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 「信」。

 これが最も重要であり、すべてであり、はじめであり、最後です。

 ここでいう信とは、通常イメージする「○○を信じます」というのとはたぶんちょっとだけ違っていて、なかなか表現するのが難しいことなのですが、断片的に、つれづれなるがままに、少し表現してみましょう。

 「信」は「期待」とは違います。期待とは、エゴから生じる自分勝手な思いです。

 信じるという事は、すべてを信じる。

 「期待」した場合は「裏切られた」ということもありますが、「信」を持つ者が、「裏切られる」ということはありえません。そういうことではないのです。

 もしあなたに師がいるなら、すべてを信じ、受け入れなさい。一点の曇りも持ってはいけません。

 もしあなたに神がいるなら、あらゆる現象を神の愛と信じ、受け入れなさい。一点の曇りも持ってはいけません。

 あなたの友を、そしてすべての人々を、信じ、受け入れなさい。一点の曇りも持ってはいけません。

 自分自身を、自分が神に愛されているという事を、信じ、受け入れなさい。一点の曇りも持ってはいけません。

 「信」とは、偏った観念、信条などのことではありません。そういう事を言っているのではないのです。なんというか、まあ、「信」なんですね(笑)。信としか言いようがないんですが。

 だからエゴを信じちゃいけない。エゴは信じないけど、自分のことは信じるんですね(笑)。偏った、間違ったエゴは、常にその欺瞞性を見抜き、打ち破らなきゃいけない。しかしベースとして、常に自分が完璧に神に愛され、守られているという事を信じるんです。

 そして衆生も同じように神に愛され、守られている。だからこの世のすべてはもともと完璧なんです。

 だからといって、この世で何もしないでいいというわけではありません。本当に「信」を持つ者は、決して、「何もしない」という選択には走りません。その生その生で、そのときそのときで、最も神の愛にのっとった、「自然」な道を行くでしょう。ここでいう自然というのも微妙な言葉なんですけどね。それは一見、傍目には、自然に逆らっているように見えることもあります。しかしそれは神の摂理から見て自然なのです。

 時には、いや、何度も、神の意思を読み間違うこともあるでしょう。それでもいいのです。それでもいいというか、まだ智慧がない場合はしょうがないのです(笑)。しょうがないけれど、「信」があれば大丈夫です。何度でも立ち直れます。

 信とは実は愛と言い換えてもいいかもしれません。神への愛であり、衆生への愛であり、すべての存在への愛ですね。しかしここで言いたいのはやはり、愛ではなくて信なんですね。

 信はすべてであり、最も重要です。
 だから悪魔は、疑念、疑いという武器を使って、人々の心に入り込み、この「信」を壊そうとします。
 それはとても巧妙です。その人の煩悩のスキをついて、疑いという爆弾を持って、悪魔が心に侵入するのです。そしてそれはすべての破滅、すべての不幸の始まりです。

 現代社会は、「信」とは逆の情報に満ち溢れています。まるで「信」を持っちゃいけないような、疑わなきゃ生きていけないような宣伝がなされています。
 しかしだまされないでください。それは悪魔の罠です。 
 どんなにバカにされても、「信」を持ち続けてください。「信」の力を信じてください。やがて理解できるでしょう。

 ですから――言いたい事が伝わったかどうかわかりませんが(笑)、簡単に言うと、とにかく「信じること」が最も重要です。「信」が崩されないよう、細心の注意を払って生きてください。

 曇りなき「信」を持つ人にとっては、その人がどのような環境にいようとも、その人の世界は光り輝き、またすばらしい未来が約束されることでしょう。
 

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