◎どちらをとればいいか
はい。じゃ、この辺で説明は終わって、質問とかあったら最後に聞いて終わりましょう。
何か質問ありますか?
(K)何か行為をしていて、つまづくもしくは否定されるってことが重なったときに、「これはやるなってことの意味かな」っていうふうに考える場合が多いんですけども、先程の話だと、「これはやるな」ではなくて、「これでもか、これでもか」って叩かれたことを打ち破ることによって導かれるってお話がありますね。これはどっちをとったほうがいいんでしょうか?
それはだからね、確かに両方可能性があるんです。
それは最初の段階では、間違えてもしょうがない。それはさっきも言ったように、大前提として必要なのは誠実さ。で、誠実さがあって間違うかもしれない。で、次に間違わないために、教えを学ぶってことが必要になってくる。教えを学ぶっていうのは、仏教でもヨーガでもいいし、そういった基本的な教えをしっかり学ぶと。
だから日々いろんなそういうことが起きるよね。日々いろんなことが起きる。そして日々しっかり教えを学び、その教えを実践するっていうのを繰り返す。で、これによって少なくとも教えのセオリーというか、そういうのが段々わかってくる。そうなるとちょっと間違いが減ってきます。
で、間違いが減ってくると、成功したときの喜びとか感覚とかが段々分かってくる。そうなるとより間違いが減ってきます。
だから最初は確かにこう、どっちがいいのかっていうのがあって、間違ってもしょうがないんだけど、少なくても誠実に――例えば本当はこっちだと思ってるんだけど、こっち嫌だからこっちとるっていうのは駄目だと。こっちだと思うんだったらこっちを全力でとればいい。それがまあ答えなのかもしれない。カルマ・ヨーガっていうのはね。それで間違ったとしてもね。
でも何度も言うけども、教えが入ってないとね、永遠に間違う可能性もあるんですよ。例えば基本がね、できてない場合、つまり教えよりも自分の観念の情報の方がものすごい強い場合、全部観念で考えちゃうから、永遠に間違い続ける(笑)。これじゃ駄目なんだね。教えってエッセンスをバッと入れてあげなきゃいけない。
だから今のストレートな答えにはなっていないけども、もう一回言うと、日々教えを学び、考え、実践するという一つのパートがあって――で、まあもう一つはそうだな、私の立場から言うと、しっかりヨーガ修行するっていうのは必要だと思います。なんでかっていうと、ヨーガ修行っていうのは肉体面からわれわれの智性を開こうとするんです。つまり現代においてはもう肉体がボロボロだから、肉体をまず気を通してあげて――つまりヨーガ修行やった後とやる前とでは、智性の澄み方がちょっと違ってくる。だから現代においてはしっかりヨーガ修行もやって、日々教えも学んで、そういう形でクリアーな意識に近づけておいて、いろんな現象にあたるわけです。
そうすると、正答をとりやすくなる。だからどっちがいいかっていうのはケースバイケースになっちゃうから、どっちとは言えないんだね。どっちの可能性もある。でも本当に誠実に神に恥ずかしくないっていう方をとったらいい。
カルマ・ヨーガの一つの発想っていうのは、これも前も言ったかもしれないけど――例えばさ、われわれっていうのは人にどう思われるかってすごく気にしてるよね。人によく思われたいとか。こういうこと言ったら馬鹿にされるかなとか。非難されるかなとか。でもね、これはシャンティデーヴァの言葉で素晴らしい言葉があるんだけど、これはね入菩提行論読んだ人は覚えてるかもしれないけど、
「ある者は私を非難する。だったら私は褒められてどうして喜ぶべきか。
ある者は私を褒め称える。だったら私は非難されてなぜ悲観すべきか。」
と。ね。
つまり世の中の人っていうのは私を非難する人もいれば、逆に褒め称える人もいっぱいいると。褒め称える人もいるんだから、非難されて悲しむのはおかしいよと。ね。非難する人もいるんだから、褒め称えられて喜ぶのはおかしいよと。
つまりみんな間違ってるんです。私ね、これもまただいぶ前だけども、ある悟りを得たことがある(笑)。これはみんなに参考になるかもしれないからちょっと言うとね――みんな私のことをああだこうだ思ったり、言ったりするけど、全員間違っていると。なぜなら私は真我だから(笑)。
つまり「あの人は頭いいね。頭悪いね。」「ああ、怒りっぽいね。いや、やさしいね。」――いろんなことをいろんな人が言うけど、全部間違ってます。それはなぜかと言うと、私のカルマの動きを見ているだけだと。私の正体は真我だから、みんな間違ってると(笑)。ね。そういう発想(笑)。わかんないか?(笑)。
そういうことに気づいたことがあって、「あ!みんな間違ってる。」――で、私も間違ってるんです。私も私の真我に気づいてないから、私が私に感じてる、卑屈さとか逆に慢心とかも全部間違ってる。だって真我だから(笑)。私も間違ってるし、みんなも間違ってる。
だからそれに気づいたときに私の表面的なプライドとか、いろんなことに対する悩みが消えたんだね。「あ。みんな間違いなのか」と(笑)。例えばね。
で、そんなことはどうでもいいんだと。なぜならばみんな間違いだから。でもただ一つわれわれが気にしなきゃいけないことがある。それは何かと言うと――ちょっとこれはエゴを利用した修行法なんだけど、「神にどう思われるか。」――つまり、神にだけカッコつけるんです。偉大なるクリシュナでもいいし如来でもいいけども、それをひとつおいて、この方にだけはよく思われたいって思うんです。
で、ここで問題が生じます。その辺の人なら騙せます。カッコつければいいんだけど――つまり心の中では腐ってても、いいカッコしてれば騙せるんだけど、神だけは騙せない。神だけは、こっちが本当に誠実であるか――つまりさっきも言ったように無智はしょうがない。無智はしょうがないんだけど、少なくとも現段階では誠実に神に全てを投げ出してるかどうかっていうのはお見通しだと。よって、神の前でいい子になって、神にカッコつけるには、本当に投げ出さなきゃいけない。そういう気持ちで神に対してカッコつけるっていうかな。それがバクティ・ヨーガの発想だね。
だからそういう発想してたら、何度も言うけど、間違うことはあるかもしれないけども、段々、段々、私の経験では、自然に現象がいい方に導かれます。
バクティ・ヨーガの実践してるとね、勉強会ではいつも言ってるけども、本当におもしろいように、現象の背後に神を感じられるようになります。本当にもう思い込みとかこじつけじゃなくて、タイミングよく、ポンポンポンって来るんだね。「あれ?なんでこうなるの?」って感じで、自分が導かれてるとしか思えないような現象がパンパンと来ます。これによって、よりそれに対して信が増して、神の意思を感じられやすくなる。っていうところはあるね。
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