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解説「ミラレーパの十万歌」第三回(9)

◎心は空

 村人たちは、ミラレーパをニャノン・ツァルマの村に案内し、布施と奉仕をしました。
 後援者レセブムは言いました。
「尊師よ、私たちにとって、あなたが生きておられて、無事に村に戻られたと聞くこと以上に、うれしいことはありません。
 以前にもまして、お顔は輝き、エネルギーに満ち、お元気そうに見えます。隠遁中は、女神たちが布施してくれたのでしょうか?」

 ミラレーパは、歌って答えました。

 祝福の賜物は、ダーキニーたちによって与えられる。
 サマヤの甘露は、豊富な滋養物である。
 誠実な帰依によって、感覚器官は養われる。
 弟子たちは、このように神々の行為を得る功徳を蓄えている。

 この心というものには、実体がない。
 それは空であり、最小の原子のような大きささえない。
 見る者と見られる対象がともに消滅するとき
 真に「見ること」が悟られる。

 はい。ちょっとね、時間だいぶ過ぎちゃったんで、パッと、軽く解説するけども、まず、「サマヤの甘露は、豊富な滋養物である。」
 このサマヤっていうのは、これは密教の戒律のことです。つまり密教のさまざまな誓いをしっかり守ることによって、われわれは甘露、つまり内側のエクスタシーを得て、それはわれわれを、なんていうかな、養うパワーになりますよと。
 それから、「この心というものには」から下は、これはここからやっと本題に入るわけだけど(笑)、だいぶね、時間が過ぎちゃいましたが、まさにミラレーパがさまざまな深い瞑想経験や、あるいは智慧の世界を、非常にエッセンス的に言ってるところなんだね。だからこの辺はあまり論理的に突っ込まなくてもいい。何度何度も繰り返し読んでるうちに、皆さんの智慧の扉を開く鍵になります。だからそういう感じで読んだらいいですね。
 でも一応軽く解説すると、

 この心というものには、実体がない。
 それは空であり、最小の原子のような大きささえない。

 これは分かるね。心には実体がなく空であると。単に小さいとかでもなくて、もうその存在とか実体自体がないと。

 見る者と見られる対象がともに消滅するとき
 真に「見ること」が悟られる。

 はい。これもとても詩的な表現だけどね。つまりわれわれはこの二元の世界の中で、見る主体と見られる客体があるわけだけど、まあ、これはヨーガの世界でも、この主体と客体の合一イコールサマーディと言ってるけども、つまり見るものと見られるものが合一し、区別がなくなったときにほんとに見ることができるという、ちょっと詩的な表現だね。これはもう経験するしかない世界だね。

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