、不断の努力によって行なわれるならば、しっかりと根付いたものとなる。
まず修習という言葉自体はアヴィヤーサというんですが、繰り返し行う――つまり不断の努力、繰り返し繰り返し行うことを修習というんですね。
そうすると何でも繰り返し行なえば修習になっちゃうんだけど、ここでいう修習というのは、ここで書いてある「心の流れの静止をもたらそうとする努力」――これを修習と定義してる。つまり最初に言った、心の流れが止まってしまえば、そのときに真我が現われますよと。「そのためにじゃあ心を止めよう」と、この努力。その一回二回じゃなくて、日々繰り返し繰り返し行うこと――これが修習なんです。 これは現実問題としていえば、ヨーガ修行のすべてがそれに当たる。ヨーガ修行のすべてが、あるいは仏教修行も含めてね、あらゆるものは繰り返されなければいけない。
◎すべては修習
これもいつも言っていることだけどね。結局今のわれわれは、この肉体もそうだし、精神もそうだし、カルマもそうだけど――過去の繰り返しでできてるんです。過去のいろんな生き方、いろんな思い、いろんな言葉の繰り返しで、今の「これ」があるんです。
例えばK君だったら、過去のK君、あるいは過去世のK君から積み上げてきた繰り返し繰り返しで、今この瞬間のK君がいる(笑)。でも、これは流動的なんです。今もK君は動いてるでしょ。分かるよね、このシステムっていうのは。
ずーっと動いているんです。ずーっと動いているんだけど、今動いているこの現象は、Kっていう現象は、過去の積み重ねなんです。でも今も何かを積み上げているんです。今も何かを積み上げているこれが、未来のK君を作るんです。
でも普通は過去の傾向に左右されるんだね。過去ずーっと来ているから今も同じことやっちゃうんです。だから未来もあまり変わらないんです。これが普通。でもヨーガ修行者はこれを変えようとするんです。
それはみんなも分かるよね。ヨーガとかやると性格が変わったりするけど、例えば一番分かりやすい例で言うとね、ヨーガ教室に来るまではいつも怒っていましたと。でも怒らなくなりましたと。この「怒っていました」から「怒らなくなりました」には、何らかの修習があるんです。それは肉体的なものでいうと、アーサナをやったり呼吸法やったりして、物理面からまず神経とかが整ってきて、あまり怒りづらくなると。でもこれも修習でしょ。つまり一回二回じゃ変わらないわけですよ。今日アーサナやって呼吸法やったからって、明日から怒らないというわけじゃない。今日もやって明日もやって、あるいは週二回とかでもいいけども、とにかく繰り返し繰り返しやっているうちにその人の呼吸とか神経とかが落ち着いてくる。あるいはここでそういういろんな教えを学んで、「怒っちゃ駄目なんですよ」っていうことを聞いたとして、「そうか。じゃあ怒らないようにしようかな」――一回じゃ駄目です。二回三回と「怒らないぞ、怒らないぞ、怒らないぞ」とやっているうちに総合的にね、肉体面あるいは精神面から「怒らない」という状態ができあがるわけだね。だからすべては修習なんです。
◎ヨーガ修習の力
さっきも、修行するんだったら自分を作り変えることに重点を置いた方がいいと言ったけども、それも修習だね。一回二回じゃ変わらない。
例えば行法をやることもそうだし、経典、教えを学ぶこともそうだし、あるいは詞章とかマントラを唱えることもそうだし、いろんな瞑想をすることもそうだし、あるいは実生活で怒らないとかいろんな訓練をすることもそうだし。それを今日だけやるとかじゃなくて、ひたすら毎日毎日毎日繰り返し繰り返しやること。これが修習なんです。
だからヨーガというのは修習といっても差し支えない。私がいつも新人の人によく言う言葉としてね、「ヨーガっていうのは――ここでいうヨーガというのはアーサナとか呼吸法のことだけども――ヨーガというのは、たまにたくさんやるよりも、ちょっとでもいいから毎日やってください」と。つまりヨーガというのは、たまにアクロバティックなことをやって楽しむものじゃなくて、作り変えようとしているんです。作り変えるには毎日やらないと駄目なんです。毎日少しずつでもいいからやって、例えば呼吸法でいったら、ゆったりとした1:4:2の呼吸を繰り返すと。これをたまにやっただけだったら何も変わらないけど、毎日やってたら、普段浅くて早い呼吸の人が、一日のうち五分でも十分でも深くてゆったりした呼吸になる。で、またすぐに浅い呼吸に戻るんだけど、でも毎日それをやっているとね、その人の日常全体の呼吸も影響されるんです。だんだんだんだん普段の呼吸も深くゆったりとなってくる。これが修習なんだね。つまり日々の繰り返しによって全体が変わってきてしまうんです。
