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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第二回」(8)

 はい、三番目が「菩提心をあきらめない力」。まあ、これは読んだこの通りですが、菩提心っていうのは、もう一回正確に定義すると、衆生のために――つまり、「多くの生命、生き物たちのために、彼らを救うために、わたしは仏陀になるぞ!」っていう強い決意のことです、菩提心っていうのはね。
 もう一回言うと、つまりこれも何度も言っているけどね、慈悲の心によって世界を見渡すと、多くの人が苦しんでいると。
 これはね、みんなもそういうことをよく考えたことあるかもしれない。自分の話から、だんだんそれを広げていっていいんだけどね。わたしはよく昔から何度も言うように、「人生ってなんだろう?」っていうことを子供のころからよく考えていた。「なんでわたしは生まれてきたんだろう?」と。「人生とは一体なんの意味があるんだろう?」と。ね。何か社会を見渡して分析しても、なんかやっぱり苦が多いし、なんか、なんのために生きているのかよく分からないと。で、そこを追及すると、本当に、なんていうかな――そこをね、楽観的に「こういう意味があるんだよ」って思いこんではいけない。あるいは逆にニヒリズム的に「いや、すべては意味がないんだ。だからわたしは何をやってもいいんだ」ってなってもいけない。そうじゃなくて、そこでもちろん教えが必要なんですね。
 だから皆さんっていうのは、本当にものすごくね、徳があるし、あるいは真理と縁がある人なんだね。多くの人はまずあまりの苦しさに、自分が苦しいっていうことも気付いていない。で、二番目の人は「あれ? ちょっと苦しいんじゃない? この世って……」って気付いてくる。しかし「だからどうすりゃいいんだ」って全く分からない。で、皆さんみたいに徳のある人は、その教えっていうエッセンスが、パッと目の前に与えられるわけですね。で、それによってその意味が、自分がここにいる意味が、だんだん分かってくる。つまり、この世は本当にごまかしちゃいけないと。この世は本当に苦だと。それはわれわれが心にけがれがあるから、われわれが心に悪いカルマがいっぱいあって、心のけがれがいっぱいあるから、今このような苦の世界に結び付けられているんだと。
 ここから根本的にわたしがですよ、まずはわたしが、わたしが幸福になるには――ちょっとね、その、つまりいつも言うけども、これも今日は新しい人が多いからもう一回言うとね――われわれがこの世で「幸福だ」って勘違いしているのは、たとえ話で言うと、皮膚病になった男が、その皮膚病のかゆいところをかいて気持ちいいって言っているのと同じです。ね。皮膚病っていうのは……これはたとえだけど、皮膚病っていうのはかかない方がいい。なんでかっていうと、かかない方が治る。だから、医者は「かくな」って言うわけです。「かいちゃいけませんよ」と。「かかないでこの薬を塗りなさい」と。「決してかいてはいけません」と。でも、馬鹿な患者はかくわけです。「なんでかくなって言ったのにかくんですか?」と。「だって気持ちいいじゃないですか」と。「おれはこの気持ちよさを、やめろと言われてもやめられない」と。「だから絶対かきます」と。ね。これを、こういうことを何万年、何十億年と続けているが故に、われわれは今、わけが分からなくなっています。この皮膚病をかいて生じる気持ち良さを、われわれは今追い求めているんです。しかしここで仏陀が現われて、言うわけです。「ちょっとあなた、待ちなさい」と。「それよりも皮膚病治った方が良くない?」と。ね(笑)。「皮膚病治った爽快なのの方がいいですよね、もともと」と。「で、どっちとりますか?」と。
 もちろん、われわれは今、そのたとえ話を聞いたら、「いや、それは最初から皮膚病がない方がいいよ」って分かっている。でもわれわれは、それが分からないような状態になっているんだね。つまり、われわれの魂の、あらゆるけがれから解放された状態が最高なわけだけども、今われわれはそのけがれという病、煩悩という病にかかっているんだね。で、煩悩っていう病をかくっていう行為――つまり、その煩悩を満足させるっていう行為が、わたしにとっての至上の喜びであると勘違いしてしまっている。でもお釈迦様をはじめ聖者方は、「そうじゃないんだよ」と。「それは多くの過失があるよ」と。「多くの罠があるよ」と。「それによってあなたの苦しみは、より悲惨になるよ」と。つまり、皮膚病をかいちゃうことによって、よりその病が悪化するように、「あなたが心に生じたその煩悩という病を満たしてしまうと、さらにそこから多くの苦が生まれますよ」と。でも、それもよく分からないほど、われわれはそこに埋没してしまっている。
 で、教えと縁があって、それに気付いたわれわれは、まずは自分がそれから救われたいと思う。「そうか、わたしが本当に幸福になるのは、そのような錯覚から救われて、真の智慧を得るしかないんだな」と。まあ言ってみれば「悟りを得るしかない」と。気付き始めて頑張り始めるわけだけど、頑張り始めた段階でふと周りを見渡すと――つまり、わたしと変わりない多くの人間たち、あるいは人間以外の生き物たち、いろんな世界にいる生き物たちが、同様にこの、どうしようもない病の中で苦しんでいるっていうのが分かってくるわけですね。
 で、そこに「ああ、本当にもうかわいそうだ」と。「もう、なんとかしてやりたい」――わたしは今、教えとか修行と出会ったから――つまりそのどうしようもない地獄の流れの中から、ちょっと岸に手がかかったような感じです。もうこれは、頑張れば救われる。自分の頑張り次第でなんとかここからグーッてはい上がれる、っていうことがもうわたしには確定していると。しかし周りを見ると、誰もその岸に近づいている者がいないと。それどころか、自分が地獄で溺れていることすら知らない人がたくさんいると。で、これに対して憐みが出るわけですね。「なんとかしてあげたい」と。「なんとかみんなを救いたい」と。

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