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要約「スートラ・サムッチャヤ」(3)「菩薩の五つの法」

◎菩薩の五つの法

 また、サーガラナーガラージャパリプリッチャー(海竜王請問経)には、次のように説かれている。

「竜王よ、菩薩には次の五つの法がある。
 ①信の力
 ②カルマの果報に入る力
 ③菩提心をあきらめない力
 ④誓いの力
 ⑤一切の不善法をあきらめ、一切の後悔を捨てる力」

◎菩提心

 ガンダヴューハ・スートラ(華厳経)には、次のように説かれている。

「もし世間の衆生が無上の正覚に発心(=発菩提心)することがあるなら、それは実に得がたきことである。
 菩提心は、ブッダの一切法による種のごときものである。一切の生き物に白き法をあまねく成長させるからである。
 またそれは、一切の罪過をあまねく焼き尽くす炎のごときものである。
 またそれは、一切の不善法を尽きさせるが故に、大地のごときものである。
 一切の教えをあまねく成就させるが故に、如意宝珠のごときものである。
 一切の決意を成就させるが故に、宝の壺のごときものである。
 またそれは、輪廻の中にさまよう衆生を釣り上げる釣り針のごときものである。
 菩提行のすべてのすぐれた境涯(曼荼羅)は菩提心によって生じ、過去・現在・未来のすべての如来もまた菩提心から生じたのである。」 

 このように菩提心を発こす者は、善根という薬を回向することによって、悪業と煩悩を焼き尽くし、一切の法を「全智」という黄金に変える。
 また、菩提心という一つの要素を持つ者は、たとえ他のすべてが煩悩で覆われていたとしても、その煩悩は菩提心まで覆うことはできない。
 しかし菩提心という一つの要素によって、他のすべての煩悩を焼き尽くすことができるのである。
 たとえば、暗い家の中に、一つの灯明を灯したとする。たとえ一千年の間、その家の中が暗闇で覆われていたとしても、一つの灯明がともされることによって、すべての暗闇は瞬間にして消え去る。
 同様に、菩提心という一つの灯明が、無明という心の闇のなかに生じるや否や、無始の過去から蓄積されてきた悪業と煩悩の闇はたちまち取り除かれ、叡智の光明が生ずるのである。 

 また、如意宝珠の王冠を持つ大竜王は、他のいかなる者によっても迫害されることがないように、菩提心という王冠を持つ菩薩は、悪趣に対する恐怖を持つことがない。

 このように、すべての人、神、小乗の解脱者などの持つ善根は、菩提心を発こすことの価値には遥かに及ばないのである。

 また、プラセーナジットパリプリッチャー(プラセーナジット王問経)にも、次のように説かれている。

「大王よ、汝は一筋に法を求めている。
 大王よ、汝がコーサラ国の人々の幸福や利益や安楽のために苦慮しているように、すべての世界の衆生の幸福や利益や安楽のため、衆生の苦しみを救ったり、彼らの解脱や、安息や、ニルヴァーナのために苦慮しなさい。
 そして汝は全智を得、ブッダのすべての法をことごとく完成するための無上の正覚を求めよ。
 大王よ、素晴らしいことだ。このジェータ林において、無量百千の神々が、その身が輝くこともなく、座して崇拝するのである。彼らはまた、汝と同様に最高の正覚を崇拝し、信じ、求め、祝福し、賞賛し、ヴァジュラを讃辞し、随喜する。彼らは心から喜び、信が生じ、ダルマに従うようになる。なぜなら、菩提心を持つ人の心には、信が生じ、そのような人が生じるところには、無量百千のブッダと法輪に囲まれた無量百千の聖なるサンガが、無量百千も相続し、ガンガーの砂の数ほどの多くのブッダが出現し、法輪に囲まれ、聖なるサンガの相続は尽きることがない。それゆえに、菩提心を求めるのである。」

 また、アジャータシャトルパリヴァルタ(アジャータシャトル懺悔経)には、尊者マハーカッサパが妙吉祥菩薩に、ライオンの子のたとえを述べる。
 ライオンの子は誕生して間もなく、まだ力と技が成熟していなくとも、ライオンの子の匂いが風に乗って運ばれると、その風下の動物の群れは、ライオンの子の匂いを恐れ、逃亡する。革ひもでしっかりとつながれた巨大なゾウも、ライオンの子の匂いをかぐと、大いに恐れ、革ひもを引きちぎって逃亡する。
 このように菩薩は、たとえその智慧の力が未熟であっても、菩提心を持つや否や、一切の小乗の修行者や解脱者よりも優れ、一切の悪は逃げ去るのである。

 また、ダルマサンギーティ(法集経)には、次のように説かれている。

「菩薩は、菩提心から一切法を感得すると知るべきである。
 一切法とは、法界そのものであると知るべきである。
 認識する知には限りがあり、叡智は空なるが故に、一切法は空であり、住処がない。また知りつくされることもない。このようにダルマターを知るべきである。
 菩薩の心とは何かといえば、一切の衆生を利益し祝福する心である。
 また、それは無上の心であり、慈愛によってうるおす心である。 
 その無上の心は衆生の苦しみを悲しむ心であり、
 大きな喜びによって後悔しない心でもある。
 それはまた、すべての者を平等に扱う、捨による無垢な心である。
 空性によって変異しない心である。
 また、無相・無願・無住の心であると説かれている。 
 全智に回向する善根に入り、菩薩の境地にも座さず、中道に尽きることもない。」

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