yoga school kailas

心の組み手争い

 心を寂静・無思考にしていく瞑想をしていると、一気に寂静に入れるときと、雑念にさいなまれるときがある。

 前者はもちろん良いとして、後者に関しても、ある程度瞑想に熟達した者にとっては、悪いものではない。

 何度か書いたように、その雑念をきっかけとして、心のより深い層に入っていくことができるからだ。

 ところで、私は高校時代、柔道をやっていました。

 柔道の試合では、まず相手と柔道着を持ち合って組むわけですが、その組み手争いが大変です。つまり、自分が投げやすい、いいところを持って、相手にはいいところを持たせないようにするために、壮絶な組み手争いが繰り広げられるわけですね笑。

 それと、この瞑想における雑念との戦いは、ちょっと似ています笑。

 雑念が出てくると、それはすぐに次から次へと「展開」していきます。それを展開しないようにチェックして、少しでも雑念が出てきたら、チベット仏教などでは「断ち切る」という表現を使うわけですが、私は「断ち切る」というよりも「捕まえる」ということをやります。断ち切るなんてもったいない。捕まえて、ぐっと、その雑念が出てきた大元である心の本性へと、引き込んでいくわけです。
 
 しかし雑念が出てきて、捕まえようとしても、まずは「払う」だけで終わってしまいます。出てきては払う、出てきては払う。しかしタイミングが合うと、その展開しようと出てきた雑念を、ズバッと捕まえることができるのです。これが柔道の組み手争いと似た感じなんです。いいところを取ろうと思って伸ばしてきた相手の手を払うと同時に、相手が手を引っ込める前に、こっちがその袖のいいところをつかんでしまうという感じですね笑

 捕まえたら、投げるというよりは、寝技に引き込むような感じですね笑。引き込むような感じで、その雑念の源の方へと入っていきます。これに成功すると、かえって雑念が全くないときよりも、より深い、本質的な瞑想に入ることができるのです。

 まあただ、実際にこういうことができるようになるには、相当の集中力、念正智、ある程度の心の透明さが必要です。普通は、雑念を捕まえるどころか、逆に雑念にすぐに捕まってしまい、すぐに思考が展開してしまうでしょう。簡単に一本負けです笑。
 ですからこのような瞑想ができるようになるために、まずはやはり教学、功徳、懺悔、礼拝、菩提心、各種の基礎的な瞑想や行法などで、確固とした基礎作りをする必要がありますね。柔道もまずは基礎作りが重要ですしね笑。

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