ページが見つかりませんでした – True Yoga, to meet the true self. https://blog.yoga-kailas.com True Yoga, to meet the true self. Fri, 29 Mar 2024 00:53:10 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.4.3 https://blog.yoga-kailas.com/wp-content/uploads/2023/01/cropped-favicon-32x32.png ページが見つかりませんでした – True Yoga, to meet the true self. https://blog.yoga-kailas.com 32 32 解説「菩薩の生き方」第二回(4) https://blog.yoga-kailas.com/%e8%a7%a3%e8%aa%ac%e3%80%8c%e8%8f%a9%e8%96%a9%e3%81%ae%e7%94%9f%e3%81%8d%e6%96%b9%e3%80%8d%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e5%9b%9e%ef%bc%88%ef%bc%94%ef%bc%89/ https://blog.yoga-kailas.com/%e8%a7%a3%e8%aa%ac%e3%80%8c%e8%8f%a9%e8%96%a9%e3%81%ae%e7%94%9f%e3%81%8d%e6%96%b9%e3%80%8d%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e5%9b%9e%ef%bc%88%ef%bc%94%ef%bc%89/#respond Fri, 29 Mar 2024 00:53:09 +0000 https://blog.yoga-kailas.com/?p=9530 (質問者)カルマというところにおいて、先祖というものがワーッと何百人、何千人といると思うんですが、この現代に生まれている、まあ狭い範囲で、自分の一族の代表としてこの世に生まれてる、そういうのもあると思うんですけども、そこに生まれているわたしが、なんらかの悟りを得て、菩薩としての生き方をできるようになった場合に、その自分の先祖っていうかそういう人たちも――まあ、大部分が地獄にいる場合もあるわけじゃないですか。そういう人たちにいくらかの救出というか、救いというか、そういう結果をもたらすことというのはあるんですか?

 それはあります。それはね、お釈迦様の言葉で言うと、ある人が解脱したら、七代前の先祖まで救われると。で、それはなんなのかというと、これは別にね、よく日本人が好きな、あいまいな、われわれは先祖とつながってるとか、そういう意味じゃないんです。先祖とわれわれのつながりっていうのは、ただの受け皿です。別に魂のつながりはない。
 わたしよく言う話なんだけどさ、例えばだけどね、おじいちゃんが死にましたと。で、毎日仏壇を拝んでると。「ああ、おじいちゃん」と。そのおじいちゃんがさ、隣の家の猫に生まれてるかもしれないよ。うん。で、「おじいちゃん」とか言ってお盆とかに捧げ物してると。「おじいちゃん、彼岸に戻ってきてくれましたねー。」でもおじいちゃん、ここで「ニャー」とか言ってる(笑)。

(一同笑)

 「ニャー。ここだよ!」とか言ってるかもしれない(笑)。別に霊となっているわけじゃないんだね。だからそういう意味で言ったら、そういう意味でのつながりはないんです。じゃあ、なんのつながりがあるかっていうと、カルマなんです。カルマって何かっていうと、直接的関係性なんです。直接的関係性っていうのは、簡単に言いますよ、例えばKさんの場合ね、Kさんが修行して解脱したとしますよ。それはいろんな要因が関わってるよね。例えばそれを教えてくれた師、あるいは手助けしてくれた人とかいろいろいるかもしれないけど、でも、もともとを考えるとね、産んでくれたお母さんがいるよね。お母さんが産んでくれて、で、ある程度までお父さんお母さんが育ててくれなかったら、今、修行できてないわけですよね。だってそうでしょ? もちろん産んでくれなかったらないですよね。で、産んでくれたけども、育児放棄しちゃって、で、途中で死んでたら、今の真理との出合いはないわけです。だからちゃんと育ててくれて、で、もちろん育て方にもいろいろいい悪いはあったかもしれないけども、でも、少なくとも育ててくれたと。あるいはいろんな自分のことを犠牲にして、子供のために尽くしてくれたと。この上に今のKさんがあって、で、解脱したとしたら、当然その因果関係によって、徳はお父さんお母さんにも返るんです。つまり、お父さんお母さんが解脱者を育てたってことになるから。
 だから、お釈迦様も言ってるんですが、最高の親孝行は解脱することなんです。で、逆に言うと、皆さんの生き方が、例えばKさんが悪しき生き方をしたとするよ。そうすると当然その悪人を育てたのはお父さんお母さんになるから、そのカルマが返っちゃうんだね。だから自分の人生っていうのは、そういう意味では自分一人だけのものじゃない。自分に何かを小さいころにしてくれた、お父さんお母さんだけじゃないよ。例えば自分が育つ上で、自分に対していろんなことをしてくれた人がいっぱいいるでしょう。その人たちの責任を背負ってるって考えてください。
 で、これはいつも皆さんにちょっと責任的なことを言うけども、でもですよ、ダルマに出合ってない人にはどうしようもないんです。どうしようもないっていうのは、ある程度のことしかできないよね。例えば「正しく生きましょう」と。正しくってどういうことかよく分からない。でもまあ、自分の良心にのっとった、あるいは一般的にいわれる善悪の道徳観にのっとった正しく生きることをしようと。これもこれで素晴らしい。でもこれしかできないよね。解脱はできない。あるいは菩薩になるっていうこともできない。あるいは、そうだな、神のしもべになるっていうこともできない。でも皆さんはそのチャンスを与えられてる。で、これは、いつも言うけども、チャンスというよりは責任なんです。つまりKさんがもしそれに出合ったっていう確信があるんだったら、Kさんがそれをやるとやらないでは、つまりKさんが自分で修行を達成するかしないかっていうのは、Kさんに今まで関わってきた、お父さんお母さんは当然としてね、何十、何百という人たちが覚醒の道に入れるかどうかを背負ってるっていうことになるんだね。
 ここまで言っちゃうとかなり重い話になるんだけど、でもそれくらいのものだと考えてください。
 で、そこから派生してね、お父さんお母さんがいなかったら今のKさんはいなかった。じゃあ、お父さんお母さんはどうなの?ってなるよね。うん。つまりお父さんお母さんはその前のおじいちゃんおばあちゃんがいなかったら、お父さんお母さんはいなかったってなるから。でも、これはなんていうかな、遠くなるにしたがって、カルマの――これは完全にね、物理的っていうか数学的な話です。数学的に、遠くなるにしたがって影響力が弱まるから。影響力が弱まるので、だから七代前までなんだね。ずーっとその影響力が持続するわけではない。七代前ぐらいまでは返りますよと。逆に言うと、七代前ぐらいの先祖までは、われわれの修行によっていい影響を与えられますよっていうことなんですね。
 だからそれも、なんていうかな、ぜひ自分の修行の動機にしたらいいですね。動機っていうか、「そうすればみんな幸福になるんだ」じゃなくて、「そうしないとまずい」と。関係者全員の鍵をわたしが預かっちゃったと。ね。――ほかの人はできないから。例えば、ほかの人が目覚めてるならいいよ。例えば親戚のいとこのなんとか君っていたとしてね、「わたしこれ、一人では持てないから、あなたもやって!」って言っても、その人が、「え? 何? ヨーガって何? ダルマ?」――そんな状態だったら当然駄目ですよね。つまり、それが与えられる人っていうのは限られてるっていうか。だから自分が少しでもダルマを極めたいっていう気持ちがあるんだったら、それは逆に言うと責任があると思ってください。
 でもそれは喜ばしい責任だね。それを自分が達成できるとしたら、多くの人にいい影響を与えられるわけだから。――って考えたらいいですね。

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解説「菩薩の生き方」第二回(3) https://blog.yoga-kailas.com/%e8%a7%a3%e8%aa%ac%e3%80%8c%e8%8f%a9%e8%96%a9%e3%81%ae%e7%94%9f%e3%81%8d%e6%96%b9%e3%80%8d%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e5%9b%9e%ef%bc%88%ef%bc%93%ef%bc%89/ https://blog.yoga-kailas.com/%e8%a7%a3%e8%aa%ac%e3%80%8c%e8%8f%a9%e8%96%a9%e3%81%ae%e7%94%9f%e3%81%8d%e6%96%b9%e3%80%8d%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e5%9b%9e%ef%bc%88%ef%bc%93%ef%bc%89/#respond Wed, 27 Mar 2024 07:58:17 +0000 https://blog.yoga-kailas.com/?p=9525  はい。で、その第一段階、一番最初の教えがこの、いかに人間に生まれることが難しく、そして、かつそこで真理、ダルマに出合い、修行できる機会が難しいか。よって、ここに結論として書かれてるように、今そのチャンスを得ている。それなのに今徳を積んだり修行しようという強い気持ちを起こさなかったら、いったいいつ解脱できるというんだと。ね。このチャンスを逃したら、再びこのチャンスに巡り合えるのは至難の業だと。次いつになるか分からない。ね。そして巡り合うまではまた苦しみの輪廻を繰り返さなきゃいけないんだよと。この現実っていうかな、これをまずしっかり自分の心に根付かさなきゃいけないっていうことですね。
 チベット仏教では、前も言ったけども、この、今言った人間に生まれることの稀有さ、これを、初心者の状態から、かなりの高僧になっても、毎日毎日ひたすらこれを学ぶっていいます。学ぶっていうか、つまり自分の心に思い起こさせると。それだけわれわれってやっぱり怠け者なんだね。すぐに「まあ、いっか」みたいになってしまう。だから常に、自分の今のチャンスっていうものが稀有なんだよと。
 いつも言ってるけどさ、これとセットでよく説かれるのが、まああとで出てくると思いますが、人はいつ死ぬか分からないと。だからこの二つがセットになると、もう修行するしかないんだね。「巡り合ったのが稀である」と。「いつ死ぬか分からない」。ね(笑)。やるしかないでしょ、これね(笑)。もう一瞬も見逃せないと。はっきり言うと――ここまで言うとちょっと厳しいけども、寝ることさえできないよ、究極的に言えば。だって寝てる間に死んだらどうするの(笑)。究極的に言えばですよ。でもまあ、皆さんに寝るなとは言わないけども、それくらいの心構えだね。あるいは、猶予できませんよ。猶予できないっていうのは例えば、皆さんもさ、もちろんちょっと心が落ちることもあるでしょう。あるいは悪い心が出ることもあるでしょう。心がちょっと良くない状態になることもあるでしょう。でも皆さんは甘いから、自分に甘いから、それを猶予させちゃうんだね。猶予させちゃうっていうのは、「まあ、こういうときもある」みたいな感じで、しばらくその悪い状態に浸って、自然に良くなるのを待つと。これはまあ、われわれのこの与えられたチャンスが永遠であるとか、あるいは何十年とか保障されてるんだったらいいよ。でも本当に明日死ぬかもしれない。あるいは明日どころか、一分後に死ぬかもしれないとしたら、本当は猶予の時間なんてないんだね。一瞬でも例えば悪い思い、あるいはダルマから外れた心の状態になったら、「やばい!」と思わなきゃいけない。
 これは『入菩提行論』でもよく出てきますが、例えば、油のみなぎった鉢があって、で、もしそれをちょっとでもこぼしたら、横に武士がいてね、ちょっとでもこぼしたらバッて斬られると。ね。そういうゲームじゃないけども、そういうのをやってるとしたらね、もう一瞬も見逃せないですよね。一瞬も、ちょっとも気を抜かずに歩かなきゃいけない。例えばちょっと体が揺れちゃって、グッと油が落ちそうになったら、「やばい!」ってもうものすごい集中力でバランスを保たなきゃいけない。つまりこれくらいの気持ちで生きなきゃいけないんだね。つまり自分の心を日々観察して、ちょっとでも、例えばグチグチと誰かの不満が心に出てきたり、あるいはなんか心が暗くなったり、あるいは心が神とか真理なるものから外れてしまってきてると。それに気付いたら――だいたい皆さんね、本当は気付いてるはずなんです。全く気付かない、ずーっと気付かないでずーっとそれが過ぎるってことは本当はない。途中で気付くはずなんだね。気付くけど、皆さんほっといてる。気付いたら、決してほっとかない。「やばい!」と。これは何度も言うけども、何よりもやばいです。ね(笑)。何よりもやばい。やばいことっていろいろあるよね(笑)。やばいことっていろいろあるけども、あらゆるやばいことはどうでもいいです。これこそやばいです。ね(笑)。われわれの心が、真理なるもの、聖なるもの、ダルマなるものから外れること――これ、やばいです。だっていつ死ぬか分からないから。外れた状態で死んだらどうします? 例えば悶々と悪い心になって、「ああ、これはいつもの悪い心が出た」と。「明日になれば治るかな」と思って、一時間、二時間、三時間とほっといたら、明日が来る前に死んじゃうかもしれないよ。その悪しき心――例えば不満や、怒りや、嫉妬や、後悔やいろんなもので満ちてる状態で、車にひかれて死んじゃうかもしれないよ。もう最悪ですよ、それは。もちろん修行が達成されなかったっていう意味でも最悪だけども、そういう悪い状態で死んだっていうのも最悪です。で、まあ当然その心があらわすような世界に落ちちゃうかもしれないよね。だから本当にわれわれっていうのは一分一秒も、あるいは一瞬一瞬、気を抜けない。いつも言うけどね、それくらいの緊張した気持ちでちょうどいいんです。
 もちろんね、その緊張した気持ちが、持続し、自分のものになれば、逆にリラックスします。つまりリラックスした状態で自分の念正智を保てるようになるんだけど、そこに行くまでは緊張でかまいません。よく最近のスピリチュアルがいうような、最初から「リラックスして」なんて駄目ですよ、絶対。だってカルマが悪い人がリラックスしたらどうなります(笑)? カルマが悪い人がリラックスしたら、もうその悪いカルマに翻弄されるだけだからね。うん。エゴを捨てろっていう意味ではリラックスしてください。だから言葉の問題ですけどね。だからわたし、ちょっと矛盾すること言いますが、緊張はしまくってください。しかし同時に、エゴっていう意味ではリラックスしてください。ね。皆さんはエゴによって緊張してるんだね、いつもね。エゴによって、「わたしのエゴが傷付けられるんじゃないか」「わたしのエゴが叶えられないんじゃないか」「わたしのエゴが不満なんだ」――これで緊張してるんです。これは完全にリラックスしてください。エゴどうでもいいと。じゃなくて、「わたしはダルマから外れてるんじゃないか」「わたしは神の意思から外れてるんじゃないか」「わたしはわたしの志や理想から外れてはいないだろうか」――これで緊張してください。ガチガチに。で、それで、緊張の果てに来るリラックス、つまり、もう完全に念正智が自分のものになって、もう何も考えない状態で、自動的に、自分が自分を観察してね、欺瞞的なものを排除すると。この状態だったら素晴らしいね。この状態になったら、なんの緊張もなく、ダルマどおり生きられると。そこに至るまでは、ダルマにおいては緊張してください。しかし何度も言うけど、エゴにおいてはリラックスするという感じだね。

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解説「菩薩の生き方」第二回(2) https://blog.yoga-kailas.com/%e8%a7%a3%e8%aa%ac%e3%80%8c%e8%8f%a9%e8%96%a9%e3%81%ae%e7%94%9f%e3%81%8d%e6%96%b9%e3%80%8d%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e5%9b%9e%ef%bc%88%ef%bc%92%ef%bc%89/ https://blog.yoga-kailas.com/%e8%a7%a3%e8%aa%ac%e3%80%8c%e8%8f%a9%e8%96%a9%e3%81%ae%e7%94%9f%e3%81%8d%e6%96%b9%e3%80%8d%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e5%9b%9e%ef%bc%88%ef%bc%92%ef%bc%89/#respond Wed, 27 Mar 2024 01:10:47 +0000 https://blog.yoga-kailas.com/?p=9521

 はい。で、ちょっと話を戻しますが、その一番最初の、まずわれわれが考えなきゃいけないことがこの「人間に生まれることの稀有さ」っていうことですね。で、その「人間に生まれることの稀有さ」っていう論理を、エゴ、自分のエゴに納得させるために、今言ったようなきめ細やかなこの仏教的な輪廻の論理があるわけだね。で、これはここにも書かれてるように、お釈迦様にしろ、あるいは古の大聖者方はみんな、当たり前のようにっていうかな、この輪廻転生のことを説いてる。それはなぜかっていうと、みんな見てるからです。しっかりと皆さんが修行すれば、当然輪廻転生っていうのは経験できます。
 例えば宿明通によって、瞑想によって自分の過去世を思い出したりとか、あるいは死生智っていう瞑想によって、まあ、死んでどうなるかっていうすべてのプロセスを瞑想で経験することができる。いわゆるチベットでいうバルドのヨーガですね。こういった経験によって、輪廻転生の実在っていうのがよく分かってくる。そしてその輪廻転生の実在の上に立ってその法則性っていうのを分析すると、最初から言ってるように、人間っていう存在に生まれることが非常に稀であると。で、稀であって、かつ人間じゃないと修行できないと。ね。このすごい条件があって、で、「あれ?」って今の自分を見ると――もちろんこれにはもっと条件が乗っかるよ。ここではまだ説かれてないけども、人間に生まれただけじゃ駄目だよね。人間に生まれて、ダルマとの出合いがあって、まあ、ダルマを教えてくれる師や、あるいは仲間との出会いがあって、で、自分もダルマに興味を持つっていう条件があって。で、いろんな細かい条件も挙げればきりがないけども、自分は修行できるっていう環境的条件もあって、全部揃って今があるんだね。で、こんなチャンスは二度とないかもしれない。だったら今しないでいつするんだっていうのが、この考え方だね。
 「今しないでいつするんだ」っていうのはすごく大事なことなので、このエッセンスは皆さん心に根付かせておいてください。わたしも、何回も言ってるけど、若いころ、よくいろいろ考えたことがある。若いころっていうか、わたしはいつも言ってるように、中学生ぐらいから修行してるから――まあ中学生ぐらいから、そうだな、最初はもちろん、遊び心とか怠け心とかもいっぱいあったから、すべてを修行に懸けるっていう感じに最初からなれたわけじゃないけども、でもだんだんやっぱりそうなっていったわけだね。で、例えば、そうだな、高校生のときとかも――よくクラスの友達とかがね、「今日終わったら誰かのうちで飲み会やろーぜ!」って。あれ? 高校生なのになんで飲み会なんだって今ふと思ったけど(笑)、まあそれはいいとして(笑)、「飲み会やろうぜー!」とかね。あるいはうちは男子校だったんで、ちょっと古いけどね、感覚が。「ちょっとあそこの女子校のところにナンパしに行こうぜ」とかね(笑)、いろいろ誘われるわけだけど、全部わたしはそれを蹴って、うちに帰って修行してたんだね。つまり、ある意味、なんていうかな、ヨーガとか修行っていうものに青春を捧げてきたっていうか。もういろんな人がいろんなところで、遊びたい、楽しみたいって思ってるのを全部蹴ってきたっていうかな。でもそのときに自分の中でやっぱり、寂しさが出るときがあると。で、そのときによく自分に言い聞かせたのが――まあ、なんとなくだけども、わたしはやっぱり、はっきりとは分かってなかったけども、過去世の記憶とか、あるいは今生生まれてきた意味みたいなのが、うっすらとはなんとなくフィーリング的に分かってた。で、それから言うとですよ、確実に輪廻転生っていうのはあると。で、わたしはひたすら輪廻を繰り返してきたと。
 で、ちょっと変な話だけども、何回も言ってるように、わたしは小さいころから例えば虫が殺せないとか、人の、嫌悪とか怒りの感情がよく分からないとか、まあそういう子供だったんだけど。それだけじゃなくてね、そうですね、ある時期まで、ほとんどわたし、望みが叶ってました。望みが叶ってたっていうのは、子供のころに――子供のころって社会のことが分かんないじゃないですか。社会が分かんないから、そういうもんだと思ってたんだね。そういうもんだと思ってたっていうのは、願ったことって叶うんだなと。ね(笑)。願ったことが叶っちゃうんだね。「ここに行きたいなー」とか子供のころ思うと、まあ、ちょっと後でですけどね、数カ月後に連れて行ってもらうとかね。「これが欲しいな」って思うとそれが集まるとかね。なんかそういう感じもあった。で、そういうのを鑑みた場合も含めての話なんですが――わたしは多分、ね、これ何回か言ってるけどね――過去世において相当遊んできたと。遊んできたっていうのは、相当現世的な快楽は経験してきたはずだと。で、今度は未来のこと考えた場合、ね、来世もわたしは例えば、菩薩としてまたこの地上に生まれた場合、毎回ね、その目覚めるまでの時間があるから、今生はわたしは中学生ぐらいで修行に入ったけども、まあ、いつもそうとは限らないよね。二十歳ぐらい、三十歳ぐらい、四十歳ぐらいで修行始めるかもしれない。それまでは遊べる。変な言い方すれば(笑)。真理を知らないから(笑)。真理を知らないから、それまでは遊べる。でも、今生は出合っちゃった(笑)。ね。出合っちゃったと。もう出合ったら、もう観念するしかないんだね。覚悟を決めるしかない。もちろん、出合っちゃったっていうか、それは出合えたことは素晴らしいんですけども、出合えたことは奇跡なんだけども、でも別の言い方すると、出合っちゃった(笑)。出合っちゃったらもう覚悟決めるしかない。もうなんか妥協してる隙みたいなものはわたしには許されていない。よって、エゴに対するこれはちょっと妥協案なんだけど、「おまえ、来世また遊べるから、いいじゃないか」と(笑)。「今生はもう諦めろ」と。ね。
 今生はこの、偉大なる、出合うのが稀なダルマに出合っちゃって、しかもさっきから言ってるように、人間の体を始めとした最適な条件も得ちゃったと。これでやんなかったらいつやるの?と。ね。こんな最高の条件を与えられてて、躊躇する心があるとしたら、それはもう、できるときがないじゃないかと。だってこれでやんないんだったら、もっと悪い条件のときはもっとやらないでしょ、当然。こんないい条件のときにやらない人が、もっと修行しにくいような環境、あるいは知性のまだ低い状態とかね、その状態っていうのがあったとして、それはまあ、当然やりませんよ。だから今与えられたこの条件っていうのが――よく仏教でも例え話で出されるのは、盲人がですよ、つまり目の見えない人が歩いてたら、たまたま蹴躓いて、転んじゃって、バッて倒れたときにそこに宝石があったと。ね(笑)。そんなもんなんだと。つまりわれわれは無智で何も分かんない状態でこの人生を歩いてて、たまたまなんか苦しんだり蹴躓いたりしたら、「あれ? 真理があった」と(笑)。ね。これはつまり、なんていうかな、自分が分かってて「こうで、こうで、こうで、こうで、あ、やっと真理にたどり着いた!」じゃないんだね。「え? 来ちゃった!」みたいな世界なんだね。「来ちゃった。いいの?」っていう大チャンス。
 これはいつも言ってるけどさ、よくチャンスとか、あるいは、そうですね、稀な機会とかいう言葉を一般的にも言うけども、一般にいわれるそんなことなんてもう、比べものになりませんよ、当たり前だけどね。例えば、当たり前の話だけどさ、パチンコでゾロ目が出たとかね、もう比べものにならないから。当たり前だけどね(笑)。あるいは例えば、仕事を進めててね、例えば何億っていう取引のチャンスが来たと。これは千載一遇だと。普通はこんなことはないと。これをものにすれば、うちの会社は何十倍にも大きくなるかもしれないっていうチャンスが例えばあると。例えばあるいは、芸能人とか、あるいはなんらかの才能の世界に生きてる人が、それを買ってくれる人が現われたと。自分が世に出る千載一遇のチャンスがやって来た!って興奮するかもしれない。――全く比較になりません。そんなのはどうでもいい。そんなのは全部吹っ飛ぶぐらいの、もうあり得ないぐらいのチャンスなんだね。皆さんはだからそういった現世的なチャンスには興奮して飛びつくかもしれない。「このチャンスを逃したら」っていうのは一般的によく使われるわけだけども、そんなのはどうでもいいぐらいの話です。この真理との巡り合いとかね、ダルマとの巡り合いっていうのはね。
 何度も言うけどさ、例えばさっきから話してる『ラーマーヤナ』の話、ね。あるいは――まあ皆さんそれぞれここにこうしているっていうことは、多くの人がなんらかのダルマの喜びっていうのを感じたことがあると思うんだね。ある人は今日言ったような『ラーマーヤナ』にあるような、まあ、ちょっと、なんていうかな、人智を超えた素晴らしいダルマに心が打ち震えるかもしれない。ある人はバクティの純粋さに感動したかもしれない。ある人は『入菩提行論』が説くような、この素晴らしいダルマの世界に感動したかもしれない。ある人は、そうだな、ヨーガの世界の、なんていうかな、この求道的な世界に感動したかもしれない。まあ、それぞれいろいろあると思う。でも逆に言うと、これなかったらどうします? 皆さんがもしこの人生で、これらに出合えてなかったらっていうのを考えると、まあ、皆さんはどう考えるか知らないけど、わたしはやっぱり――わたしは昔よくそういうことを考えた。やっぱりそれはぞっとするね。ぞっとする。一切のダルマに出合えなかったらどうする? この、本質的なヨーガ、あるいは本質的な仏教の教え、あるいは、ね、さっきから言ってるサナート・ダルマ――すべてを貫く言葉にできない真理っていうものに、皆さんが一切触れられないで今があるとしたら、どうなってます? 例えばT君はいまだにアジアのどこかで頭ドレッドにして踊ってるかもしれない(笑)。

(一同笑) 

 でも先はないよね。先はないっていうのは、そんな遊んでずーっと一生暮らせるわけじゃないから(笑)。日本に帰ってきてお母さんとかに怒られて頭剃って、ダルマも修行も知らずに暮らしてたかもしれない。
 S君も、いまだにダルマも知らずに踊ってるかもれない。あるいはYさんと出会って、なんていうかな、瞬間的には楽しかったかもしれないけども、でもそこにダルマがなかったら――まあ多分ダルマがなかったら、今もう別れてるかもしれないね(笑)。

(一同笑)

 でもまあ、人間なんてそんなもんです。うん。人間なんてそんなもんで、嫌な部分が見えてきて――つまりダルマがあれば、心が純粋化されて、うまくいくかもしれない。でもダルマがなかったら、相手の嫌な部分が見えてきて、エゴが出てきて、何が正しいかもよく分からないから、お互いに相手を批判するだけで終わってしまう。
 ダルマがなかったらって考えると、やはり非常に恐ろしいんだね。で、それを逆説的に考えると、今ダルマに巡り合ったっていうのは非常に、歓喜に打ち震えると。
 前もちょっとこの話したけど、ちょっとこの話、通じるか分かんないんですけども、わたしのパターンで言うとね、わたし、前も言いましたけど、学校が嫌いだったんだね。みんなもそうかもしれないけど。小、中、高と嫌いだったんだね、全部ね。嫌いだったっていうか、友達との遊びとかはあったけども、学校自体がすごく嫌いだった。学校行くのがすごく億劫だったわけだけど。学校卒業して、東京に就職したわけですけども、そのころ――よほど学校嫌いだったんだろうね。就職して、まあ寮で一人暮らしを始めたんですが、朝、よくこう思う精神状態があって。その精神状態っていうのは、朝パッて起きますよね。起きたときに、布団の中でね、「ああー、今日も学校か。だるいなー」と。「全くもう……」って思ってて、ハッと気付く。「あれ? おれ卒業したじゃん!」と(笑)。

(一同笑)

 「え? 行かなくていいの?」みたいな(笑)。パーッてバラが開くような感じで(笑)。

(一同笑)

 「やったー!」みたいな。もちろん会社に行くわけだけども、そのころは、まあ、なんていうかな、東京に出てきたばっかりで、ちょっと面白かったから、学校に行かなくていい、あの縛られた空間に「もう行かなくていい!」みたいななんか、思いだしただけでワーってなったときがあった。
 で、それと似た感覚が、昔わたしよくこのダルマに対してあったんだね。つまり、わたしは小さいころからやっぱり悶々と、「真理とは何か?」とか、「わたしはなんで生まれてきたのか?」とかいろいろ悶々と考えてきた子供だったから。で、もちろんいろんな苦しいこともあった。みんなにもよく言ってるように、中学生のころに引っ越したところでいじめられたこともあったし、あるいはいろんな精神的葛藤もあったわけだけども。で、とにかく自分の中で真理を求める気持ちが強かったんですね。だからわたしが中学生のころに、本格的なっていうか、本質的なヨーガの道に巡り合って、「ああ、これなんだ!」って思った喜びっていうのはすごかったわけだね。で、それをたまによく思い出すんですね。思い出すっていうのは、つまり小さいころからこう悶々としてたところがあったから、「いったいわたしはなんで生きてきたんだろう? なんで生まれてきたんだろう?」とか、「この世界とはなんなんだろう?」っていうのがたまにイメージでパッて出るわけだけど、でもハッと気付くと、さっきの話みたいに、「あれ? おれ、出合ってるじゃん!」と。ね(笑)。「あれ? いつの間にかわたしはそれを解き明かすダルマ、あるいはそれを解き明かすための実践法であるヨーガの道に出合っちゃってる!」と。「え? まじ? いいの?」みたいな(笑)、そういう感じがあるんですね。
 でも、これってとても大事なんです。これがあるからわれわれは全霊を込めて打ち込めるんだね。これがなくて、もしわれわれが当たり前のように、つまりヨーガに出合ったこと、ダルマに出合ったことを当たり前のように考えてたら、当然打ち込めないでしょ。「ああ、それは出合ってますよね」と。「まあ、適当にやりましょう」ってなっちゃうわけだけど。
 もう一回、何度も繰り返しますが、われわれがこの人間に生まれ、ダルマに巡り合い、修行できるっていう機会が、なんと狭い道なのかと。なんと確率的に少ないのかと。これを考えることによってわれわれは、もう死に物狂いで、「絶対これを逃さないぞ!」っていう気持ちで修行できるようになるんだね。これがこの論理のエッセンスですね。だからこれをわれわれは何度も考えなきゃいけない。
 だからさっきの話に戻すとね、われわれが、もともと、なんていうかな、心が神でいっぱいで、あるいは真理でいっぱいで、それしか考えられませんと。さっきのギリシュみたいに、死後なんてどうでもいいと。わたしの心には常に師がいらっしゃると。あるいは主がいらっしゃると。あるいはわたしは常に、見えるものはすべて至高者しかありませんと。だから別に死後とか未来とかどうでもいいんですと。病気だってどうでもいいんですと。この境地に達してたら、もちろんそんな考えはいらないよね。でもわれわれはそうじゃないわけです。いろいろくだらない心の問題でいつも悩み――まあ、はっきり言うとこれはエゴだけども。エゴによっていつも不安がり、あるいは恐怖をし、あるいは妄想し、あるいは過去のことでぐちぐちと悔やんだり、あるいはいろんな、ダルマや主、至高者とは関係のないイメージで遊び続けると。こんな状態だったら、当然強制策が必要なわけですね(笑)。これでは全くわれわれがダルマに巡り合った意味がない。よって、もう一回話を戻しますが、きめ細やかな、ね、シャーンティデーヴァが組んでくれたようなきめ細やかなダルマをしっかりとわれわれが学んで、それによってわれわれの心の欺瞞性――つまり本当はわれわれは知ってるわけだけど。「ダルマしかないんだ!」と。「至高者しかないんだ!」っていうのは知ってるわけだけども、それを邪魔してるこのエゴの欺瞞性を、『入菩提行論』に代表されるようなきめ細やかなダルマで、一個一個打ち破っていかなきゃいけないんだね。

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解説「菩薩の生き方」第二回(1) https://blog.yoga-kailas.com/%e8%a7%a3%e8%aa%ac%e3%80%8c%e8%8f%a9%e8%96%a9%e3%81%ae%e7%94%9f%e3%81%8d%e6%96%b9%e3%80%8d%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e5%9b%9e%ef%bc%88%ef%bc%91%ef%bc%89/ https://blog.yoga-kailas.com/%e8%a7%a3%e8%aa%ac%e3%80%8c%e8%8f%a9%e8%96%a9%e3%81%ae%e7%94%9f%e3%81%8d%e6%96%b9%e3%80%8d%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e5%9b%9e%ef%bc%88%ef%bc%91%ef%bc%89/#respond Mon, 25 Mar 2024 08:57:05 +0000 https://blog.yoga-kailas.com/?p=9517 2011年10月23日

解説「菩薩の生き方」第二回

【本文】

 この恵まれた人生は、きわめて得がたい。これを得て初めて人間の目的(すなわち解脱)は達成せられる。もし、ここで(真の幸福の因である)善福を認識しなかったら、どうして再び(このような幸福が)めぐり来よう。

【解説】

 これは仏教の基本である、「人に生まれることの稀有さ」の強調です。

 基本的なことですが、もう一度簡単に説明しましょう。

 我々は、解脱しない限り、地獄・動物・餓鬼・人間・天の五つの世界を輪廻し続けます。六道輪廻という場合は、最後の天を、阿修羅と天に分け、六道とします。

 輪廻するというのはつまり、死んでは生まれ変わり、死んでは生まれ変わり、これを永遠に繰り返すということです。解脱しない限り、終われないということです。

 お釈迦様は輪廻転生を説かなかったとか、あるともないとも言わなかったとか言う人がたまにいますが、そんなことはありません。お釈迦様の実際の言葉に最も近い内容を探るには、現存する原始仏典を探るしかないわけですが、少なくとも原始仏典には、輪廻転生の話はたくさん出てきます。というより、輪廻転生があることが大前提となって、教義が展開されています。また、解脱者が身につける神通力の一つに「宿明通」という、あまたの過去世を思い出す能力があるということも、お釈迦様はお説きになっています。

 「お釈迦様は輪廻を方便として説いたのだ」などという推測をするのは自由ですが、推測ではなくてお釈迦様自身の言葉に最も近いと思われる経典をそのまま素直に受け取るならば、輪廻転生は実在すると考えるのが自然ではないでしょうか。

 さて、この六道輪廻のうち、下の三つの世界(地獄・動物・餓鬼)は「三悪趣」と呼ばれ、大変な苦痛に満ちた世界です。人間以上の世界は善趣といって、一応幸福な世界なのですが、自分の人生を振り返れば、人間界に生まれても、幸福なことばかりではないことはお分かりでしょう。

 天に生まれたらどうでしょうか? 私は天こそ、最悪の輪廻の苦痛の世界だと思いますね。なぜなら、天の神も死ぬからです。天はすばらしい歓喜と幸福に満ちた世界です。しかし死ぬのです。そして死んだらほとんど、天より低い世界に生まれ変わります。天から地獄に生まれ変わることも、稀ではありません。

 我々の幸福や苦しみというのは、相対的なものです。つまり以前の経験と今の経験の比較や、自分と他人の比較によって、苦楽を感じるわけですね。ということは、たとえば動物から地獄に落ちるとか、人間から地獄に落ちるのに比べて、天から地獄に落ちるというのは、これ以上にない苦痛ということになるでしょう。天での快楽が大きければ大きいほど、その後の地獄の苦痛も大きく感じられます。だから「天こそ最悪の苦痛の世界」と書いたのです。
 そして確率からいうと、我々はほとんど、地獄・動物・餓鬼の三悪趣を輪廻し続け、本当にたまに、人間や天に生まれるだけだ、といわれます。これは脅しではなくて、論理的に正しいことです。なぜなら、すべての現象の原因は自己の善悪の行為(カルマ)だからです。良い行ないによって幸福になる。悪い行ないによって不幸になる。そしてその良いカルマを多く持っていれば良い世界に生まれるし、悪いカルマを多く持っていれば苦しい世界に生まれるということです。

 そして地獄・動物・餓鬼の世界では、良いカルマを積むことはほとんどできません。

 天の神はどうでしょうか? 実際は天というのは、この欲界の輪廻を超えた、もっと高い天もあるのですが、ここでは欲界の天のことを指しています。この欲天の神は、無智をその性質としているので、あまりの快楽や幸福に溺れ、修行もせず、徳も積まず、ただ功徳を浪費するだけなのです。

 そしてこの輪廻の中で唯一、まじめに修行し、徳を積むチャンスがあるのが、この人間界だというのです。

 人間界は、地獄ほど苦しくないので、真理を探究する余裕があります。動物ほど無智ではないので、ものを考えることができます。餓鬼ほど貪りが強くないので、他者への善を行なうことができます。天ほど楽しくないので、人生に溺れることがありません。

 だから人間に生まれたときこそ、チャンスなのです。徳を積み、修行し、解脱し、この輪廻から抜け出る唯一のチャンスなのです。

 そして、ここでシャーンティデーヴァが言っていることを、もう少し噛み砕いてまとめて書きますと、こういうことです。

 「人間界こそが、唯一、徳を積むことができ、修行ができ、解脱することができる世界である。

 しかしこの人間界に生まれるチャンスは、極めて少ない。

 いま私は、その稀有なチャンスを得ている。それなのに今、徳を積んだり修行をしようという強い気持ちを起こさなかったら、いったいいつ解脱できるというのだ?

 ものすごい低い確率でやっとめぐってきた今のこのチャンスを逃したら、再び人間界に生まれ、解脱のチャンスにめぐり合うのは、至難の業だよ。次はいつになるかわからないよ。また、苦しみの輪廻を永い間さまよわなければならないよ。」

 はい、これはね、いつも出てくる、仏教の一番最初の方でわれわれが認識しなきゃいけない、人間に生まれることの稀有さっていう話ね。
 これはまあ、まさに読んだとおりですが、われわれが普通、ね、死んだら、輪廻転生してしまいますよと。つまり、したくなくてもしてしまう。ね。どこかに生まれ変わってしまう。しかもその確率は低い世界ほど大きいですよと。で、人間界に生まれる確率は非常に少ない。しかし修行できる世界は人間界しかないと。
 これはね、ヒンドゥー教でも、例えばシャンカラとかもそういうことを言っていて、まあ仏教、ヒンドゥー教、共通の認識ですね。よって、今こそがチャンスなのだと考えて、すべてを捨てて修行に邁進しなきゃ、いつやるんだという話ね。
 ただね、ちょっとぶっちゃけてっていうか、これ言ってしまうと全部吹っ飛んじゃうけども、真のバクティの道においては、輪廻転生なんかどうでもいい。だからね、われわれは、われわれっていうか皆さんは、なんていうかな、皆さんはやっぱり、いつも言ってるけど、徳があると思う。とてもね。なぜ徳があるかっていうと、こんだけそのバクティのエッセンス、それから仏教のエッセンス、それからヨーガのエッセンスを学べる皆さんっていうのは、とても徳がある。で、ここでいうエッセンスっていうのは、バクティのエッセンス、それはさっき言ったようなことも含めてね、皆さんが日々学んでることがある。それから仏教のエッセンスっていうのもいろいろあると。で、その仏教のエッセンスの、ここで一番打ち出してるものとして、例えば『入菩提行論』がある。あるいは、まあ同じようなパターンの別のものとしては『心の訓練』とかもあるね。で、こういったね、例えば『入菩提行論』とか『心の訓練』とかっていうのはまさに、非常に実質的な、つまり机上の空論ではない、なんていうかな、確実にわれわれの心を変えていく、まあ、秘儀的なものなんですね。で、バクティっていうのは、バクティをもし皆さんがほんとの意味で――『入菩提行論』も半分はバクティみたいなものなんですが、そのバクティの部分を皆さんがほんとに高めたら、一切の論理も吹っ飛ぶっていうか。
 例えばね、例を挙げると、ギリシュ・チャンドラ・ゴーシュの生涯の話でね、最後の方で、ギリシュが病気になっちゃって、まあでもそれは、わたしがね、師ラーマクリシュナから、ね、――ギリシュは師ラーマクリシュナに自分の、「代理人の権限」っていうわけですけども、わたしが幸せになること、あるいは悟りを得ること、あるいは、ね、ほんとに神に覚醒していくことのやり方っていうかな、それを全部、代理人として師に預けてしまったと。だからわたしに起きる幸不幸は全部師からのたまものであると。だからわたしはそれに対して何もどうこうすることができない。だから病気になったときも、ほんとはわたしが心から師に祈れば、こんな病気なんて吹っ飛ぶと。吹っ飛ぶけども、わたしにはそんなことできないんだ、っていうことを、まあ、言ってたわけですね。
 そして病気がどんどん重くなって、もうすぐ死ぬっていうときに、まあ、やっぱりもうすぐ死ぬから、ちょっとギリシュは死後の世界のことを考えだしちゃったんだね。「あれ? 人間って死んだらどうなるのかな?」と。「ヒンドゥー教でもいろいろいわれてるけども、いったいどうなるんだろう? わたしの魂はどうなっていくんだろう?」と。ね。「このわたしっていう存在は、死と、肉体の崩壊とともに、いったいどうなっていくんだろう?」っていろいろ考えてたらしいんだね。そしたらちょうどそこに、『ラーマクリシュナの福音』の著者であるMね、マヘンドラナート・グプタが訪ねてきた。訪ねてきて――あのMっていう人はいつも、Mがやって来ると、いつもラーマクリシュナの話になるらしいんだね。スタートがなんであれ、例えばスタートが「今日のお供物おいしかったね」とかね、あるいは「昨日雨だったね」っていう話だったとしても、いつの間にか全部ラーマクリシュナの話になると。で、Mも病気のギリシュをお見舞いに来て、で、さっそくラーマクリシュナの話が始まったわけだね(笑)。そしたらそこで、ギリシュがちょっと顔色が変わって、で、Mに対して、「ちょっと君にお願いがある」と。「ちょっとそこの靴を取ってくれ」と。何かと思ったらその靴で――「これは真剣なお願いだ」と。「これは冗談ではなく真剣なお願いなんだが、その靴でわたしの頭をひっぱたいてくれ」って言ったんだね(笑)。で、Mが笑って、「そんなことをしなきゃいけない理由は何か教えてくれ」って言った(笑)。そしたらギリシュが言うには、「わたしは、主の恩寵を受け、わたしの胸には常に師ラーマクリシュナが住んでいらっしゃる」と。「にもかかわらずわたしは、いまだに死後どうなるかとか、そんなことを考えてる」と。「だからわたしは靴でひっぱたかれるのにふさわしい人間なんだ」って言うんだね。
 つまり、バクティの道を行く者にとっては、「死後どうなるのかな?」――そんなのどうでもいいと。ただわたしがすべてを主に預けられるか、あるいは主が完全に自分を守ってくださってるっていう確信があれば、それでいいんだね。「こうなったらどうなんのかな?」「ああなったらどうなんのかな?」っていうのは全くどうでもいいんだと。これがバクティの世界なんです。
 ただ、ちょっと話を戻しますよ。じゃあわれわれはどうしなきゃいけないのか。われわれは完全に、二足のわらじで行くべきです。つまり、今言ったような素晴らしい、全部の論理が吹っ飛ぶようなバクティの世界を高めると同時に、同時にこの『入菩提行論』で説かれるような、きめ細やかなダルマっていうかな、きめ細やかな、ある意味合理的なダルマの獲得っていうかな、それは同時にしなきゃいけない。
 っていうのは、そうですね、時代が時代ならバクティ一本でいけたかもしれないんだけど、やっぱりね、われわれの心はまだまだエゴが強いので、バクティ一本で行こうとすると、やっぱり似非バクティになりがちなんですね。なかなかわれわれの心が純粋化した状態をずーっと保てるっていうのは、まあ現実問題として非常に難しい。だからわれわれは――そうじゃない、われわれの悲しい現実っていうかな、つまりわれわれの純粋な心を引きずり下ろすエゴの罠みたいなのがいっぱいあるわけですね。それを、この偉大な『入菩提行論』に代表されるようなダルマで打ち砕いていかなきゃいけない。
 だから逆の言い方するとですよ、この『入菩提行論』とかによって打ち砕く意味、打ち砕く狙いは、さっき言った、論理を超えたバクティに到達するためです。つまり論理を超えたバクティに到達するために、まずは論理によって、自分のエゴをなんとか打ち砕かなきゃいけない。
 でも、いつもそれをする必要はないよ。いつもそれをする必要はないっていうのは、皆さんが調子いいとき、心が純粋なときは、さっきのギリシュみたいな心でいてください。はっきり言うと、だから純粋なときはこれは必要ありません。今言った輪廻の話は必要ありません。皆さんが本当に心が純粋なときは、「ん? 輪廻? どうでもいいじゃないか」と(笑)。ね(笑)。「わたしの心には常に主がいらっしゃる」と。あるいは「わたしは常に主にすべてを預けてる」と。で、似非バクティになっちゃいけないっていうのは、「預けてる」とか言いながら、全然修行しないと。あるいは全然教えを守らないと。あるいは全然、例えば苦しみから逃げるし、苦しみを嫌悪すると。これは駄目ですね。だから本当に自分を完全に預けた状態、あるいは捧げた状態っていうのに自信があって、で、なんの不安もないと。なんの恐怖もないと。このような状態だったならば、教えさえいらなくなるんです。でも何度も言うけども、そういう状況にわれわれが行くことは難しいし、まあ仮に行けたとしても、持続するのは、特にこの現代では難しい。よって、きめ細やかな念正智によって、自分のそのいい状態、その中心点にある状態を阻害してるものを、もう日々打ち砕き続かなきゃいけないんだね。

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解説「菩薩の生き方」第一回(3) https://blog.yoga-kailas.com/%e8%a7%a3%e8%aa%ac%e3%80%8c%e8%8f%a9%e8%96%a9%e3%81%ae%e7%94%9f%e3%81%8d%e6%96%b9%e3%80%8d%e7%ac%ac%e4%b8%80%e5%9b%9e%ef%bc%88%ef%bc%93%ef%bc%89/ https://blog.yoga-kailas.com/%e8%a7%a3%e8%aa%ac%e3%80%8c%e8%8f%a9%e8%96%a9%e3%81%ae%e7%94%9f%e3%81%8d%e6%96%b9%e3%80%8d%e7%ac%ac%e4%b8%80%e5%9b%9e%ef%bc%88%ef%bc%93%ef%bc%89/#respond Thu, 21 Mar 2024 08:41:18 +0000 https://blog.yoga-kailas.com/?p=9514 【本文】

第一章 菩提心の賛嘆

――オーム、ブッダに帰依いたします――

【本文】

 もろもろのスガタと、仏子(菩薩)と、法身と、すべての敬うべき師主たちの前に、恭しくひれ伏して、仏子の律儀への趣入(すなわち菩薩行の実践)を、聖典にしたがって、私は簡単に説こう。

 ここに(経典にないような)斬新なことは何も述べられない。また私には著作の才能もない。ゆえに、私は他人のためを考慮せず、もっぱら自己の心を(菩薩行の実践によって)薫じようと、これを作った。

 これによって、私の清浄な心の流れは、善を実現しようと強く増進する。ところで、私と同じ性質の他の人が、これを見るならば、これはまたもって効用を生ずるであろう。

【解説】

 これは序文の部分です。

 ここでシャーンティデーヴァは、謙遜をしていますね。しかしこの書全体を見るならば、もちろんシャーンティデーヴァが、多くの人々のために、この書を書いたのは間違いのないことです。しかしこのような書き方でこの書が始まるところに、シャーンティデーヴァの謙虚さとともに、ユーモアを感じますね。私は才能がないので、自分のためにこの書を書いたんだけど、まあ、自分と同じ性質の人がいたら、少しは役立つかもしれないですね、みたいなことを言っているわけですね(笑)。

 ここで少し言葉の解説をしますと、スガタというのはお釈迦様の呼び名の一つで、普通は「善逝(ぜんぜい)」と訳されますが、善逝といってもよくわからないので、あえてスガタとしました。ここでは、「もろもろの」と言っているので、お釈迦様だけではなく、この宇宙に遍在する多くのブッダ方のことを言っているのでしょう。

 はい。これは序文の部分ね。シャーンティデーヴァの非常に謙虚な書き出しで始まるわけですね。「わたしはその、本を書く才能もないし、ここに書くことも別に特別なことを述べるわけじゃないよ」と。「これは自分のために書いたんですよ」と。「自分の心を変えるために書いたわけだけども、まあ、でも、同じようなタイプの人がいたら役立つかもしれませんね」ぐらいのことを言ってるわけだね。
 「ここに(経典にないような)斬新なことは何も述べられない。」――これは真実です。つまりシャーンティデーヴァってもちろん、別に新しいことを言ってるわけじゃない。つまりそれまでのお釈迦様の教え、あるいはそれに続く大乗仏教の教えを言ってるんですね。しかし何度も言うけども、内容はもちろんそうなんだけど、その説き方が非常に素晴らしいんだね。あるいはエッセンスがちゃんと分かってるっていうかな。だからその意味でこの『入菩提行論』は非常に素晴らしい。
 何度もね、繰り返すけども、確かにこの『入菩提行論』は、それまであった仏教経典と、内容的にはあまり変わらない。あるいは現代でも多くの人が仏教の本を書いてる。まあ内容的には同じようなことを言ってる。ヒンドゥー教もそうですけどね。ヒンドゥー教も、もちろんサナートダルマといわれる本質的な教えは変わらないから、いろんな人がいろんな教えを説いてるわけだけど、本質はあんまり変わらないよね、もちろんね。しかし大事なのは、繰り返しますが、エッセンスがなんなのか分かってるかどうか、そしてそれを独りよがりではなくて、ほんとにわれわれの心にズバッと入るように説けてるかどうかなんだね。で、繰り返すけども、ほとんどの歴史的な本、あるいは現代日本でも本屋とかにあふれかえってる本は、それがない。それがないっていうのは、エッセンスがないし、あるいはエッセンスがあったとしても、まあ説き方があまり良くないっていうかな。あまり美しくなかったり、面白くなかったり、あるいはわれわれの心にあまり響かない。
 で、――繰り返すけどね、いやあ、仏教は難しいんだよと、ヒンドゥー教は難しいんだよっていうのは、これは完全に言い訳です。ね。言い訳っていうか逃げ口上っていうか。そんなことはないんだね。そんなことはないっていうか、ほんとの意味で、なんていうかな――これはラーマクリシュナの言葉を思い起こさせるんだけど、ラーマクリシュナが繰り返して言うのは、みんなが教師になりたがると。で、これは現代のスピリチュアルとかそうですけどね。SNSとか見てても、「はい、なんとかエネルギー伝授」とかいうのがよくあるわけだけど(笑)。あと例えば、たかだか、なんか数日間、なんか講習受けたとかいう人が、なんとかのエネルギーを与えられるようになりましたとか言ってよく書いてるわけだけども、みんなが教師になりたがる。あるいはみんながそういう役をやりたがるわけだけども、ラーマクリシュナの言葉を使うとね、ほんとの意味で、至高者、神から、その任務を受けた人でないと、人の心を変えることはできない。で、逆に言うと、その、ほんとの意味で神から任務を受けた人っていうのは、まさに自然にね、あるいはほんとに、みんなの心を変えるようなかたちで教えを説くことができるし、あるいはその言葉に力が入るんですね。
 だからまあ、そういう観点からいえばそうなのかもしれない。つまりこのシャーンティデーヴァにしろ、あるいは、もちろんほかにもいますけどね、ほんとの意味でわれわれの心を変えてくれる、あるいは仏教やヨーガのエッセンスをズバッとこうわれわれに伝授してくれるような、本、あるいは教えを説く人っていうのは、まあ少ないわけだけど、ただ歴史上、ポイントポイントで登場するんだね。
 だからわたしはいつも言うけども、あまりやっぱりその辺のいろんな本を読まない方がいいね。われわれにとって、ほんとに心を変えてくれるような、あるいは利益のある、本というか人というか、それはやっぱり限られてる。まあ、もちろん縁とかがあるから、わたしはこれは結構ピンとくるけどほかの人はこないとかね、そういうのはあるけどね。そういうのはあるけども、それも含めて、本物をつかめばいい。
 ここにいる人はそういう人はあんまりいないかもしれないけど、ちょっとこう、教えを学びたいと思って、いろんな教えに手を出して、ちょっとわけが分かんなくなる人が結構いるわけだけど(笑)。あるいは例えば、ね、わたしは昔そういうところあったけど――昔ってほんとに昔ね、仏教とか学び始めたころに、いろんな難しい仏教の論書とかいっぱいあるから、そういうのを古本屋とかで買ってきて、研究すると。はっきり言ってね、今考えるとですけど、苦痛でした(笑)。苦痛ね。前も言ったけどさ、そういう仏教経典とか研究してるときに、週に一回『ジャンプ』とか読むんだね(笑)。『ジャンプ』の方が面白くて(笑)。で、瞑想するとドラゴンボールが出てくるっていう状態だったんだけど(笑)。でもそれはそのときはわたしは、いやあ、やっぱり勉強っていうのは大変だと。だからちょっと大変だけども頑張って仏教の本を学ばなきゃいけないと思ってたんだけど、やっぱりそれは間違いだった。うん。それははっきり言ってその本が悪い(笑)。こんなこと言うと傲慢な感じだけど(笑)。

