yoga school kailas

◎何のために行動しているか


◎何のために行動しているか

【本文】
『至高者に行為の結果を供養し、執着心を捨てて自らの義務を遂行する人は、
いかなる罪悪にも染まり汚されることはない。蓮の花が水にぬれることのないように。』

 はい。これはまあ、同じですね。自分の行為の結果を常に至高者に――至高者、ここでいう至高者っていうのはまあ、クリシュナのことだけども、この全宇宙に広がる完全なる真理といってもいいでしょう――それに対して供養し、執着を捨てて自らの義務を遂行すると。ここでいう義務っていうのはもちろん、さっきも言った、神から与えられた、今自分がなすべきことだね。それはもちろん、人々を救う、救済に関係することだったらもちろん一番素晴らしいけども、それ以外でも、自分が今やらなきゃいけないことっていうのは全部神の意思なんだということだね。
 例えば日本の場合は、修行したくてもやっぱ働かなきゃいけない。でもその働かなきゃいけないっていうのは、何のために働いてんだっていう場合、まあ、例えばEさんを一つ例にとった場合ね、Eさんはすごく修行したがってると。もう、出家までしたがってるぐらいで。ということは、Eさんの人生の一つの――一つっていうか大いなる目的っていうのは、修行なわけですよ。修行っていうのはつまり、自分が悟りたいと。あるいは、できれば多くの人を救いたいと。そのためには、この体を、あるいは同じ修行者である奥さんも含めて、この体を維持するために食べなきゃいけないし、で、住居も必要だし。あるいは例えばヨーガ教室に通うお金も必要だし、いろんなものが必要になってくる。よって、働かなきゃいけない。ということは、この働くという行為は、神への奉仕行と同じなんだね。何をやっていてもだよ。
 だから結局その人が何を目的に、何を動機に、何を思いやってるかで変わってくる。
 例えば、こういう話があります。五体投地。五体投地とヒンズースクワットは何が違うんだと。まあ、実際のインドの体力の鍛え方には、ヒンズースクワットと腕立て伏せを混ぜたみたいなやつがあって――こう、こう、こうやって、こうやって、こうやってまたこう立ち上がって、何かこう礼拝みたいにするような鍛え方があるんだね。これは別にみんな修行としてやってんじゃなくて、全身の筋肉のトレーニングとしてやっている。これと、チベット人が五体投地べたーっとやってんのと、何が違うんですかと、ね、いった場合、当然前者は、「さあ、おれは――例えばレスラーだったら――強くなって大会で優勝しよう」と思ってやってる。で、後者は、ある人は、「いや、私は全てをブッダに捧げて悟りたい」と。あるいは、悟りたいまでいかなくても、帰依したいんだと。あるいは、「いや、この徳によってね、全ての人を救いたいんだ」と思ってやってる。体の動きは同じだと。でも後者は徳になり、修行が進みますと。前者は、ただこの物質世界と強く結び付けられる(笑)。非常に逆の結果が出る(笑)。
 全く同じで、例えばじゃあ、工場に行きましたと。工場に行って、例えば、そうですね、機械をガチャンとやる――ガチャンとこう右手で下ろす作業をしてたとしますよ。ガチャン、ガチャン。でもその人は例えば、さあ、給料早くもらってゲームを買おうと。あるいは車を買おうと思ってやってる。それを動機として働いてる。あるいはそうではなくて、別に目的はないんだが、まあ生きていかなきゃいけないから、まあしょうがないから働いてるんですっていう人もいる。あるいはそうじゃなくて、例えばEさんみたいに、自分の働く理由っていうのは、修行と、それから救済っていうものを成立させるため、それだけに過ぎないと思ってやってる。そうするとこの右手のこの行為が(笑)、第一番目の人は、自分を動物界とかに落とす行為となり(笑)、第二番目の人は、特に何の意味もないと(笑)。第三番目の人は、これが修行になる(笑)。
 まあEさんとかの場合、例えばこうパソコンを打つと。これが修行になる(笑)。だから全ては、全ては動機であり、全ては何に向かっているかなんだね。
 例えば歩くという行為をとってみましょう。修行しようと思って道場に向かって歩くと。煩悩を満足させようと思って、例えばソープランドとかに向かって歩くと(笑)。同じ歩く行為だよね(笑)。でも前者は、素晴らしい、歩くこと自体が徳になります。後者は歩くこと自体が動物界への道になるっていうか(笑)。だから全てがそうなんだね。

◎カルマ・ヨーガのコツ

 だからそれは、一つは動機だけども、一つは、それをやってるときにそのように思念すること。これが非常に重要です。だからこれはみなさんがいろんなことやるときのコツだね。例えば自分は修行したいし、真理っていうものに人生を捧げたいんだが、でも働かなきゃいけないと。そういうときはもうそれを、100パーセントそういう思いでやるんです。これは修行だと。神から与えられた修行だと。これによって、自分も、あるいはKさんも修行できるし、あるいは、ねえ、お布施もできるかもしれないし、あるいはヨーガの代金も出るし、そのためにやってるんだと。 で、それはあまりにも固い頭だと、仕事のときは、仕事のイメージっていうか仕事の概念に支配されてしまって、ビジネスマンになってしまう(笑)。こうなってしまうと、それはそれで悪ではないんだが、完全にその、何ていうかな、もったいないんだね。その時間はビジネスマンになってしまうっていうか。常にあらゆる行動を、神への捧げ物として考えるっていうのはそういう意味なんだね。
 で、それはもう最初からもう、さっきも言ったようにプログラミングされてるんです。だから自分で考えてああだこうだする前に、自分にやってきてる現象をいかに受け入れて、それを智慧によって「さあ、どのような意味でこれは神への捧げ物なんだろうか」って考えて、100パーセントそれに没頭するっていうか。で、それでコツというか――としては、しっかりそれにイメージを使ってね、「ああ、こうなんだ、こうなんだ」って思いながらやる。そうすると、全ての人生が、何ていうかな、光り輝いてきます(笑)。そして実際に、自分にも分かりやすい感じで、物事が神の意思として回るようになります。
 あ、本当に神の意思ってあるんだなと。あ、本当にこうこうこういう感じで私を導いてくれるんだなっていうのが、最初はね、半信半疑なんです。最初は思い込みに近い感じで半信半疑なんだけど、だんだん非常に分かりやすくなってくる。「あ、そういうことか」って感じだね。だからこれがカルマ・ヨーガの一つのコツみたいなもんだね。
 だから自分を投げ出すっていう一つの前提条件が必要だね。自分を投げ出して、私は神の道具として、あるいは神の意思として、ただ、何にもとらわれずに淡々とこの世で生きましょうと。それをやってる人には、大きな恩恵がある。
 はい。で、そのように生きる人というのは、まあこの『蓮の花が水にぬれることのない』っていうのは、仏教的にいうと、よくいわれる「泥沼の中の蓮華」というのと同じで、このさまざまな世俗の中にいても、全くそれに影響されない――されずに、聖者として生きることができるよってことだね。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする