「真理の楔」(終)
◎安心して進め
【本文】
それは最終的には、二つのうちどれかの結果が考えられるだろう。
一つは、自分がその輪から外れてしまうこと。
もう一つは、その悪しき縁の輪が、良い縁の輪に変わってしまうということだ。
後者について具体例をあげると、たとえば憎しみに対して愛を返した場合、それをやられたほうは最初、混乱するかもしれない。しかしその心地よいショックを心地よいと感じたなら、次は他の人にもそれをやってみるかもしれない。つまり他の人に苦を与えられたときに、慈愛で返してみるかもしれないということだ。
あるいはその人が変わらなくても、それを見ていた他の縁ある者が変わるかもしれない。
このようにして、憎しみの連鎖が、慈愛の連鎖に変わっていくこともあることもあるのだ。
しかしそれを最初にやる人は大変だ。
つらい。
時には孤独に耐え、時にはだれにもわかってもらえない感じがするだろう。
だから修行者はつらいのだ。
しかしがんばってくれ。
必ず道は開けるし、必ず見ていてくれるものがいるだろう。
安心して進め。悪しきカルマの輪に、真理の楔を打ち込め。
【解説】
これは先ほど言ったような、カルマの輪を変えていくようなことをやった場合、二つの結果が考えられますよと。
一つは、あまりにそのカルマの輪にみんながどっぷり浸かり過ぎてる場合。みんなにはあまり影響がいかないんだけど、自分がその輪の中からパッと外れてしまうということ。これが一つね。
で、もう一つはそうじゃなくて、その自分の行為や心の働きがその輪の中にいる人々に影響を与えるっていうことですね。それがここに書いてあること。
つまり本来は、ワーッて悪口言われたり馬鹿にされたりしたら、こっちが怒りや同じように悪口を返すのが当たり前だと。それを愛で返される。
もちろん表面的じゃ駄目ですよ。よく最近インターネットとかミクシーとか見てても、精神世界の人って「ありがとうございます」っていうのが好きだから、なんかすごい議論でワーッて言い合いしてて、相手に対してひどいことを書いた後に、「ありがとうございました」とか書いてる人がいて(笑)、それはあんまり意味ないんじゃないって感じがするんだけど(笑)。
つまり、心から愛を返さなきゃ駄目ですよ。心から感謝を返すとかね。そういうことをやってると、相手は「えっ?」と驚く。――まあ表面的に驚くかどうかは別にして、相手の潜在意識が驚きます。つまり、何度も言うけど、自然の流れにちょっとノイズが入るっていうか、自然な流れにちょっとこう変化が生じてくるから、ちょっとなんか自然な流れがおかしくなるんだね。いい意味で。おかしくなってその変化のこう前触れみたいなのが起こる。
ところで、ここでちょっと重要な問題がある。なにが重要な問題かっていうと、例えば、相手が悪口言ってきて、こっちが頑張って愛を返したとするよ。なぜその相手は愛を返されたんだろうかっていう問題がある。これはもちろん一つとしては、実はその人ももちろん過去世とかにおいてね、多くの愛を与えていただろうから、それが返ってきたっていうことがいえるかもしれない。一つはね。で、もう一つあるんです。
もう一回言うよ。こっちが頑張って憎しみに対して愛で返した場合、なぜ、相手は憎しみを愛で返されたのか。――これはカルマの法になかったはずなのに、なんでそんなのが生じたのかと。つまりこれはちょっと変なんです。カルマの法、データにないものがそこに生じている。これが、ブッダの力なんです。
これも何回か言ってるけどね。これがブッダの力っていうのはどういう意味かっていうと、ブッダというのは特別な存在なんです。これは菩薩、高い段階の菩薩もそうだけど、高い段階の菩薩、あるいはブッダというのは――皆さん、よく考えてみてください。もうカルマから外れてるんです。つまり変な言い方をすれば、この世に本当はいてはいけない人なんです、ブッダっていうのは(笑)。だってこの世っていうのは、輪廻っていうのは、カルマの流れに飲み込まれている人たちの集団だから。同じカルマの輪の中でああだこうだやっている者たちの集まりだから。本当はブッダってそこにいちゃいけないんです。