(一同笑)

 でもほんとなんですよ。わたしの気持ちっていうか経験を言うとね、いいですか、例えば、まあ名前は出さないけども、ほんとに仏教で大事といわれてる古典的な経典や論書をわたしはいっぱい学びました。例えば五冊、十冊、十五冊と、徹底的に研究して……もう難しい書き方がしてある。例えば、なんか、ほんとにね、無駄なんじゃない?って思えるぐらい難しい書き方してるんです。例えば、え、これどういう意味? 日本語としてちょっと変だなと。どういう意味だろう、どういう意味だろう――何度も繰り返してページを戻ったり進んだりしながらやって、あ、これが言いたかったのかと。じゃあ、なんで最初からこういうふうに書かないんだっていうのがあるんだね(笑)。最初からこう書けばいいじゃん、もっと分かりやすくこう表現すればいいじゃん、っていうのがある。なんかわざとなのか分かんないけど難しく表現してある。で、それをかみ砕いてかみ砕いて自分の中で理解して、あ、つまりこの経典は、これとこれとこれが言いたかったのかと。素晴らしいな、確かにこの経典が言いたかったことは素晴らしい。なるほどと。わたしはこれを一カ月ぐらいかけてようやく理解できたと。でもそれが、『入菩提行論』読んだら三行ぐらいで表現されてるんだね(笑)。「あれ? 十秒で分かっちゃった」と。「おれの一カ月なんだったの?」と。ね(笑)。こういう感じがあるんだね。だから――でもこの場合は、まだ時間がかかったにしろその中にエッセンスが含まれてるからいいよ。だからこれは、エッセンスはあるけども、表現がまずいっていう場合ですね。で、巷の本の中にはエッセンスもないのもあるから。つまり単純に、仏教の表面的な部分だけを例えばまとめて、仏教ですよって出してる本もある。こんなのははっきり言って百害あって一利なしです。あんまりメリットはないけどまあ読んだらいいんじゃない?っていうんでもない。はっきり言って害です。
 ちょっと強烈な言い方になっちゃうけどね。読むだけ仏教から遠ざかるような仏教の本もたくさんあります、現代ではね。だからあんまり読まない方がいい。自分で信頼してる聖者とかの教えだったらいいよ。「わたしはこの聖者が好きだから読むんだ」っていう、自分で確固たる思いを持って読むんならいいけども、よく分かんないのをこう、ちょっと仏教知りたいなと思っていろいろ読み漁るのはあんまり良くないね。どんどん真理から遠ざかるかもしれない。
 はい。だからちょっと話を戻すけども、シャーンティデーヴァは、まあ、ちょっと謙遜して言ってるわけですけども、実際には、もう、なんていうかな、歴史的な、非常に有益なものをここで説いてくれたわけだね。でもこれは、ほんとにシャーンティデーヴァが言ってることは真実かもしれない。つまり、自分のために最初はまとめたのかもしれないけども、その自分のためっていうその意味がね、つまり、最もエッセンスを分かりやすく、そして自分の心でほんとにそれが理解できるようにそれを咀嚼したっていうかな。それをわれわれのために残してくれたっていうことですね。
 はい、じゃあだいぶもう時間が過ぎちゃったので、ちょっと、ここまででね、今回は終わりにして。はい。じゃあ、質問がもしあったら質問を聞いて終わりにしましょう。

(S)すみません、せっかくなので、質問といいますか、ちょっと感じたことなんですけども。例えばラーマクリシュナがMっていう人と会ったときに、「あんたの奥さんはどんな人だ?」とか言って、Mが「いや、うちの妻はこういうものでして」って答えると、ラーマクリシュナがちょっと厳しい表情で怒ってそのエゴを破壊するっていうことがありましたね。例えば今、先生のお話を伺ってて、シャーンティデーヴァの役目っていうのはそういうナーランダーのそういう人たちの高慢を打ち砕くっていうことで、そこに身を置いたということなんですけども。例えば『入菩提行論』の最初の方の「もろもろのスガタと、仏子(菩薩)と、法身と、すべての敬うべき」って始まってるところですごく謙虚に、自分のためにこれを記したんであって、自分と同じ性質の人がいたら少しは役立つかもしれないですねっていう言い方をしたっていうのは、やっぱり一つのトリックっていうか、人の心を覆すっていうか、そういう始まり方をしてるもんなんでしょうか? ちょっと考え過ぎかもしれませんが。

 ん? どういうこと? もう一回言って(笑)。

(S)ごめんなさい(笑)。なんて言うんだろう、そういう高慢な人たちの気持ちをくすぐるというか、そういう感じで、わざわざこういう謙虚な言い方をしているのかなというか……そういうわけでもないんですか?

 ああ、でも確かにそれはあるかもしれないね。つまり、もうこの境地の人っていうのは、なんていうかな、そういう意味で言ったらすべてがリーラーっていうか、すべてがもちろん神や仏陀の意思なわけだけど、それを、ある言い方をすれば、すべてが意図があると思ってもいいと思う。それを自然にやってるのか考えてやってるのかは別にして、当然すべてに意図がある。つまりこのように謙虚な言葉で始めるのも当然意味があるのかもしれない。これもだから、論書という意味で確かにナーランダー的なことを――まあ多分Sさんが言いたいことはそういうことだと思うんだけど、ナーランダーで起こした奇跡を、この論書そのものでやろうとしてるのかもしれないよね。つまり経典の最初、最初何も知らない人が読み始めたら、「わたしは著作の才能もない」とかね、「斬新なことも書いてないよ」っていうのを呼んだら、「あ、この人あんまり知らないんだな」と(笑)。「このシャーンティデーヴァってあんまりなんか、才能もないし斬新なこともないみたいだな」と。「でもわたしは結構教えを学んでるから、シャーンティデーヴァさんが言うことは理解できるだろうから、まあ、ちょっと読んでやろうか」みたいな感じで読むかもしれない。読んでたら、「うわ、すげー!」ってなって(笑)、「おれが間違ってた」ってなることを狙ってる可能性はあるよね。でもそれはまあ、一面でしょうね。そういうのもあるだろうし、あるいはほかのタイプの人にはほかの作用を狙ってる可能性もあるよね。
 わたしとしてはもちろん、先入観はなかったけども、『入菩提行論』っていうのがすごい本だっていうのは知ってたから、これを読むときに、ここで例えばそういう気持ちにはならなかったけども、まあ一つの、あるタイプの人に対してはね、見本みたいな感じにもなってくるよね。見本っていうのはつまり、こういうふうに謙虚な姿勢っていうか、あるいはへりくだった姿勢っていうか、あるいは自分を高慢にひけらかさない姿勢っていうか、それが大事なんだなっていう見本にもなってくれるだろうし、あるいはさっき言ったように、そこでトリック的に人の心をね、いったん慢心を引き出しといて、ズバッとこう破壊するっていう意味もあったのかもしれない。まあ、それはいろいろあったんだと思います。

(S)なるほど。分かりました。

 これはさ、この本だけじゃないんだけど、まあ、もちろん『バガヴァッド・ギーター』もそうだし、いろんな、本当の意味での経典、聖典っていうのはさ、やっぱり不思議な感じがあるんだよね。不思議な感じっていうのは、やっぱり神の道具として使われてるっていうかな。神の道具としてっていうのは、いろんな意味でわれわれに作用してくれるんだね。例えばわれわれがほんとに、心にちょっと変化が必要なときとか、あるいは心がちょっとこう駄目になってるときとかに、その経典のね、一節が、ズバッとわれわれの心を変えてくれるとか、あるいはわれわれが修行が進むごとに、全然違う意味でその経典の内容がわれわれの心に響いてくるとか。
 で、その経典っていうものが、つまり、ちょっとまた大まかな話になっちゃうけども、これ、よく言うように、さっきのラーマクリシュナがね、Mに対して言った教えとして、わたしもよく使う比喩としてね、グルというのは、つまり修行上の師匠というのは、この迷妄の壁に一つだけ開いた穴ですよっていう表現をよくする。穴ですよと。言ってみればただの穴なんだけど、その穴を通してのみ、われわれは向こう側を見ることができる。つまり、真実の世界を垣間見ることができると。で、壁――この壁っていうのは、壁にいろんな模様が描いてあったり、色が塗られてたりする。で、われわれはその壁の、なんていうかな、ただ描いてあるだけのものを真実だと思ってるわけだけど、そこに一個だけ穴が開いてる。で、この穴っていうのはさ、その壁のいろんな模様の中に穴があったら、それをわれわれは穴とは思わないんだね。模様の一つと思います。あるいは汚れと思います。汚れか、またはなんか丸い模様が描いてあるな、くらいにしか思わない。しかし実は穴なんです。それのみが、われわれにとっての真実への入口なんです。
 つまり、何を言ってるのかっていうと、われわれは、いつも言うようにね、今、ドラッグをやってるようなもんでね、ドラッグをやっていろんな幻影を見てるようなもんです。でもまさにゲームみたいな感じで、この中に、真実への入り口がちょっと混ざっています(笑)。混ざってるんだね。で、これが、まあ、よく言われる言い方をすると、ヴィディヤーマーヤーっていうやつですね。ヴィディヤーマーヤー。つまりマーヤーっていうのは普通はアヴィディヤーマーヤーっていって無明の夢なんだけど、この無明の夢の中に、光の夢がちょっとだけ混ざっています。で、これがわれわれの世界でいろんな展開をしだす。で、その光の夢の集約されたものが、まあ、皆さんにとってのグルですよっていう言い方をするんだね。でもそれだけじゃなくて、この光のマーヤーは、皆さんの人生にいろんなかたちで混ざってくるんです。で、そういう意味でいったらこの経典、経典の中でこの『入菩提行論』、あるいは『バガヴァッド・ギーター』とか、聖なる重要なエッセンスを含んだ経典っていうのは、経典のかたちで現われたヴィディヤーマーヤーなんだね。つまりわれわれにとって、われわれを目覚めさせるマーヤーのエネルギーが、経典という形で現われる。で、われわれの人生にいろんなかたちで介入してくるんですね。パッとこうそれを読んだときにわれわれがパッと変わるとかね。だからそういう意味も、こういった聖典にはある。
 だから、今日わたしが伝えたかったことっていうのは、ちょっと、なんていうかな、言葉にはしにくいけども、まあ、そういうことです。つまりこの迷妄の人生っていうのは、お釈迦様が何度も言ってるように、苦であって幻であって幻影であって夢みたいなもんだと。でも、ちょっと本物が混じってるんです。ね。それをつかまなきゃいけない。本物が混じってると。さっきさんざん、本とか経典の話もしたけども、それも同じで、はっきり言うと今本屋に売ってるようなヨーガ系とか仏教系の本なんて、ほとんど価値ありません。ほとんどがアヴィディヤーマーヤーです。このアヴィディヤーマーヤーの中にちょっとだけ本物が混ざってます。ね(笑)。ちょっとだけ本物が混ざってる。で、それがわれわれの人生に介入してくる。で、それをわれわれはつかまなきゃいけない。うん。
 これはもちろん、経典だけじゃないけどね。われわれの心に浮かんでくる、ハッとした思いとか、全部そうだけども、それをわれわれはつかまなきゃいけない。つかんで、それをわれわれの心を変えるエッセンスとしてちゃんと使わなきゃいけない。
 で、まとめるけども、この『入菩提行論』こそは、わたしの人生でね、わたしが発見した中でも、最高のヴィディヤーマーヤー的聖典っていうかな。「あれ、発見しちゃった!」と。「え、こんだけエッセンスが凝縮したものを、神様がなんか置き忘れたんじゃない?」みたいな感じで(笑)、「これはもう、発見した!」みたいな感じで考えてたのが、わたしにとってのこの『入菩提行論』なんだね。だからまあ、カイラスの初期のころから、皆さんにはこれをすごく勧めてたわけだけど。
 何度も言うけど、ちょっとわたしが言うと傲慢な感じで聞こえるかもしれないけど、皆さんは非常に徳がある。日本でこれだけ『入菩提行論』を学んでるのは皆さんぐらいです(笑)。ここまで学んでないから。ここまでプッシュしてないから、みんなね(笑)。まあ現代ではさ、さっきも言ったように、チベット系のグループとかでも学んでるかもしれないけど、ここまで多分プッシュしてない。それからわたしが知る限りでは、今日本で入菩提行論が載ってる本は、あまりいい訳のものがない。だからそういう意味では皆さん徳があると思うね。まあ、あるいはそれだけの法縁があるっていうか。
 もちろん、カイラスで出してるっていうかプッシュしてる教えは他にもたくさんあるので、皆さんも大変かもしれないけども、でも何度も繰り返すけども、『入菩提行論』はかなりエッセンスを凝縮したものなので、ぜひ皆さんの、まあ座右の書としてね、もう何度も何度も、心に根付かせるように読み続けてもらいたいと思うね。

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解説「菩薩の生き方」第一回(2) https://blog.yoga-kailas.com/%e8%a7%a3%e8%aa%ac%e3%80%8c%e8%8f%a9%e8%96%a9%e3%81%ae%e7%94%9f%e3%81%8d%e6%96%b9%e3%80%8d%e7%ac%ac%e4%b8%80%e5%9b%9e%ef%bc%88%ef%bc%92%ef%bc%89/ https://blog.yoga-kailas.com/%e8%a7%a3%e8%aa%ac%e3%80%8c%e8%8f%a9%e8%96%a9%e3%81%ae%e7%94%9f%e3%81%8d%e6%96%b9%e3%80%8d%e7%ac%ac%e4%b8%80%e5%9b%9e%ef%bc%88%ef%bc%92%ef%bc%89/#respond Wed, 20 Mar 2024 21:32:34 +0000 https://blog.yoga-kailas.com/?p=9511

【本文】

 出家後、彼は密かにマンジュシュリーを瞑想し、深い智慧を有していましたが、僧院で学問を学ぶことには全く無頓着でした。しかも毎朝、五人分の食事を食べていたといいます(笑)。このように、実は深い智慧を有していたのですが、外面的には、勉強もせず、ただの大食いの怠け者に見えたので、「ブスク」というあだ名をつけられました。ブスクとは、ただ食べ、歩いて、寝るだけの人、という意味で、つまり怠惰な怠け者という意味です。

 はい。これもまあ有名な話ですね。まずナーランダー、まあ現代でもその遺跡が残ってますけどね、当時最大の権威と規模を誇っていた仏教僧院ですね。まあ仏教大学とかもいわれるけど、いわゆる僧院ですね。出家したお坊さんたちが集まって日々勉強したり瞑想したりする僧院ね。そこに出家しましたと。で、毎朝――仏教の出家修行者っていうのは朝だけなんです、食べるのはね。で、午後は食べてはいけないと。朝一食なんだけども、で、まあ昔は托鉢をしてたわけだけど、この当時はおそらく、まあ托鉢制度もあったかもしれないけど、僧院なので、ある程度食事の配給システムはあったと思うんですけども、それを五人分食べてたんだね(笑)。毎朝五人分食べてた。だからこの中でも食いしん坊の人はね、ちょっと心の支えにしたらいいね(笑)。

(一同笑)

