◎何かをせずにはおられない
そこでこのクリシュナが言ってるのは、
『行為を避け、何もせずにいたとしても、人はカルマから解放されるわけではない。
また形だけ出家したからといって、サマーディの境地を達成できるわけでもない。
どんな人であろうとも、一瞬たりとも何もせずにじっとしていることはできない。
なぜなら、人間は生来の性質(グナ)により、どうしても何かをせずにはおられなくなるからだ。』
この間もちょっと勉強会で言いましたが、われわれの行動というのは、身・口・意の三つがあります。もうこれは何回も言ってるね。
じゃあ、Kさん。身・口・意はなんでしたっけ?
(K)肉体・言葉・思い。
肉体・言葉・思い、まあ、心ね。
つまり肉体の動き、それから、言葉の動き、そして心の動き。
この三つの動きっていうのは、我々は止められないんです。実は。それがここで書いてあることだね。
『生来の性質(グナ)により、どうしても何かをせずにはおられない』
と。
何かをせずにはおられないっていうのは、例えば、「いや、そんなことありません。私は怠け者だから、一日中家にいても耐えられます。」――そうこと言ってるんじゃない(笑)。 ね。それはただつまり、怠けるっていう行為をしてるんです。だらだらするっていう行為をしてる(笑)。ね。
◎勘違いの危険性
まあ一番大丈夫なのは、言葉だね。言葉は意思の力で止められます。よって、無言の行っていう修行があるんです。つまり無言の行っていう修行は、心と体を止めることは不可能だが、言葉は意思で止められるから、この三業の身・口・意のうちの少なくとも、口の業を止めてしまうっていう修行だね。でも体と思いは絶対止められません。体は、まあ細かい事言えばだよ、怠けてるといったって、寝返りはうつだろうと。ね。あるいは腹が減れば食事に行くだろうと。あるいはトイレに行きたくなるかもしれない。あるいはもっと細かい事を言ってしまえば、心臓は動いている。つまり肉体の動きっていうのは一瞬たりともわれわれは静止することは不可能。もっと言ってしまえば、原子が動いている(笑)。ね。だから肉体を停止するっていうのは全く不可能。それは、グナと呼ばれる、この現象世界を創り出している根本エネルギーの働きなんだね。それがある限り、われわれはこの肉体の動きから――まあ今言ったのは非常に細かいことだけど、実際はこんな細かいことではなくて、大きな動きもわれわれは止めることが普通できない。
例えば、まあこれは性格によるけどね、一日中、瞑想してくださいって言われて、できる人がどれくらいいるかだね。素質がある人は別だよ。例えばミラレーパのある弟子は、少年時代にミラレーパの元に行って、ミラレーパが「この子は素質のある子だ」って言って、「君、私が一つ瞑想法を教えるから――まあ瞑想法って言うのは、非常に単純なものなんだけど――それをちょっとやってみなさい」って言って、少年が帰って……で、その少年のお父さん、お母さんがミラレーパの所へやってきて、「うちの子が帰ってないんだけど、あなたのところに行ったみたいだけど、知らないか?」って言ったら、「いや、七日前に来たけど知らないよ」と。
それでみんなで捜索したら、原っぱで瞑想してた。「お前七日もなにやってたんだ」って言ったら、「え? 七日? いや、ちょっとだけ瞑想しただけですよ」と。でもその少年が空を見たら、瞑想を始めた時刻よりも、前の時刻になってた。で、混乱して、「一体何があったんだ!」って。
つまり彼はものすごい集中力があったから、いったん瞑想に入ったら不動の状態で、ずーっと瞑想し続けられたんだね。
だからそういうものすごい集中力がある人は別だけど、まあ、合宿とかやってもわかるように、「はい、瞑想に入りましょう」――ま、30分経つと、「ああー」っと始まったりして、一時間も経つと「おおー」ってこう、まあ、痛いのはしょうがないけどね。動きたくなってしまう、っていうかね。だから体の活動を止めるっていうのはなかなか不可能だね。
で、心も全然不可能です。心はみなさん瞑想して、止まってるような感覚はあるかもしれないけど――もちろん、短い時間は止める事は可能です。でもそれもかなり高い段階だと考えてください。みなさんが考えている、心が止まったっていうのは、それは止まったようなイメージを動かしてるんです。本当に止まってるわけじゃない。映画が終わりましたっていう映画を観てるようなもんです(笑)。映像で、「はい、映画終了」っていう幕がその映像の中でひかれてるっていうか。そういう感じだね。つまり心が「うん。オレは心が止まってる」っていうイメージを繰り返してるだけなんだね。本当に止まってるわけじゃない。
もちろん本当に止まることもできるよ。それはでも、かなりもうちょっと先の段階だね。
それは短い間はみなさんでも、もしかしたらできる人がいるかもしれない。つまりものすごく集中して、呼吸法とかムドラーとかいっぱいやって、で、まあ数秒間、もしくは一分間ぐらい、本当にその、寂静の止まった境地を体験できるかもしれない。でもそれを持続させるのは難しいね。
それから、いつも言うように、止まった寂静の境地と、タマスは違います。タマスっていうのは、本当は動いてるんだけど、闇に覆われてわかんなくなってるだけです。これも止まってるとは言わない。本当は内側ではいろいろ動いてるんだけど――だから夢とかも同じだね。よく夢を見ないって言う人がいる。本当に、クリアな意味で夢を見なくなったらかなり高い段階です。でも普通は夢をいろいろ見る。しかし、タマスだから覆われて夢を思い出せない。だからこのへんの勘違いがあるんだね。
だからよく日本の瞑想教室とか禅とかでもそういう勘違いっていっぱいあると思う。「なにも私は心に雑念も浮かびませんでした」と。それは、浮かばないっていうイメージを繰り返しただけかもしれないし、あるいはタマスで覆われてるのかもしれない。
本当のその、寂静の境地っていうのは、ちょっとでも体験できたらそれはものすごい素晴らしいことです。そこから得られるメリットって非常に大きい。だからそれはまあ、目指すのは素晴らしいんだけど、なかなかそれは難しい。
はい。で、インドのサードゥとかもそうだけど、あるいは仏教の修行者とかもそうだけども、さっきも言ったように、出家して、行為をしない、つまり現世的行為をしないっていう状況に身をおいてるという形に満足してるけども、実際は例えば、「虹の階梯」とかいろんな話でも言われるけども、例えば僧院に入ったとしたら、僧院内でのいろんなことがある。僧院内の人間関係があったり、僧院内で地位を得たいと思ったりとか、つまりまたいろんなカルマの動きが始まってるんだね。あるいはサードゥになったら、サードゥになったで、「ああ、今日なんか供物もらえるかな」とか(笑)。ね。いろんな心の動きが始まる。
だからもちろんそのような状況を作り出すこと、出家っていう状況を作り出すことは素晴らしいことなんだけど、それがゴールじゃないんだね。ただそれによって満足してる人っていうのは、それは愚かだと。