◎さまざまな修行のパターン
◎さまざまな修行のパターン
【本文】
『世の中には、天の神や地の神を喜ばせるために供養するヨーギーもいる。
ブラフマンの火の中に己をささげて供養する人もいる。
また聴覚その他の感覚を綜制の火の中に投じて供物とする人もいる。
音その他の感覚対象を供犠の火壇に供える人もいる。 』
はい。まあちょっとこれは、ちょっとずつ説明するけども、ここからざーっといろんな修行のパターンが述べられています。
まず、「天の神や地の神を喜ばせるために供養する」。これは日本でもよくやるようなことだね。地の神っていうのは、例えばここの山の神様とか、ここの神社の神様とか。そういう人間世界と関係のある神様。あるいはそうじゃなくて天の神。こういうものに対していろんな供物を捧げたりとか、そういうことをやる修行者もいますよと。
「ブラフマンの火の中に己をささげて」っていうのは、これはどういう意味か断定はできないけども、ここでいうブラフマンっていうのは、宇宙の絶対真理なので、修行によって宇宙の絶対真理に到達する修行をするっていうことかもしれない。
次、「聴覚その他の感覚を綜制の火の中に投じて」云々。綜制ってね、これ何かっていうと、サンヤマっていうんですが、精神集中・瞑想・サマーディのプロセスです。簡単に言うと、サマーディといってもいいんだけど。深い瞑想状態ね。つまり、聴覚その他って五感のことだけども、私の五感っていうのが外側に散らばって、いろいろ煩悩に振り回されているわけだけど、それをすべてぐーっと内側に持ってきてサマーディに入ると――ということを、綜制の火の中に投じて供物とするって表現してるんだね。
次も同じだね。音、その他の感覚対象。これはつまり、感覚の五感の方じゃなくて、五感の対象。これをサマーディの火の中に集中によって消し去ってしまうというか。
◎真我への綜制
【本文】
『すべての感覚器官の働きや、プラーナの働きまでも、
真我への綜制によって灯された完全なる叡智の火の中に投げ入れる人もいる。 』
はい。これはつまり真我――自分の本性に対する精神集中。それによって生じるサマーディ。そして叡智。これに成功すると、このプラーナとかあるいは感覚といったようなものが、消え去るんだね。少なくともその状況にあるときは。これを、それに供養するっていう表現をしている。つまりこれは、ここでいくつか書いたのは、まさにヨーガの話です。特にラージャ・ヨーガ。ヨーガ・スートラとかであらわされるような、ヨーガ修行によって悟ろうとする人たちの表現だね。
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