 シャーンティデーヴァも毎朝五人分食べてたと(笑)。おそらく、なんていうかな、ちょっと肯定的に考えると、火元素が強かったんだろうね(笑)。お腹の火元素が強く燃えてて、ペロリと五人分平らげてたと。で、外面的には、勉強もせずただの大食いの怠け者に見えたと。食べて寝て歩くだけに見えたと。
 この辺はね、いろいろ考えられるけども、これもよくいわれてるのは、密教的かどうかは別にして、このシャーンティデーヴァって、マンジュシュリーの、まあ、ある意味ちょっとバクティヨーガみたいな感じなわけですけども、マンジュシュリーに完全に心を捧げ、その弟子となっていたので、ひたすらマンジュシュリーの瞑想ばっかり行なってたんだね。で、それが、みんなには寝てるように見えた。なぜかというと、そもそも僧院っていうのは、さっきも言ったけども、まあ瞑想もするけど、どっちかっていうと、この当時のその仏教僧院っていうのは、学問仏教っていうかな、そういう意味合いが強かったんだね。つまりみんな僧院にこもって、いろんな経典を暗記したりとか、あるいは経典の内容を論議したりとか、そういう意味合いが強かった。しかしブスクといわれるこのシャーンティデーヴァは、それに全く興味がなかったんだね。もちろんまあ『入菩提行論』とかあるいは『シクシャー・サムッチャヤ』とか書くぐらいだから、当然その基礎の仏教論っていうのは完全に頭に入ってたわけだけども、しかしそれ以上の、無駄に論議をしたりとかね、そういうことにはあまり興味がなかった。で、ひたすら、マンジュシュリーの瞑想、あるいはその他の深い瞑想に没入してたわけですね。で、それが多分ほかの経典研究とかしてる僧とかから見ると、まあ何もやってないと。いつもなんか目をつぶって寝てるみたいだって見えてたんでしょうね。あるいはたまに経行すると。歩き回ると。で、歩き回ってるかと思ったら、部屋で寝てると。で、朝は毎朝五人分食べ物を食うと(笑)。ね。それであいつは全然勉強しない怠け者だって、まあ言われてたんでしょうね。

【本文】

 この僧院では定期的に順番で、みなの前で経典を暗誦する会がありました。ブスクの番が回ってきたとき、僧院長が彼に、「順番が回ってきてもどうせ経典を暗誦しないのだから、もう僧院を出てどこかへ行きなさい」と言いました。しかしブスクは、「私は僧院の何の規則も破っていないのですから、私を追い出すことは正しいことではありません。私はただ学問的才能に恵まれていないだけなのです」と答え、なんとか僧院を追い出されることからは免れました。
 しかし次にまたブスクの順番が回ってきたとき、僧達は、今度こそちゃんと準備をするように、とブスクに言いました。ブスクはそれを受けいれ、僧院長は、「もし経典を暗誦できなかったら、追放だぞ」と告げました。
 しかしブスクはそれでも、経典の暗記をすることなく、経典暗誦の前夜も、マンジュシュリーのマントラを唱えるだけでした。するとマンジュシュリーが現われ、ブスクに智慧のシッディを授けました。
 経典の暗誦会の朝、僧だけではなく、王様や、他の多くの人々も、集会堂に集まりました。これはつまり、全く学のないブスクが、一体どんな間抜けな暗誦をするのだろう、それを見て笑ってやろうという感じで、多くの人が集まったわけですね。まあ、このころはあんまり娯楽もなくてみんな暇だったのかもしれませんね(笑)。
 座に着くとブスクは、
「今まで皆がしたのと同じように経典を暗誦しましょうか、それとも今まで誰もしたことがないやり方で経典を説明しましょうか」
と言いました。これを聞いて人々は顔を見合い、笑いました。王は、
「お前は、今まで誰も見たことがないような食べ方と、見たことがない眠り方と、見たことがないぶらつき方を発展させた。だから、今まで誰もしたことがないやり方で、私達にダルマを説いてもらおう」
と皮肉っぽく言いました。
 ブスクはそこで、今まで誰も聞いたことがないすばらしい内容である、「ボーディチャリヤーヴァターラ」の説明をし始めたのです。そしてさらにブスクはそのまま、空中に浮かび上がりました。
 ナーランダーの五百人の学僧と、王と、他の群衆は、全員がブスクに強い信を持ち、
「あなたは『ブスク(怠惰な怠け者)』ではない。あなたは偉大な師だ」
と、彼を褒めたたえました。
 ブスクは、こうして学僧と王たちの高慢を鎮めたため、「平和の神」を意味する「シャーンティデーヴァ」と呼ばれるようになりました。

 これが、シャーンティデーヴァが「ボーディチャリヤーヴァターラ」を説くまでのいきさつですね。もちろん、この物語の中にはいろいろ装飾もあるかもしれませんが、まあ、大体このようなことが実際にあったのではないかと思います。

 その後、ナーランダーの学僧たちは、シャーンティデーヴァに、僧院長になってくれと頼みましたが、シャーンティデーヴァはそれを辞退し、僧院を去っていきました。

 そういえば、チベット仏教カギュ派の開祖、マルパの師匠であるナーローパも、伝記によると、王子として生まれ、その後ナーランダー僧院に出家し、その後に僧院を出たといわれています。マルパのもう一人の師匠であるマイトリーパや、チベット仏教サキャ派と関係があるヴィルーパなども、一度僧院に出家し、その後に僧院を去って、密教行者の道を歩き始めました。他にもそのような話は多いですね。

 僧院を去った後のシャーンティデーヴァの消息にもいろいろな伝説がありますが、それは省略しましょう。
 その後のシャーンティデーヴァは、顕教の出家修行者的な生き方を放棄し、密教的な修行を修め、いろいろな不思議な力を発揮したともいわれています。

 はい。これも有名なね、いつも出てくる話だね。「この僧院では定期的に順番で、みなの前で経典を暗誦する会がありました」と。で、まあ順番が回ってくるわけだけども、毎回それを辞退してたわけですね。で、そうすると僧院長が、「どうせおまえは順番が回ってきてもやらないんだから、もうどこかに出て行きなさい」と言うわけだね。でもブスクは、「わたしは僧院の何の規則も破っていない」と。「ただわたしは学問的才能に恵まれていないだけなんです。だから追い出さないでください」と。
 何度も言うけども、もともとこのシャーンティデーヴァは、まあこのころブスクといわれてたわけですけども、そもそも、もちろん『入菩提行論』もそうだけども、あるいはいろんな経典からエッセンスを取り出してまとめた『シクシャー・サムッチャヤ』や『スートラ・サムッチャヤ』とかを書いたくらいだから、学問的才能がないどころか、まあ、ずば抜けた天才だったわけだね。ずば抜けて、多くの経典を、おそらくまあ暗記してただろうし、そのエッセンスを理解し、で、それを組み立てることができるぐらいの大天才だったわけですよね。しかしここでは、こういう態度を取ってるんだね。「わたしは学問的才能に恵まれていないだけですからどうか追い出さないでください」と。ね。これがまあ、この間も言った、マンジュシュリー的な菩薩っていうかな。まあ彼の師匠がマンジュシュリーだからそうなのかもしれないけど、偉大な智慧を持っていてもそれをひけらかしたり、それをもってみんなを導くというよりは、まあ、なんていうかな、表面的には、全く自分は駄目な、みんなからばかにされるような状態を取ってると。でも最終的にはそれによってみんなを引き上げてしまっていうかな、そういうタイプだったんでしょうね。
 はい。だからこの当時、この時点では、みんな――もうみんなの前で経典を暗記することなんてできない、もう全然駄目な、無智な男だって思われたわけですね。
 はい。しかし、もう何度も順番をパスしてたので、ついに僧院長が、今度は絶対にやれと。ね。今度もしやらないんだったら追放だっていう、厳しいことを言ったわけですね。しかしまあブスクは、その前日も、頑張って暗記したりとかすることなく、ひたすらただマンジュシュリーのマントラを唱えるだけだったと。するとマンジュシュリーが現われ、ブスクに智慧のシッディを授けましたと。
 はい、そしていよいよ経典の暗唱会が行なわれるときに――まあこれも面白いけどね、もう多くの人が集まったって(笑)。みんなちょっと、暇っていうか意地悪っていうかね。つまり偉大な聖者が暗唱会をするからみんな集まったんじゃなくて、もう怠け者で有名で、全然勉強しない男がいよいよやるぞみたいな感じになって(笑)、それで集まったっていうんだね。でもこれも言ってみれば神の計画っていえばそうなのかもしれない。つまりそういう馬鹿にしようと思って来た人たちの心を一気にみんな変えてしまったわけだから、まあ計画といえば計画なんだけど、みんな、「さあ、いかにばかにするか」っていう感じで集まったんでしょうね。
 はい、で、そこでまたブスクは面白いことを言うわけだね。「今まで皆がしたのと同じように経典を暗誦しましょうか」と。「それとも今まで誰もしたことがないやり方でやりましょうか」と。これをさ、例えば、みんなからあがめられてる大聖者が言ったら、「おお、素晴らしい」と。「誰もしたことがないやり方でやってください!」ってなるだろうけども、もうみんなからばかにされてて、全然経典なんか知らないって思われてた人がいきなりそんなこと言いだしたわけだから、みんな大笑いしたわけだね。おまえ何言ってるんだと。それだったら誰もしたことがないやり方でやってみてくれ、みたいに言ったわけですね。そしたら、ここでついにブスクは、この素晴らしい経典である『入菩提行論』ね、『ボーディチャリヤーヴァターラ』を説き始めたと。で、説きながら空中に浮かんでいったっていわれてるんですね。
 まあ、さっきも言ったように、そうですね、皆さんもそうかもしれないけど、わたしも、最初にこの『入菩提行論』を読んだとき、まあ非常にショックだったっていうかね。素晴らしい衝撃があったわけだけど、このときも当然、シャーンティデーヴァ本人の口で、この『入菩提行論』がここで初めて説かれたわけだから、そこに集まった人々のまあ衝撃っていうかな、あるいは感動っていうのは、とてもすごいものだったと思うね。で、そのまま空中に浮かび上がっていったと。
 この間、インドでこのナーランダー大学を訪ねて、まあそれっぽい場所があったんだね。それっぽい場所っていうのは、聴衆が集まるような場所があってね、で、こう台座みたいなのがあって、「あ、ここでシャーンティデーヴァが入菩提行論を説いて浮かび上がったのかな?」と。もちろんそうじゃないかもしれないよ。そうじゃないかもしれないし、それは全く歴史的には分かんないけども、われわれはまあ、そうだと思い込んで(笑)、ここがシャーンティデーヴァが説かれた場所だと思い込んで、みんなで瞑想してきたわけだけど。まあ実際にね、その当時の、その瞬間の、みんなの感動っていうかな、あるいは衝撃っていうのはすごかったと思うね。
 はい。その素晴らしい『入菩提行論』の教えを説いて、で、そのまま空中に浮かび上がったと。だからこの大いなるショックっていうかギャップによって、みんなの心からハッとこう、慢心が取り除かれたわけですね。つまりそれだけ、なんていうか、まあ、ばかにしてたわけですね、ある意味。つまりある意味慢心によってね、おれたちは結構、いろんな経典を暗記してる偉大な僧だけども、こいつは駄目なやつだと。人間ってまあ、そういうスケープゴートを作りたがるからね。学校のいじめとかもそうだけど、こいつは駄目だってレッテルを貼ることによって、ちょっと自分の慢心を満足させるっていうかね。そういう相手だったわけだね、このブスクはね。で、みんな、こいつだけは駄目なやつだ、みたいにレッテルを貼ってたわけだけど、その人が、聞いたこともないような、超素晴らしい教えをいきなり説いたんだね。しかも空中に上って(笑)。ここでおそらく、そこにいた人たちは反省したでしょう。おれたちは馬鹿だったと。慢心に浸って、この素晴らしい方が、こんな近くにいるってことに気付かなかったと。で、表面的に学問をしていないっていうのでばかにしていたと。しかし、この方は、今までのわれわれの仏教理解を完全に覆すような、われわれに悟りを目覚めさせてくれるような、素晴らしい教えを今説いてくださったと。わたしたちはほんとに、ね、一からやり直さなきゃいけない、ぐらいの心の変革がたぶんあったと思うんだね。で、そこで多くの人の慢心を完全に取り除いたので、シャーンティデーヴァ、平和の神、あるいは寂静の神っていう名前でね、このころから呼ばれるようになりましたということですね。
 はい。で、そのままシャーンティデーヴァは――まあ、これも伝説によると、バーッと教えを説きながら浮かんでいって、そのままどっか行っちゃったっていう話なんだけど(笑)。

(一同笑)

