◎すべては心の鏡
◎すべては心の鏡
で、もうちょっと前段階の話で言うと――これはよく大乗仏教でよく言われるように、すべての衆生っていうのは自分の心の現われに過ぎないっていう見方もできる。つまり例えばここに一人の人がいて、これはいつも言っている話だけどね――例えばこの今何人かの――八人ぐらいのメンバーがいて、そうだな、例えばRちゃんとT君がやってきて、それ以外の六人のことを見たときにね、この六人のいる世界、この雰囲気とかをどう見るかっていうのは、RちゃんとT君ではまた全然違う。今カイラスにいる人ってみんな似てるから――というかそりゃ似るだろうけど(笑)。でも細かく言えば違う。世界の見え方が違うんだね。
人間てさ、特に日本人てさ、共通項を求めたがるから――「ねえねえ、Cちゃん、あの人こうだよね」とか言って相手が「そうだよね」って言うと、納得して「ああ、そうだよね」って、こういうのが好きなんだけど(笑)、でもそういうやりとりがなかったら、本当はみんな、世界って見え方結構違うんです。われわれは小さい頃から共通項を求め合ってるから、だんだんだんだん合ってきちゃうんです。「ああ、そうだよね」って感じで世の中も同じように見えてるんだけど(笑)、本当は違うんだね。スタートから。
もちろん人間だから似てるっていうのはあるんだけど。同じ人間のカルマを持っているからね。でも本当はそれぞれ見え方が違う。
で、その見え方の違いっていうのは何かっていうと、これもいつも言うように、自分の中にあるものしか見えないんです。もうちょっと別の言い方すると、自分の中に強くあるものは強く見える。だから人に不満ばっかり言う人っていうのは、自分の中にそれと同じようなけがれがたくさんあります。例えば人のプライドが気になる人っているよね。ああ、あの人何であんな言い方するのと。プライド高いねと。そう言っている人こそが、プライドがかなり高い。
例えば誰かがね――例えばYさんがちょっと偉そうな言い方をしたとして、例えば私が「ええ!? 何だあの言い方!」って思って、でもCちゃんはまったく思わないと。「え? 別に何とも思わない」と。で、例えばTさんはちょっとだけ思ったと。「まあそういう感じもするけど、別にそんな気にする必要はない」と。この三者っていうのは、プライドの高さの程度によって変わってくる(笑)。
じゃあYさんは本当はどうなのかっていうと、それはまた別問題なんだね。Yさんは本当にプライドが高いのかもしれないし、別に高くなくてちょっとそういう表現をしただけなのかもしれない。でもプライドっていう一つのポイントに反応するんだね。持ってる人がね。
だから私がもしプライドが凄く高かったら、Cちゃんから見たらYさん全然プライドないのに、私からはプライドの塊に見えるんです。で、それが別の人にとっても同じことが言えるから、私にとってこの世界は「みんなプライドが高いな」ってなるんです(笑)。これがすべては心の鏡だってことだね。
◎修行が進めば幸福に
だから結局――じゃあ自分に無いものは見えないのかっていうと、見えないんです。だから自分の中にプライドがもし仮にゼロの人がいるとしたら、その人にとっては世の中にプライド高い人いないねと(笑)。そういうことになるんです(笑)。
ただ、救済者の場合は別だよ。救済者の場合は、仏陀とかの場合は、全智者とか世間解とかいうように、自分はもうゼロなんだけど、人を救うために人のことを完全に観察して、それによって悪い部分を治してあげるっていう作業があるからそれは別なんだけど。個人の修行っていう意味で言ったら、自分のけがれがなくなればまったく他者にけがれは見ることもできなくなる。
だからその人はある意味ハッピーだね。だから修行っていうのは一つ言っておくと、修行進めば進むほどハッピーになります(笑)。ハッピーになるっていうのは、楽しくて幸せになるはずです。
ダライ・ラマ法王とかやっぱそういう感じがするよね。ダライ・ラマ法王とか話してるところ見てるとね、一人で笑ってる(笑)。何かあまり面白くないこと言ってるんだけど、楽しそうにずっと笑ってたりして、――ああ、心がだいぶ解放されてるんだろうな(笑)――あまりないんだろうね、人に対するけがれた意識とかね。やっぱり修行進むとそうなってくる。だからそういう考え、そういう思想もあるね。