もちろん精神的なものもそうだよ。さっきの「怒らない」とかもそうだけど、自分の性格っていうのは絶対的なものじゃないんです。「私はこういう性格なんだ!」って人は思いがちだけど、それは過去にいろんなことをやってきた結果として今があるだけであって、今も動いているんです。確定的な人って誰もいないんです。例えば嫌悪が強い人がいたとして、絶対的に嫌悪そのものっていう人はいないんです。過去からの習性で、ちょっと嫌悪が強いっぽくなっているかな――というのに過ぎないんです。で、それを今からいろいろやっていけば、例えば一年後には慈愛に満ちた人になるんです。でもこれはどっちも実体がない。どっちもただの修習だから。
例えばK君が「嫌悪が強い!」ってみんなから言われたとして、一年後にK君に会ったら「K君は慈愛の塊だ」ってみんなから言われるかもしれない(笑)。じゃあ、どっちが本当のK君なんだろうかといったら、別にどっちも本当じゃないんです。修習によってころころ変わっているに過ぎないから。
でも普通は、過去世からのものすごい強い修習の流れがあるから、なかなか自分を変えるって難しい。でもヨーガの力によって、スムーズに変わっていくんだね。
スムーズにといってももちろん、ぱっと変わるのは難しいかもしれないけど、普通に何もしないで自分を変えようとするよりは、例えばヨーガのいろんな行法をやったり、あるいは瞑想したり、あるいはいろんな教えを学んだりとか、こういうのを総合的にやることで、自分というのはすごく変わっていく。
◎修行の大きなメリット
ヨーガとか仏教とかの修行をやることの一番大きなメリットは、「自分は変わるんだ」ということが分かることだと思うね。これは私がいろんな人を指導していて思うんだけど、真剣に修行すると人間ってかなり変わります。でも修行しないと、やっぱりなかなか変わらないんだね。で、変わらないっていうことは、変わった経験がないから、「変われない」って思っちゃっているんです。「人間っていうのは変われないもんだ」と。「私はこうなんですよ」と。もうそこから出ようとしない。そういう選択肢がないというか。自分はこうだって決まって、そこから条件を変えようとする。「これはしょうがないんですよ」と。「だからこうしてください」とか。
ではなくて、ヨーガとかやっていると変われちゃうんだね。「あれ? こんなに変われるんですか」と(笑)。「まるで一年前の自分と全然ちがいますよ」と。
だから、このメリットは、「じゃあ次も変われるな」っていう肯定的な意識を生むんです。だからこの人はどんなに自分の中にけがれを発見しても大丈夫です。変われるって分かってるから。でもその大きく変わった経験がない人っていうのは、「変われない」というふうに思い込んじゃっている。そういう人は徹底的に早く修行を進めて、一個でも二個でもいいから自分が変わったという経験をしなきゃいけない。
ただもう一つの問題はね、変わっているのに否定的な人もいる(笑)。こういう人ってよくいるんだけど、「私全然変わってないんです……」。で、周りから見るとずっこけるんです。「え? 君、相当変わったよ」と(笑)。「超変わったじゃん、全然違うよと」(笑)。で、一つ一つ言っていくと――「あ、確かにそうかもしれませんね」。でも否定的だから、まるで自分がずーっと変わっていないように見える。でも冷静に冷静に考えると、相当変わっていたりする。
だからそういうところは修行者は、喜んでいいんです。ここら辺が難しいところで、修行者は傲慢になっちゃいけない。でも、認めるところは認めて喜ばなきゃいけないんです。あと謙虚にならなきゃいけないんだけど、卑屈にはなってはいけない。すごく難しいところだね。
得たものは得たと喜べばいい。必要以上に傲慢になる必要はないんだけど、自分が得たものは得たと。変わったものは変わったと喜ぶことで、自分の中にそれに対しての確信が出ます。「人は変われる」と。「ヨーガの力はすごい」と。それによって、また次に新たな問題が生じた時に、それも変えられるということに対する希望というか確信が出てくるんだね。それがヨーガ修行の一つの大きなメリットだと思うね。あまりそういう経験がない場合は、何度も言うけども、なかなか自分の殻を破ることができない。破れないという発想が最初にあるから、当然破れない。