 それはほんとかどうか分かんないけど、とにかくこのあとに僧院を去るわけですね。で、みんなはそこですごく反省してね、今まで本当に申し訳なかったと。どうか残ってくれって言ったわけだけど、シャーンティデーヴァはそれを辞退して去っていくわけですね。まあそう意味ではそのシャーンティデーヴァのこのときの、まあ使命っていうかな――だってここでさ、見れば分かると思うけど、普通の人はですよ、普通の人は、例えばナーランダーっていわれる僧院に入る目的は、しっかり勉強して、仏教の教えを身に付けることが目的なわけですよね。でもシャーンティデーヴァは、これ見れば分かるように、全然勉強してないんです。ただ入って勝手に自分の好きな瞑想やって、食って寝て、経行してるだけだと。ね。つまり分かりますよね。シャーンティデーヴァがナーランダーに入った目的は、自分が勉強するためではなかった。つまり僧たちの高慢をつぶすためだったんだね。そういう目で見るとですよ。その使命が終わったから、もう去っていった。
 つまり、もう一回この流れを見るとね、シャーンティデーヴァはナーランダーに入る前から、マンジュシュリーと実際に会うことができ、マンジュシュリーの教えを受け、まあ、何度も言うけど、『シクシャー・サムッチャヤ』とかを見ると、おそらくもし全く勉強していなかったとしたらあんなの書けないから、ナーランダーに入る前から多くの仏教経典を学び、そしてまあ、完全な理解をしてたんでしょうね。だから彼は、言ってみれば別にナーランダーに入る必要はなかった。しかし彼がナーランダーに入った意味がもしあるとしたら、結果としてね――あの、よくいわれるようにさ、まあ僧院ができて、で、その僧院のお坊さんたちを否定するかたちで、密教とか大乗仏教が広まっていったわけだけど――なぜかっていうと、僧院のお坊さんっていうのは、慢心に満ちてるっていうかな。つまり自分たちだけ、なんていうかな、お寺にこもって、あまり衆生のことは考えないで、で、全然ほんとは悟りとか得てないんだけど、仏教経典をたくさん学んで、暗記とかの頭の理解によって、自分たちは多くの仏教のね、教えを知ってるんだと、悟ってるんだって錯覚に陥ってるわけだね。で、それが仏教の一つの、まあ、なんていうかな、ある時期の欠点だったんだね。ちょっと学問仏教に走り過ぎて、で、ちょっとみんな、あまり中身のない慢心に陥ってたときがあったんだね。で、おそらくこのときはナーランダーもそういう状態にあったんでしょう。で、その者たちをその慢心から解放するために、まあシャーンティデーヴァはその僧院に入ったのかもしれない。
 はい、で、その使命が終わり、まあ、僧院を去っていくわけですね。で、これと似たようなパターンが、ここに書いてあるように、ナーローパとか、まあ、いろんなパターンがあります。ナーローパは特に似てるんだけど――っていうのはナーローパはもともと、シャーンティデーヴァと同じように、もともと王子様だったんだね。王子様だったのがその座を捨てて、ナーランダーに入ったわけですね。で、同じようにナーランダーで――若干違うのは、彼の師匠ティローパ。ナーローパの場合は、ナーランダーを出てからこのティローパと会うわけだけども。そこはちょっと違うけども、ナーランダーで最高の智慧を持った学長といわれるまでになったんだけども、密教修行をやるためにナーランダーを去るんですね。この辺はとても似てる。あるいはまあヴィルーパとかね。ほかにも同じようなパターンの人はいるね。
 はい。で、僧院を去ったあとのシャーンティデーヴァに関しては、これはいろいろ伝説があるので、まあ、ここではちょっと端折ってるけども、例えばある王様のね、ボディーガードになって、マンジュシュリーの智慧の剣を使って活躍したとかね(笑)。いろんな、まあ、神秘的なというか、かなり密教的な伝説が多いですけど、いろんな伝説があるね。だからまあ、さっき言ったように、ナーランダーで多くの人々に大乗仏教の素晴らしい教えを説いたあとは密教行者になったっていう説もあるし、あるいはもともと密教行者だったっていう説もある。すごくその辺は、まあ、昔の人なんでね、真実は分からないけども。
 このシャーンティデーヴァの生まれ変わり、転生とされるのが、前に「八十四人の密教行者」の勉強会にも出てきたシャヴァリです。わたしミクシィで使ってる名前だけど(笑)。Shavari。
 これも前も言ったけども、わたし昔ね、ミクシィってもちろん最初は知らなくて。ただまあわたしは情報処理科の高校に行ってたので、パソコンはかなり昔からやってたので、今のインターネットじゃない、パソコン通信っていわれた時代からね、いろんな昔のSNSっぽいのはよく見てて。で、ミクシィっていうのを紹介されたときも、ああ、またこういうのが始まったか、みたいな感じであまり重要視してなくて、まあでも一応招待されたから、まあ一応やるかと思って、登録して。で、登録しようと思ったらいきなり、ニックネーム入れてくださいって出てくるんだね。で、全然わたし考えてなかったから、え、ニックネームいるの?みたいな感じで、どうしようかと思って、直感的に浮かんできたのがShavariだったんだね(笑)。そのとき、密教行者の一人としてシャヴァリっていうのがいるっていうのは知ってたわけだけど、まあマイナーな存在ですよね、シャヴァリってね。だからなんでシャヴァリが浮かんだのか分かんないんだけど(笑)、一応Shavariって入力して。でもそれからすごいミクシィで書くようになっちゃったから、Shavariっていうのがわたしのなんか宗教名みたいな感じになっちゃったけども(笑)。
 でもそこら辺もなんか不思議なものを感じるね。わたしは何度も言うように『入菩提行論』が最高の仏教の論書だと思ってるし、シャーンティデーヴァもとても好きなので、そういう意味ではわたしの名前がシャヴァリとして、偶然にしろ呼ばれるようになったっていうのは不思議な感じがする。
 で、このシャヴァリっていう人は、完全な密教行者です。これはよく弓を射る姿で描かれてて。っていうのはこのシャヴァリっていうのは、狩人みたいな人だったんだね。実際に、動物とかを弓で殺すんです。でも実際にはそれによってその動物の意識を高い世界に引き上げてたんだけど。
 で、このシャヴァリの、さらに生まれ変わりが、パトゥル・リンポチェといわれています。で、このパトゥル・リンポチェは、これも皆さん知ってる『クンサン・ラマの教え』を書いた人だね。あれもまあ読んだ人は分かると思うけど、素晴らしい本ですね。何が素晴らしいかっていうと、やっぱりね、もちろん内容も素晴らしいんだけど、分かりやすい。なんていうかな、文章がすごく美しいんだね。美しくて分かりやすくて、まあエッセンスがズバッと入ってくるっていうか。そういう意味では確かにね、シャーンティデーヴァ的なものも感じるね。だからパトゥル・リンポチェがシャーンティデーヴァの転生だとしてもまあ、あながち間違いではないかもしれない。
 シャヴァリは、さっきもちょっと話に出た、マルパのもう一人の師匠であるマイトリーパの師匠なんだね。『聖者の生涯』にシャヴァリの生涯も載っているのでそれも読んでほしいと思いますが、マイトリーパの師匠で、まあ密教行者だったと。で、現代の密教的なものの、まあ基礎を作った、古代の密教行者の一人といわれてる人ですね、シャヴァリっていう人はね。はい。で、その転生がパトゥル・リンポチェだといわれている。
 で、シャヴァリに関してはまあ、謎が多くてよく分かってないんだけども、このパトゥル・リンポチェ、あるいはシャーンティデーヴァに共通するのは、今言ったように、素晴らしい、なんていうかな、美しい教え、そしてわれわれの心にほんとにスムーズに入ってくるエッセンスが説かれていると思いますね。やっぱりそれはとても大事なことで、例えばね、『ミラレーパの十万歌』とかもそうなんですけどね。『ミラレーパの十万歌』もあれは非常に素晴らしい。で、あれはもちろんミラレーパの一つの才能です。ミラレーパっていうのはとても歌がうまくて、うまいだけじゃなくて、自分の悟りを、ほんとにわれわれに響くようなかたちで表現する能力があったんだね。これはまあ、一つの能力だと思います。まあ、神通力っていうかな。うん。つまり、いつも言うようにさ、悟ってることと、表現力はまた別なんだね。それは分かりますよね。つまり、まあ例えばですよ、口下手で表現力がないと。でも悟ってる人っていうのは当然いるわけです。ね。もう本人は素晴らしい境地に達してると。もう完全にその高い境地を分かってると。しかし表現力がない人もいるわけだね。だからこういう存在っていうのは非常に貴重であって。
 で、ミラレーパも素晴らしいんだけど、実は、『ミラレーパの十万歌』、あるいは『ミラレーパの生涯』等をまとめた人がいるんですね。これがチベットのツァンニョン・ヘールカっていう人なんですけど。ツァンニョン・ヘールカ。この人もね、もともと僧院ね、チベットのあるお寺にいたお坊さんだったんだけども、まあツァンニョンっていうのは、ツァンっていうのはチベットのある地方の名前ですね。で、ニョンっていうのは、きちがい、つまり狂った人っていうことです。きちがい。だからツァンニョン・ヘールカは、ヘールカっていうのは名前だったのかもしれないけど、この人はツァンニョン・ヨーギー、つまりツァン地方の狂ったヨーギーといわれてたんだね。なぜかっていうと、僧院に、つまりお寺に入って、このツァンニョン・ヘールカは、まあ密教行者みたいに髑髏の数珠をしたりね、髑髏のお椀を持ったり、で、真っ裸で踊ったりとか、ちょっと狂ったようなことばっかりやってたんだね。で、あるときそのお寺に、まあ、いわゆるお寺のパトロンである、後援者である王様がやって来たわけだけど、その王様の前でもこのツァンニョン・ヘールカは無礼な態度を取って、裸で踊ったりとかいろいろやり始めたので、追放されちゃったんだね(笑)。おまえなんか出ていけって追放されてしまったと。で、追放されてから、本格的に密教行者の道を歩み始めたんだね。で、この人はその密教行者としても素晴らしかったんだけど、やっぱり文才に恵まれてたみたいで。で、彼が敬愛してたのがミラレーパだったんだね。だから、その当時民間に伝わっていた――まあ民間にたくさんミラレーパの歌っていうのは伝わってたらしいですね。それを集めて、あるいは生涯の物語を集めて、非常に美しい物語としてまとめたのがこのツァンニョン・ヘールカなんだね。だから、もちろんミラレーパは素晴らしい表現力があったわけだけど、このツァンニョン・ヘールカがいなかったら、ここまでミラレーパも注目されなかったかもしれない。つまり非常に民間的な歌だけが伝わってただけだったんだね。その真意っていうかな、その歌もさ、多分ですよ、民間に伝わってたっていうことは、まあ、おそらくいろんなパターンで伝わってたと思います。あっちの方ではこういうふうにいわれてると。あっちの方ではちょっと言葉が違う感じであると。あるいは表現もちょっと違ったりする。それをあそこまできれいにまとめたのがツァンニョン・ヘールカだった。だからそういう存在っていうか登場っていうのは、すごく重要な意味を持つね。
 前も言ったけどさ、ラーマクリシュナの弟子のMとかもそうです。つまりラーマクリシュナも、あれだけ素晴らしい教えが広まったのは、まあ、ある意味Mのおかげですよね。つまりMがあそこまでの記憶力によって――単純な記憶力だけではなくて、きれいに『福音』をまとめてくれたと。うん。だからわたしはいつも言うけどさ、近代でもそうだけど、まあ、昔の人でもね、もう大聖者ってたくさんいますよね。でもそういう存在がいる人といない人がいるよね。で、いない人って非常にもったないっていうか。皆さんの好きな、近代あるいはちょっと昔の仏教系、ヒンドゥー系の聖者っていっぱいいると思うけども、彼らのその教えとかあるいは伝記とかが、非常に美しい形で、あるいは本当にエッセンスがストレートにわれわれに伝わるような形で残されてるっていうのは非常に少ない。その存在やあるいはその教えの端々によってわれわれは――あるいは縁によってね、その聖者を信仰したり尊敬したりするわけだけども、その表現役っていうかな、まああるいは本人がそれだけの表現力を有してるとかね、そういうのはなかなか少ないんですね。だからそういう存在っていうのはとても――まあ、それももちろん神の計画なんだろうけど、そういう存在がいる聖者っていうのは、すごくわれわれにとっても貴重でね、耳を傾けるべきものだと思うね。
 はい。で、話を戻すけども、このシャーンティデーヴァも、まあ、わたしから見るとね――みんながどう感じるか分かんないけど、わたしから見ると、もちろん『菩薩道の真髄』に収録してるね、『シクシャー・サムッチャヤ』とか『スートラ・サムッチャヤ』もそうなんですが、あるいは『入菩提行論』もそうなんですけども、まあ、ほんとに、何度も繰り返すけども、仏教のエッセンスをここまで抽出し、ね――っていうのは、仏教っていうのはお釈迦様の時代からいろんな教えが説かれてきたから、その中には当然エッセンスがあって、そのエッセンスを表現するための補助的な教えがあったりとか、あるいはそれとそれが組み合わさった、まあ便宜的な教えがあったり、あるいは時代に応じて一応説かれた教えとか、いろいろあるわけだけども、そこから「これだよ」っていうエッセンスをちゃんと抽出してくれて、しかもそれを、美しく、ね、われわれの心に響くように美しく、しかもわれわれの心がほんとに変化するように、非常にショッキングなかたちでまとめてくれている、こんな教えはないと。ね。で、これだけの、なんていうかな、まあ表現力っていうかな、もちろんその悟りそのものもそうだけども、その悟りそのものを表現する力を持った人っていうのは、シャーンティデーヴァとか、あるいはミラレーパとか、非常に少ないと思うんだね。だからこれはとても、何度も言うけども、修習すべき、われわれが貴重な宝物とすべき聖典だと思うね。
 これも何回か言ってるけどさ、大事なことなんでもう一回言うと、ダライ・ラマ法王がね、中国のまあ攻撃から逃れるために、チベットからインドに亡命したときね、つまり、完全に現代ではチベットは中国にやられちゃったわけだけど、まだ中国とチベットの緊張状態が続いてるときに――まあ緊張状態が続いてるっていっても、ほとんど中国の力にチベットは飲み込まれそうになっていた。で、このままだとダライ・ラマ法王自体も、まあ中国にやられてしまう危険性があった。そこでダライ・ラマは、若き日にね、ほんとにわずかな持ち物と、わずかな従者を連れて、まあ普通の人のふりをして逃亡するわけですね。馬に乗って、山を越えてね、チベットからインドへ逃亡するわけだけども。で、ダライ・ラマ法王っていうのはもちろん法王だから、宗教的そして政治的な両方の王としてチベットに君臨していたわけだから、小さいころから、もう仏教の英才教育を受けてたわけですね。つまりもうほんとに――もちろん、ただの王ではなくて宗教の王、法王にならなきゃいけないから、もうどんな大学者よりも徹底的に教えを知ってなきゃいけないから、もう徹底的に学問的な英才教育を受けてたんですね。だからダライ・ラマの部屋っていうかお寺には、たくさんの貴重な、インドからチベットに輸入してきた貴重な経典がたくさんあったわけですね。しかし逃亡しなきゃいけない、亡命しなきゃいけないから、物を持っていけない。そこでダライ・ラマが一冊だけ選んだのがこの『入菩提行論』だったんです。わたしはこの話を聞いたとき、「さすが『入菩提行論』」というよりは、「さすがダライ・ラマ」と思った(笑)。さすがダライ・ラマ法王は分かっていらっしゃると。ね。つまりここに、なんていうかな、すべてのエッセンスが含まれていると。それくらいの本ですね。
 だからこの『入菩提行論』は、何度も言うけども、皆さんが何度読んでもかまわないっていうか、ほんとに繰り返し繰り返し読んで、自分のね、心に根付かせて、で、自分の、なんていうかな、生き方の軸となるようなものにしたらいいと思うね。

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解説「菩薩の生き方」第一回(1) https://blog.yoga-kailas.com/%e8%a7%a3%e8%aa%ac%e3%80%8c%e8%8f%a9%e8%96%a9%e3%81%ae%e7%94%9f%e3%81%8d%e6%96%b9%e3%80%8d%e7%ac%ac%e4%b8%80%e5%9b%9e%ef%bc%88%ef%bc%91%ef%bc%89/ https://blog.yoga-kailas.com/%e8%a7%a3%e8%aa%ac%e3%80%8c%e8%8f%a9%e8%96%a9%e3%81%ae%e7%94%9f%e3%81%8d%e6%96%b9%e3%80%8d%e7%ac%ac%e4%b8%80%e5%9b%9e%ef%bc%88%ef%bc%91%ef%bc%89/#respond Wed, 20 Mar 2024 21:20:30 +0000 https://blog.yoga-kailas.com/?p=9508

2011年9月24日

解説「菩薩の生き方」第一回

【本文】

はしがき

 さまざまな仏教の経典や論書の中で、最も好きなものを一つあげるとすれば、私は、シャーンティデーヴァの「ボーディチャリヤーヴァターラ(入菩提行論)」をあげるでしょう。

 この論書は私自身の修行においても、仏教理解においても、多大なインパクトを与えてくれました。その内容のすばらしさのみならず、言葉や比喩の美しさも、ミラレーパの十万歌とともに、仏教や他の宗教書の中にも類を他に見ることのできない、美しいものだと感じます。

 しかしこの論書の日本語訳については、少し不満があります。
 現在、この論書の日本語訳および解説がついたものとしては、まず最も古い、金倉さんという人が訳したもの(「悟りへの道」)と、「大乗仏典」シリーズの一つとして中村元博士が解説を加えているものと、それからチベット僧が解説を加えているもの、そしてダライ・ラマ法王が少し解説しているものもあったと思います。
このうち後者三つについては、量的にも、翻訳的にも、解説においても、個人的には少し不満があります。特に訳については、この論書のすばらしさがうまく伝わってこないように感じるのです。
 金倉氏の訳したものが一番良いように思うのですが、しかしこれは言葉が古いために普通は読みにくく、またこの論書自体、修行をしていない人には難解かもしれないと思うので、自分で読むにはいいのですが、人にはなかなか薦められません。

 ということで、こんなすばらしい経典なのに、なかなか人に伝えられえないというまどろっこしさがあります。
 そこで今回、私なりに、少しずつですが、この論書の解説を書いていきたいと思います。
 私は学者ではなく修行者ですので、解説はあくまでも修行者としての視点からのものとなります。
 訳に関しては、私はサンスクリット語は読めませんので、私が訳すのは不可能ですので、金倉氏と中村氏のものを混ぜたような感じで、私なりに読みやすく的を得たものを書いてみたいと思います。それに対して私が思うところの解説を加えていきたいと思います。

 はい。この辺はね、まず最初の序文ですが、ここに書いてあるように、わたし個人の話からまず言うと――そうだな、昔、まあ、いつも言ってるように、わたしは中学生ぐらいからヨーガ修行を始めて、それからヨーガだけじゃなくて仏教のいろんな修行をしたり、いろんな経典をね、研究したりしてたんですけども、その中で、たまにこの『入菩提行論』っていう名前が出てくるんだね。ただまあ、そういったいろいろな、仏教の礎っていうかな、基礎をなす論書の一つとして『入菩提行論』っていうのがあるんだな、ぐらいにしか最初は思ってなかったわけだけど。
 この『入菩提行論』っていうのは、当時ね、ここにも書いてある金倉さんっていう人が訳した『悟りへの道』――その当時それしか日本にはなくて、しかも絶版だったんですね。本屋とかにもなかったんです。ただ偶然古本屋でそれを見つけたんだね、わたしがね。で、それを、「あ、これが『入菩提行論』か」と思って読んでみたら、もうすごいショックだった。どれくらいショックかっていうと、飛び上がるくらいショックだった(笑)。なんだこれはと。ね。つまりそれまでももちろんわたしはヨーガとか仏教とかの本をいろいろ読んでて、ああ素晴らしいなと思ってたけども、この『入菩提行論』は桁が違うと。こんなものがあったのか、ぐらいのショックだったんだね。それはまあ皆さんの中にも、その素晴らしさを感じてる人はいっぱいいるだろうけども。
 で、すごいショックだったわけだけど、まあ、こんな素晴らしい本が絶版だったんだね(笑)。で、巷には、よく分かんない仏教書がいっぱいあふれ返ってる。ね。で、みんな、なんていうかな、だいたいさ、まあ、だいぶ現代では変わってきたかもしれないけど、仏教って、ヒンドゥー教もそうなんだけど、仏教の本って特に、なんか小難しく書いてるんだね。なんか初心者はちょっと入れないような感じの、敷居が高いっていうか。あるいは、かみ砕いて書いてある本も確かにある。でもちょっと――簡単に言うと、面白くない。
 なぜわたしがここまでこう言うかっていうと、つまり『入菩提行論』は面白いからです(笑)。つまり、昔のわたしが思ってたのは、ああ、真理というものは、つまり仏教とかヨーガっていうものは確かに難しいから、面白くなくてもしょうがないと。あるいは分かりにくくてもしょうがないんだって思ってたんだけど、ただ『入菩提行論』を読んで、目からうろこが落ちた。面白くできるじゃんと。ね(笑)。分かりやすくできるじゃんと。しかも、こんな素晴らしい修行のエッセンスをこんなにも、なんていうかな、われわれの心に入ってくるようなかたちで表現できるじゃないかと。っていうことはほかの仏教書っていうのはなんなんだって、こういう感じになったわけだね。しかしそこまで素晴らしい経典が、何度も言うけども、日本ではちょっと古い表現で書かれた『悟りへの道』しかなくて、しかもそれは絶版になってると。それがちょっと残念だったんですね。
 で、それからちょっと月日が過ぎて、まあチベット仏教とかがはやり始めて、チベットの僧がね、解説を加えたものとか、ダライ・ラマ法王が解説を加えたものとか、あるいは中村元博士がちょっと解説したものとかが出始めたわけですね。で、そこでわたしは、「あ、ついに『入菩提行論』も日の目を浴びるようになったか」と思って読んでみたんだけど――「なんだこれは!」と(笑)。なんだこれはっていうのは、つまり『入菩提行論』の『入菩提行論』たるその素晴らしいエッセンスの部分がね、全然解説されてないじゃないかと。しかもその訳自体が、その素晴らしい部分をあまり強調しないような訳になってる。だからちょっとこれは傲慢な感じなんだけどね、わたしとしては、「みんな分かってない!」と(笑)。この『入菩提行論』の素晴らしさがみんな分かってないじゃないかと。「じゃあ、おれがやるしかない!」っていう感じで(笑)、その当時ね、ネットに書き始めたのがこの『菩薩の生き方』なんだね。
 で、訳に関しても、まあ、わたしはその金倉さんっていう方はやっぱり――もう亡くなった人ですけども――素晴らしいっていうか、多分しっかりと理解してたんだと思う。だからここにも書いてあるけど、金倉さんの訳は一番いい。一番、なんていうかな、まあ意味をわれわれに伝えるようにちゃんと訳してくれてるんだね。ただこれは何度も言うようにちょっと古い訳なので――ちょっとやっぱり、そのままだと読みにくいっていうかな、古い日本語だからね。それに現代的な訳もちょっとミックスさせるようなかたちで、わたしなりに訳をまとめたのが、カイラスで出してる『入菩提行論』ですね。で、それに対してエッセンス的な部分の解説を加えてみましょうっていうのがこの本ですね。