つまり、例えばお釈迦様やその他の聖者がブッダになりましたと。「すごいですね。」「あれ、何でいるの!?」と(笑)。「お釈迦様、なんでそこにいるんですか!?」と。「あなた、そこにいちゃいけない存在なんじゃないですか?」と(笑)。
つまりブッダっていうのは、本来はこの輪廻というゲームから外れているくせに、あえて参加してきてるんです。本来参加しちゃいけないのに参加してきてるんですよ。この人のみが、つまりこのブッダのみが、カルマの輪以外の力をそこに注入できるんです。これがダルマなんです。教えなんだね。
そのダルマの流れっていうのが化学変化のような形で、聖者から聖者へと、そして修行者から修行者へと伝わってきてるんだね。それが今皆さんの前に現われてるんです。今皆さんの前にっていうか、皆さんが、例えば人生歩んできて、ある時期本屋とかネットとかで仏教やヨーガの教えに出合いましたと。これは、古の聖者やブッダが投げかけた化学変化が、今われわれの前に届いたということです。ね。それをわれわれは使って、新たな化学変化を同じカルマの輪の中にいる人に与えるんですね。
だからちょっと普通では起きないことが起きるんです。普通では起きない、つまり、地獄のカルマでいっぱいで人を憎んだり憎まれたりの世界にしかいなかった人も、菩薩は愛するから。ここで愛されたことがなかった人が愛されるっていうその――これは極端なパターンですよ――愛されるっていうことを経験してしまうんですね。それによってその人は、次に誰かを愛さなきゃいけない。カルマから言ってね。この全然違うカルマの中に引きずりこまれるんです。その中にいる人がね。で、これができるのは、もう一回言うけども、その流れの外部にいる存在なんです。それがブッダであり、菩薩であり、あるいはアヴァターラね。至高者の化身とかだったりするんだね。
で、われわれはもちろんこのブッダとかアヴァターラではないんだが、そのダルマの化学変化を受け取った者として、それをまた伝播させる責任があるわけですね。で、伝播させるっていうのは、もう一回言うけども、その表面上の教えを広めるっていう意味ではなくて――まあそれも必要なんだけども、それだけではなくて、自分が変わる。自分がこのカルマの輪の中で――まあ簡単に言うとですよ、別に難しいことを考える必要は無い。簡単に言うと、「教えどおり生きる」ってことです。それだけでいいです。あの人にはどうすればいいんだろう、この人にはどうすればいいんだろう、なんて考える必要はない。教えを学んで、百パーセント教えどおり生きる。
特に『入菩提行論』とかね。あのとおり生きるって結構大変でしょ(笑)。大変だけど頑張ってあのとおり生きる。書かれてるとおりに生きると。それをするだけで、自分は例えば何も意識してなかったとしても、自分と関係する人たちのカルマの輪が徐々に狂いだします。いい意味でね。これをだからわれわれはやるべきなんだね。
しかし、それをやるにはここに書いてあるように、特に最初は大変です。つまり無理なことを、ある意味無理なことをやろうとしてるわけだから。さっき言った、川の流れを変えるとか、そういう無理なことをやろうとしてるわけだから、まあかなり大変ではある。しかし、必ず道は開けるし、必ず見てくれてる者がいると。見てくれてる者っていうのはもちろん、同じね、例えばこの地球に生きる修行者の仲間とかが見てくれてるかもしれない。あるいはそうじゃなくて、本当に高い世界から神々や菩薩やブッダ方が見てくれてるかもしれない。それはね、本当に確信を持っていい。どんなに自分が孤独だと思っても、あるいはどんなに自分が誰も分かってくれないと思ってても、もしその人が正しい生き方をしてるならば、必ずブッダや神や菩薩は見ていてくれます。
逆に言うと、その目から逃れられない(笑)。「見ていてくれるかな?」じゃなくて、「見ないで欲しいな」っていうことまで見ているから(笑)。逃れられないよ。部屋にこもっても駄目だからね(笑)。「見ていてくれるかな?」じゃなくて(笑)、「ここだけは見ないで欲しい!」と言っても、見ています(笑)。もちろん心の中まで見てるから。だからそういう意味でわれわれは、安心して正しい道を歩めばいいということですね。
では今日はこれで終わりましょう。
(一同)ありがとうございました。