【本文】

 その前にまずは、この著者のシャーンティデーヴァという人について、伝えられているところを少し簡単にまとめてみたいと思います。

 彼は西インドのサウラーシュトラという国の王様の息子、すなわち王子様として生まれました。父王の名はカルヤーナヴァルマンといい、王子はシャーンティヴァルマンと名づけられました。
 シャーンティヴァルマンは若いころから、マンジュシュリー(文殊菩薩)の成就法を修行し、マンジュシュリーを実際に見神することができたといいます。また、ターラー女神も信仰していたという説もあります。
 その後、父王が死に、シャーンティヴァルマンが王位を継がなければならなくなったのですが、夢の中でマンジュシュリーが、王位を継いではならないと告げたため、彼は王城から逃亡し、当時の最大の仏教僧院であったナーランダー僧院(現在のラージギルの近く)に行き、ジャヤデーヴァという師のもとで出家したといいます。

 はい。まずシャーンティデーヴァっていう人自体が八世紀ごろの人で、まあ、かなり昔の人なので、いろいろ謎が多いんだね。もちろん細かく伝記が残ってるわけでもなくて、さまざまな伝説がある人なんですけども、まあ一応言われてるところでは、西インドのサウラーシュトラという国の王子として生まれたと。で、王子としての名前は、シャーンティヴァルマンと言いましたと。で、若いころはマンジュシュリーの成就法を修行してたと
 シャーンティデーヴァは、よくいわれるところでは――この『入菩提行論』にしろあるいは『シクシャー・サムッチャヤ』とか『スートラ・サムッチャヤ』にしろ、大乗仏教の論書なわけですけども――大乗仏教の大聖者として知られてるわけですが、このナーランダーっていう僧院を出てからは、密教修行者になったといわれている。ただ、そうじゃなくてもともと密教修行者だったっていう説もあるんだね。だからそれはちょっとよく分かっていない。
 っていうのは、そもそもですよ、そもそも、まあ、これもいつも言ってるけども、例えば密教系の真言宗、あるいは大乗仏教系の日蓮宗とか浄土真宗、あるいは瞑想ばっかりやる禅宗とか、日本の仏教はそんなふうに分かれてるけど、本当は仏教っていうのは……例えば密教徒っていうのは、そもそも基本的に原始仏教的な教えを学び、それから大乗仏教を勉強するわけですね。で、大乗仏教の発展形として密教をやるんです。だから密教修行者といっても当然、基礎というか、本体は大乗仏教なんですね。大乗仏教の理想を、いかに、もっとスピーディーに、あるいは現実的に実現させるかの教えが密教なんだね。だから密教徒といっても、なんていうかな、大乗仏教の完全なる理解や、あるいは悟りがないと、ほんとの意味での密教の成就もできない。だからシャーンティデーヴァがもともと密教行者だったといっても、まあ、それはおかしくはないんだけど、ただそれはまあ、ほんとに分かりません。つまり謎が多い人なんでね。もともと密教徒だったっていう説もあるし、あるいはお寺を出てから密教徒になったっていう説もあるし。その辺は分かんないっていう感じですね。
 ただまあシャーンティデーヴァのこの最初の方のエピソードを見ると、やっぱりちょっと密教徒っぽいっていうかな。つまりもともと、マンジュシュリーね、文殊菩薩の成就法、つまりサーダナーね。文殊菩薩をイメージしたり、自分が文殊菩薩に変身したりとかそういう瞑想法をやってたと。で、彼のグルもマンジュシュリーだったといいます。つまり瞑想してほんとにマンジュシュリーが現われて、マンジュシュリーがこのシャーンティデーヴァを直接導いてくれてたっていうんだね。
 まあその辺の伝説は言えばきりがないわけだね。このシャーンティデーヴァのお父さんは、ここに書いてある西インドの王様、カルヤーナヴァルマンだったわけだけど、お母さんはヴァジュラヨーギニーだったといわれています。ヴァジュラヨーギニーっていうのは修行者を助ける女神ね。ダーキニーの一つのかたちですけども。ヴァジュラヨーギニーね。だからまあ、この辺もほんとかどうか分かんないけど、そういう伝説も伝わってます。
 だからもともと、まあ、なんていうかな、おそらくある意味天才的な修行者で、若いころから、実際に偉大なる存在であるマンジュシュリー菩薩とコンタクトを取ることができて、そのマンジュシュリー菩薩から、あるいはターラー女神から直接教えを受けて、修行してたっていうのが若いころのことですね。はい、その後、そのお父さんが死んだので、まあ息子である自分がその王位を継ぐことになったわけだけども、その直前に夢の中にマンジュシュリーが現われて「王位を継いではならない」。ね。そのように告げたので、逃亡して、まあ当時最大の仏教僧院であったナーランダーに行きましたと。はい。じゃあ次いきましょう。

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ヨーガ講習会のお知らせ(名古屋・沖縄・高松・広島) https://blog.yoga-kailas.com/%e3%83%a8%e3%83%bc%e3%82%ac%e8%ac%9b%e7%bf%92%e4%bc%9a%e3%81%ae%e3%81%8a%e7%9f%a5%e3%82%89%e3%81%9b-32/ https://blog.yoga-kailas.com/%e3%83%a8%e3%83%bc%e3%82%ac%e8%ac%9b%e7%bf%92%e4%bc%9a%e3%81%ae%e3%81%8a%e7%9f%a5%e3%82%89%e3%81%9b-32/#respond Wed, 20 Mar 2024 21:04:07 +0000 https://blog.yoga-kailas.com/?p=9504 ヨーガスクール・カイラス 
ヨーガ講習会のお知らせ(名古屋・沖縄・高松・広島)

 以下の日程で、出張ヨーガ講習会を開催いたします。

 参加希望の方は、お早めにメールか電話でご連絡ください。

 皆様のご参加を心よりお待ちしております。

 ※横浜・東京・大阪・仙台・札幌の方は、教室がありますので、無料体験クラスにぜひお越しください。詳細はメールでお問い合わせください。

 ※現在講習会がない地方への出張も、要望があれば検討しますので、お気軽にご連絡ください。

☆日時:3月31日(日)13:30~16:30
☆場所:名古屋・邦和みなと スポーツ&カルチャー 1階スタジオ
地下鉄名港線港区役所駅から徒歩5分
https://www.howasportsland.com/information/access.html

☆日時:4月14日(日)13:30~16:30
☆場所:沖縄県男女共同参画センター てぃるる 1階 フィットネスルーム http://www.tiruru.or.jp/about.html#access

☆日時:4月21日(日)13:30~16:30
☆場所:高松・瓦町FLAG8階 市民交流プラザIKODE瓦町 アートステーション 多目的スタジオ
ことでん瓦町駅直結
https://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kurashi/kurashi/shisetsu/ikode/index.html

☆日時・4月29日(月・祝)13:30~16:30
☆場所:広島・合人社ウェンディひと・まちプラザ(広島市まちづくり市民交流プラザ) マルチメディアスタジオ
袋町電停から徒歩3分
http://www.cf.city.hiroshima.jp/m-plaza/kotsu.html

☆詳細―――――――――――――――――――――

☆参加費:3000円

☆内容:クンダリニーヨーガ、ハタヨーガ、ラージャヨーガなどの各種行法実践と講義。
    初心者の方でも問題ありません。お気軽にご参加ください。

☆予定しているメニュー:アーサナ(気を調える体操)
            気功(気を充実させる内気功)
            プラーナ―ヤーマ(各種の呼吸法)
            ムドラー(覚醒の技法)
            マントラ
            瞑想
            講義

 
☆持ち物:動きやすい服装
     ヨガマット、または大きめのバスタオルなど(床に横になるときに下に敷けるもの)。

☆定員:3名~30名
    ※参加希望者が定員に達しなかった場合、中止になる場合もありますので、ご了承ください。

    ※発熱などの症状がある方は、念のため参加をお控えください。

☆講師:松川慧照(ヨーガスクール・カイラス主宰)

☆申込先:メールか電話でお申し込みください。

ヨーガスクール・カイラス
http://www.yoga-kailas.com/
045-548-5506
info@yoga-kailas.com

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解説「ミラレーパの十万歌」第二回(2) https://blog.yoga-kailas.com/%e8%a7%a3%e8%aa%ac%e3%80%8c%e3%83%9f%e3%83%a9%e3%83%ac%e3%83%bc%e3%83%91%e3%81%ae%e5%8d%81%e4%b8%87%e6%ad%8c%e3%80%8d%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e5%9b%9e%ef%bc%88%ef%bc%92%ef%bc%89/ https://blog.yoga-kailas.com/%e8%a7%a3%e8%aa%ac%e3%80%8c%e3%83%9f%e3%83%a9%e3%83%ac%e3%83%bc%e3%83%91%e3%81%ae%e5%8d%81%e4%b8%87%e6%ad%8c%e3%80%8d%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e5%9b%9e%ef%bc%88%ef%bc%92%ef%bc%89/#respond Tue, 19 Mar 2024 22:31:05 +0000 https://blog.yoga-kailas.com/?p=9500

【本文】

 彼女は喜び、このことを知らせに中に戻り、宴会中のすべての人々に対して、この喜ばしいニュースを告げました。
「皆さんは、遠くに住んでいる名高いヨーギーについて話していましたね。その人が今、戸口に立っています。」
 皆は、戸口に押し掛けました。ある者は礼拝し、ある者は様々な質問をしました。彼が本当にミラレーパであることがわかると、中に案内して、大きな敬意と称賛を示し、食事を供養しました。
 シンドルモという、若くて金持ちの女主人が、ミラレーパをもてなして、尋ねました。
「尊師よ、これからどこへ行かれるのですか?」
「わたしは、瞑想修行のために、ラシの雪山へ行くところです。」
「どうか、テルーン・ジュームーに滞在して、この地を祝福して、わたしたちに恵みを与えてください。必要な食事は、私たちの方ですべてご用意いたしましょう。」

 客の中にシャジャ・グナという教師がいて、ミラレーパに言いました。
「もし寛大にも、ここ霊の谷テルーン・ジューモーにとどまっていただけるなら、それはあなたにとっても我々にとっても、利益となることでしょう。わたしはできる限りの奉仕をいたしましょう。」

 また別の男がこう言いました。
「偉大なヨーギーにここにとどまっていただけるなら、なんと素晴らしいことでしょう!
 わたしは立派な牧場を持っていますが、悪魔たちや霊たちが、大胆にも昼間からあらわれるようになりました。彼らは邪悪で、わたしでさえ、もうそこへは近づきたくありません。
 どうかお願いです。今すぐにでもそこを訪れてください。」

 すべての客もジェツンに礼拝して、そうしてほしいと嘆願しました。

 ミラレーパは答えました。
「では、すぐに行こう。しかしあなたの農地と家畜のためではなく、わがグルへの敬意のために。」

 はい。まあ、ここら辺は読んで分かると思いますがね、書いてあるとおりの物語ですが、ちょっとここで一つ、「さあ、われわれの土地を守るために悪魔からわれわれを救ってください」とミラレーパにお願いすると。で、ミラレーパはそれを受けるわけだけど、そこで言った一言が、「では、すぐに行こう。しかしあなたの農地と家畜のためではなく、わがグルへの敬意のために。」
 これは、なんていうかな、良い悪いの話じゃなくて、ミラレーパの性格っていうかな、ミラレーパの一貫した態度があるんだね。それは、全く民衆に媚びません、ミラレーパは(笑)。媚びるっていうと言葉が悪いけど、普通さ、例えば人々を救いたいと思ったら、まずあえて下手に出たりとか、あるいはちょっと相手の気持ちを尊重するようなことをするよね。つまり、「ああ、そうなんですか」と。「いや、ほんとに皆さん頑張ってますね」と(笑)。例えばね(笑)。でもミラレーパはそういうことをしないんです。それどころか、もう、なんていうかな、ストレートすぎるんだね。例えばこの物語じゃないけど、いろんな場面でね、もうはっきりとですよ、「あんた地獄に行くよ」と(笑)。「そのままじゃ地獄だ」と。「無智だから分かんないんだ」と(笑)。もうバンバン言いまくってる(笑)。あんまり気遣いがないっていうか。そういうタイプの人なんだね(笑)。それはいい悪いじゃないよ。それは彼のタイプだからね。しかし大人気なんです(笑)。それは彼の徳とも言えるし、まあ、なんていうかな、使命とも言える。つまり彼はそういうタイプなんです。だからと言って、それは誰でも真似できることじゃないよ(笑)。それぞれのタイプもあるし、それぞれの使命もあるからね。特に現代みたいな、プライドが高い人が多いね、例えば現代の日本とかでそういうことをやってたら(笑)、誰も来ないよね。例えばヨーガ教室やって、無料体験に来た人にね、「ああ、あなたカルマ悪いね」と(笑)。

(一同笑)

 「ああ、地獄だね」と(笑)。

(一同笑)

 「まあ、全力で十年ぐらいやれば大丈夫かな」とか言ったら、「いや、もういいです」ってなっちゃう(笑)。だからね、救済者のスタイルっていうのは、やっぱり時代とか使命によって全然違ってくる。でも何度も言うけど、ミラレーパはこれでオッケーだったんです。つまりこれが逆に言うとミラレーパの使命だった。つまりそれだけの、なんていうかな、非常にストイックな生き方をして、そして決して、教えを説くときも妥協しない。もう真実を言いまくるというか。
 あるいはミラレーパは――まあチベットのね、修行者とか聖者って、そうですね、いろんなタイプがいるわけだけど、多くの師につくタイプがいる。まあ、そっちの方がどっちかというと普通です。チベットの修行者って結構いろんな師に付くんだね。その中でも根本的な第一の師っていうのはいるんだけど、でもいろんな師に教えを聞きに行って、自分の智慧とか知識を高めていくんだけど、このミラレーパっていうのはそうじゃなくて、ただ一人しか師を持たないタイプだったんだね。これはナーローパとかもそうだけども、ミラレーパにとってはもうマルパだけでいいと。ほかの人は――もちろん尊重はするけども、「わたしにはマルパしかいない」と。で、マルパ以外絶対誰にも礼拝しなかったと(笑)。つまり普通ね、偉大なほかの宗派の師とかやってきたら、まあ礼拝したりするわけですよ。でも誰にもしない(笑)。どんな偉大な人が来ても絶対頭下げない(笑)。マルパだけなんです(笑)。すごい極端な、一見すると頑固にも見えるくらいの人だったんだね。それはいい悪いは別です。それがミラレーパだったんだね(笑)。
 だからここもそういうところが伺えるね。だって普通はこんなこと言う必要ないじゃないですか(笑)。「じゃあ皆さんのために悪魔を追い払ってあげましょう」って言えばいいのに、「君たちのためじゃないよ」と(笑)。「我がグルへのために行くんだ」と。でもそれがまあミラレーパなんだね。こういうところもとても、なんていうかな、愛すべき、素晴らしい聖者だね。

【本文】

「行くと約束してくださるなら、それで十分です。では、最高の食事と、出発の準備を整えましょう。」

 ミラレーパは言いました。
「わたしは隠遁地に住み、独居に慣れているので、連れの者もよい食事もいりません。ただ、ご親切な申し出には感謝します。
 まず一人でそこへ行きます。その後で来て、どうなったか見てください。」

 さて、ミラレーパが山の裾野につくと、「人ではないもの」たちが、恐ろしい幻影を作り出して妨害しました。天にもとどきそうな山頂へ至る道は、上下左右に揺れました。激怒した雷がとどろき、天を裂く稲妻が全域を打ち、一帯の山々はふるえました。川は突然激流となり、谷間を広大な湖に変えました。のちにそれは「悪魔の湖」と呼ばれました。
 ミラレーパが立ち上がってあるしぐさをすると、ただちに洪水はしずまりました。
 続いてミラレーパは、谷間の低いところへ行きました。悪魔たちは、土砂降りの雨のように岩を降らせて、山々を両サイドから遮断しました。そこで山の女神が、山並に沿って走る蛇のような道を、ジェツンのために作りました。のちにそれは「山の女神の道」または「ダーキニーの尾根」と呼ばれました。

 すべての小悪魔たちは屈服しましたが、より大きく力強い悪魔たちは、自分たちの失敗に腹を立て、新たな攻撃を行なうために、「山の女神の道」の端に集まりました。
 ミラレーパは、自らの心に集中し、悪魔たちを征服するために、別の神秘的なしぐさをしました。すると突然、すべての悪しきヴィジョンが消えました。そしてミラレーパの立っていた岩には、彼の足跡が残されました。

 はい。これも読んだとおりですが、つまり悪魔たちがまあ実際にね、いろんな物理的な攻撃をしてくるわけだね。で、それに対してミラレーパが神秘的な力で――小悪魔たちに関してはまずしっかりと征服してしまったと。
 悪魔っていう場合、いろんなパターンがあります。で、なんていうかな、魔的なものっていうのは、まあ、それは心の現われに過ぎないっていう人もいますが、もちろん単なる心の現われの部分もあるんだけど、こういう、ほんとに意志を持った生き物としての悪魔もいっぱいいます。つまり実際の霊的なそういう存在だね。で、それにもね、段階がいろいろあります。最高の悪魔はこれはいわゆる仏教とかでマーラって言われるやつで、このマーラっていうのは天の王なんだね。
 これも何回か勉強会で言ってるけど、天の一番最高の世界にいるのがマーラと言われます。なんで天の王がマーラなんだっていうと、分かると思うけど、天でさえ輪廻の世界だから、輪廻の一番上にいるっていうことはつまり輪廻を支配してるやつなんだね。つまり輪廻を支配するイコール悪魔なんだね。つまり魂をこの輪廻に結び付けて、なんていうかな、そこから脱出させないようにしてる。これが天の最高の存在であるマーラなんだね。で、これはもう一番位の高い悪魔なんだけど、そうじゃなくてここで出てくる魔っていうのはもうちょっと低い、まあ霊的な存在ですね。で、それは普通にこうウヨウヨいる。つまり霊っていうのは、まあいつも言うようにその辺に普通にいるわけです。で、この霊の中にもいろんな霊がいるんだね。
 つまり単純にカルマが悪くて霊の世界で苦しんでる霊もいれば、じゃなくて、ここに出てくるみたいにある程度自由があって、フワフワと浮遊しててね、ただ悪しき心を持ってるんで、修行者とかの邪魔をする悪魔たちもいる。で、ここで出てくる悪魔っていうのはそういった悪魔だね。霊的な存在。邪悪な心を持った魔的な霊的な存在。
 で、この悪魔っていうのは、つまり一つは、そうですね――修行者にとって悪魔のデメリットを言うならば、まあ、二つあります。一つは精神的な問題。これはつまりその修行者の精神に入り込んで、いろんな意味で修行者の修行を邪魔するんだね。これは何回か言ってるように、一番隙になりやすいのが性欲です。つまりスワーディシュターナ・チャクラだね。ここが一番突かれやすい。つまり性欲とか、あるいは、なんていうかな、異性間の感情みたいなところに一番悪魔はつけ込みやすい。でもまあそれだけじゃないんだけど、いろんな、プライドなり、あるいは貪りなり、いろんな心の隙を狙って悪魔が入り込んで、非常に巧妙なかたちで修行の邪魔をする。で、いつの間にか、なんか煩悩で頭がいっぱいになってるとか。これが一つの悪魔の妨害だね。
 で、もう一つの悪魔の妨害は、まさにここに書いてあるように、もう物理的妨害です(笑)。実際に嵐を起こすとか(笑)、地震を起こすとか、こういうことも実際にやってくる。で、ミラレーパはもちろん、なんていうかな、もう精神的には悪魔にやられてしまうような段階ではない。もうそんなものは乗り越えている。しかしここにおいて、その物理的なね、悪魔の障害との戦いが描かれてるんだね。で、まあここを見ても分かるように、全く格が違うわけです。ミラレーパが神秘的な力を使えば、全くその悪魔などはもう問題じゃないっていうかね。
 はい。で、ここの最後に、「足跡が残された」ってあるね。これはよくミラレーパの話で出てくるんだけど……ミラレーパの神秘的な力の一つの表現として出てくるんです。岩に足跡が残るんです(笑)。つまり岩って固いじゃないですか、固いから普通足跡なんて残んない。でも岩をグッとこう踏むと足跡が残るんだね。で、まあ、現代でもそのミラレーパの足跡がチベットのいろんなところに残ってると言われます。ほんとかどうかは別にしてね。伝説的にそういうふうに言われています。

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解説「ミラレーパの十万歌」第二回(1) https://blog.yoga-kailas.com/%e8%a7%a3%e8%aa%ac%e3%80%8c%e3%83%9f%e3%83%a9%e3%83%ac%e3%83%bc%e3%83%91%e3%81%ae%e5%8d%81%e4%b8%87%e6%ad%8c%e3%80%8d%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e5%9b%9e%ef%bc%88%ef%bc%91%ef%bc%89/ https://blog.yoga-kailas.com/%e8%a7%a3%e8%aa%ac%e3%80%8c%e3%83%9f%e3%83%a9%e3%83%ac%e3%83%bc%e3%83%91%e3%81%ae%e5%8d%81%e4%b8%87%e6%ad%8c%e3%80%8d%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e5%9b%9e%ef%bc%88%ef%bc%91%ef%bc%89/#respond Sat, 16 Mar 2024 12:07:07 +0000 https://blog.yoga-kailas.com/?p=9495

2009年2月18日

解説「ミラレーパの十万歌」第二回

 はい。今日は『ミラレーパの十万歌』。この『ミラレーパの十万歌』は――皆さんよく知ってるミラレーパの生涯の話のメインストーリーは『ミラレーパの生涯』という別の作品があるわけですが、これはそのミラレーパが残した多くの素晴らしい悟りの歌ね、それを中心とした、まあ、さまざまな物語をまとめたものですね。
 で、これは、なんていうかな、読むだけで瞑想になるとも言われる。つまりこれはいわゆるドーハーと言われるものの一つで、ミラレーパが悟りの境地を――つまり例えばね、学者っていうのは、矛盾がないように、「AとBがあってCがある」みたいな感じで、論理的に矛盾がなくまとめていくわけだけど、じゃなくてもう心に浮かんだそのままにダイレクトに悟りを表現するような歌をね、ドーハーっていうわけですが、ミラレーパはその第一人者であったわけですね。で、そのドーハー的な歌が中心になってるので、それを読むだけでも瞑想になるとまで言われるものです。
 だから本来はこれは、あまり解説しすぎない方がいいんだね、ほんとはね。つまりあまり論理的に考えすぎると間違うというか。だから皆さんが修行をして、まあ何度も何度もね、繰り返し修行の節目節目で読むとね、皆さんの修行の進度に従って、深い意味が読み取れるかもしれません。
 ただまあ、全く、なんていうかな、ほとんど意味が分からないとそれはそれでまた利益がないので(笑)、サラッと最低限のね、意味を勉強するようなかたちで今日は読んでいきましょう。
 はい。で、この『ミラレーパの十万歌』はいくつかのパートに分かれていて、まずパート1っていうのは、ミラレーパと悪魔の戦いというかな。つまりミラレーパっていうのはたくさん悪魔と対決するシーンがあるわけですが、そういったものをまとめたものです。
 これはですね、ミラレーパというよりも、これは皆さんもよく知ってるグル・リンポチェ、パドマサンバヴァとかの話でもそうですが、もともとチベットっていうのは魔の国だったんだね。なぜ魔の国だったかっていうと、まあそれはチベット自体がもともと――昔のチベットね、古代のチベットは、大変野蛮な国だったって言われてる。非常に野蛮で、まあ例えば動物とかももちろんたくさん殺すし、それだけじゃなくて、近隣のね、諸国を武力によって制圧してたっていうかな。だからすごい古代においてはチベットってすごい広い領土を持っていた。で、それは武力によって広げていったんだね。つまりまあ言ってみれば、ね、多くの殺生や暴力によって領土を広げ、あるいは生活を成り立たせてた部分がある。だからそういう意味でいったら、今チベットが中国に攻め込まれ、まあほとんど支配されてしまってるのも、カルマと言えばカルマなのかもしれない、それはね。で、そのような、仏教がチベットに入る前のカルマによって、チベットっていうのは魔に覆われていた。で、それから仏教が入るわけだけど、最初に魔を制圧したのはさっき言ったパドマサンバヴァね。グル・リンポチェっていう、この人はインドの大聖者ですが、この方がチベットにおいて多くの魔と戦って、魔を仏教の手下に変えた。で、これによって仏教っていうものがチベットに根付き始めたと言われています。
 で、それによってチベット人はもう完全にその性格を変えたんだね。性格っていうか、民族としての方向性を変えたんです。こういう例は非常に珍しいと言われています。世界の歴史の中でね。つまりそれまで戦闘的な民族だったのが、仏教によって虫も殺さないような民族に変わってしまった。これはとても偉大なことだね。で、そういう最初の仕事をパドマサンバヴァがやったんだけど、もちろんそれで完全に魔がいなくなったわけではくて、チベットのあちこちに魔的な存在っていうのはたくさんいたと。で、ミラレーパもそういったものと戦って、まあ、あるときは戦い、あるときはしっかりと自分の弟子にしたりしてね、魔を制圧していったっていう部分があります。で、その魔との戦い、魔との遭遇のエピソードをまとめたのがこのパート1のところですね。

【本文】

ミラレーパの十万歌

第二話 ラシへの旅

 グルに帰依いたします。

 「宝石の谷」の隠れ家にとどまっていたあるとき、偉大なヨーガの成就者、ジェツン・ミラレーパは、こう考えました。

「わたしはグルの指示に従い、ラシの雪山に行き、瞑想しなければならない。」

 ラシの雪山への入り口であるニャノンツァルマに近づいた時、そこの人々は飲み会を行なっていました。その中のある者が言いました。

「当世に、ミラレーパという偉大なヨーギーがいるのを知っているか? 彼はいつも人里離れた雪山に一人住み、完全な仏教徒以外は誰も達成できないような難行を行なっている。彼について聞いたことはあるか?」

 彼らがこのようにジェツンを称賛しているとき、ミラレーパはその戸口にやってきました。
 豪華な装身具で身を飾ったレセブムという美しい少女が、挨拶をして尋ねました。
「あなたは誰で、どこから来たのですか?」
 ミラレーパは答えました。
「娘さん。わたしはいつも山の中の誰も知らないところに住んでいる、ヨーギー・ミラレーパです。物乞いに来ました。」
「わたしは喜んで、何か差し上げましょう。しかしあなたは本当にミラレーパなのですか?」
「あなたに嘘などをつく必要が、どうしてありましょう。」

 はい。ミラレーパという方は、何度も言うように、チベットで最も人気のある聖者といってもいい。宗派を超えてね。普通、宗派がいろいろあって、まあ、うちの宗派のこの人が一番とか言うわけだけど、でもミラレーパに関しては宗派を超えて非常に人気がある。で、実際現代においてもね、例えばわれわれも――まあこの中にもミラレーパが好きな人いるだろうけど、こういう物語を読んで非常に鼓舞されたり、あるいは教えを読んで非常にメリットがあったりするわけですが。
 ミラレーパっていう方はもちろん密教、特に大乗仏教を背景とした密教の聖者なんで、その詩の中にもいっぱい出てくるけど、もちろん衆生救済、つまり人々を救うために存在してるっていうかな、それは基本としてあるわけだね。ただ、人々を救うときのパターンっていうのはいろいろあるわけです。実際問題として。例えばお釈迦様のパターンっていうのはまあ一番分かりやすい。つまりインド中を――まあそのころはね、列車とか車とかなかったから、インド中を徒歩で歩き回って教えを説くと。これがお釈迦様の救済方法だったわけだね。で、全く別のパターンもある。それがこのミラレーパみたいな感じで、つまりミラレーパはひたすら瞑想をするんです。これは、インドの例えばヒマーラヤにこもってるヨーギーもそういう人たちがいる。そうですね、インドでヒマーラヤにこもってるヨーギーっていうのはいくつかパターンがある。もちろんね、全く、なんていうかな、真面目に修行してない人もいる。まあそれはちょっと置いといて、ヒマーラヤとかで真面目に修行してるパターンの場合、あるパターンは、もう世の中のことは関係ないと。ただ自分だけの悟りを求めて修行してる、そういう人ももちろんいる。で、もう一つのパターンっていうのは、そうじゃなくて、世を救いたいと思ってる。で、そのために自分が修行するんだって思ってる。つまり自分がひたすら聖なる境地を高めてね、そのパワーっていうかな、エネルギーというか、心の働きによってこの地球にいい影響を与えようって考えるタイプの人がいるんだね。で、ミラレーパはまさにそのタイプだったんだね。つまり積極的に世に出ていって法を説くというよりは、ひたすら修行する。ひたすら瞑想する。
 で、それによってミラレーパがなした世の中への貢献っていうのは、二つあるわけだね。一つは今言ったように、ミラレーパが別に何もしなくても、ミラレーパの存在自体がこの地球を浄化するっていうかな。それが一つです。で、もう一つは、さっきも言ったように、結果的に長い間にわたってミラレーパの存在が修行者を励ましてる。つまりあの時代にミラレーパっていう人がいて、素晴らしい歌をいっぱい残して、で、人生を通して修行し続けた。この素晴らしい生き方、それから教え自体が――まあ今のわれわれだってそうでしょ。われわれもミラレーパの本読んで、「すげえな」と思って(笑)、「おれも修行しなきゃ」ってこう思う。こういうことが、もう何百年もなされてきた。つまりそれだけの救済を実際に行なってるわけだね。
 で、ミラレーパがそのような道を選んだのは、もちろんグル・マルパの指示だったんです。つまりグル・マルパっていうのは――まあミラレーパがその一番弟子だったんだけど、ミラレーパも含めた四大弟子っていうのがいたんだね。で、その四大弟子にそれぞれ別の指示を与えるんですね。で、例えばミラレーパの次ぐらいに偉大な弟子だったゴクパっていう人がいるんですけど、このゴクパに関しはマルパはね、「生涯説法しろ」っていう指示を与えるんだね。つまり、「おまえはひたすら説法しろ」と。で、「法を説け」と。で、ミラレーパに関しては、「おまえはひたすら洞窟に行って瞑想しろ」と。で、その洞窟の指示までするんだね。「この洞窟とこの洞窟とこの洞窟に行け」と。つまりミラレーパにとっては、もちろん、「わたしは人々のために尽くしたい」と思ってるわけだけど、どのようにして尽くすのかは、まさにグルの指示がすべてなんです。つまりグル・マルパが「洞窟に行け」と言ったから、しかも指定までしてね(笑)、「ラシの洞窟に行け」「次はこの洞窟に行け」とか言ったから、「それが衆生へのわたしの奉仕だ」と考えて、ただひたすらそれを行なってるんだね。これがまあミラレーパの生き方だった。
 だからこれは、なんていうかな、一つのカルマヨーガだね。一つのその自分の使命に徹してるっていうか。だからもちろんわれわれにとっても、ストレートにそれは真似はできない。つまりカルマが違うから。われわれもミラレーパみたいに洞窟にこもればいいのかっていうと――まあその使命の人も中にはいるかもしれないよ。ね(笑)。いるかもしれないけど、そうじゃないかもしれない。だからそれは自分の使命に当てはめればいいわけだけど、ミラレーパはそのタイプだったんだね。
 全くそれと対称的なのがヴィヴェーカーナンダね。ヴィヴェーカーナンダはもう全然対称的。つまり完全に社会に出ていって、もうひたすら、なんていうかな、現実的な救済を行なう。現実的に教えを説き、あるいは現実的に例えば病気の人や貧しい人のためにも働く。そういうタイプの人がヴィヴェーカーナンダだった。だからこれは、何度も言うけど使命なんで、「これがわたしの使命だ」って感じたらそれに徹すればいい。そこでね、違うタイプの人を否定しては駄目だよ。よく違うタイプの人を批判する人がいる。例えば社会奉仕に使命を見出す。それはそれでもちろん素晴らしいんだけど、違うタイプを批判するわけだね。「あんな瞑想ばっかりしててもしょうがない」と。あるいはその逆のパターンもあるね。「瞑想に専念して、わたしは世界にいい影響を与えるんだ」と。で、それはそれでもちろん自分の使命に徹すればいいわけだけど、そうじゃない例えば社会活動をしてる人を非常に批判するとかね。つまり人の使命っていうかな、人のやってることは批判しちゃいけない。それはそれぞれのやるべき道があるわけだから。でも自分の使命が「これだ」って思ったら、それにしっかりと全力で徹するべきだね。
 はい。で、何度も言うけど、ミラレーパの場合は洞窟にこもる、そしてひたすら瞑想する――それが使命であった。そしてそれはグルの意思だった、指示だったっていうことですね。
 はい。で、この物語はまずそのミラレーパがね、まあちょっと托鉢に行くわけだね。たまに食事を乞いに行くと。で、そのときにちょうどそこに集まってた人々がミラレーパの噂話をしてた。そしたらそこに本人が現われたっていうところですね、ここはね。はい。

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