解説「王のための四十のドーハー」第七回(4)
【本文】
ある者たちは、間違った方法によって炎を頭頂に上げ
その舌で、小さな快楽を味わう
この積み重ねは、彼らを完全に情緒不安定にするが
彼らはプライドを持ち、自らをヨーギーと呼ぶ
はい。これも、高度な批判。――っていうかね、さっきの一つ前の詩の説明で、ほとんどここで言ってる説明もしちゃったような感じなんですが、
ある者たちは、間違った方法によって炎を頭頂に上げ
その舌で、小さな快楽を味わう
って書いてますね。ここで否定・批判されてるのは、簡単に言うとですよ、さっきから言ってる功徳や、あるいは慈悲、あるいは神へのバクティ、あるいは、そうですね、もちろん師への帰依とか、あるいは、さっきも言ったマハームドラーの真髄の悟り、こういったものへの努力をあまりせず、ただ肉体行だけでヨーガを達成しようとする人たちへの批判です。
一般的にっていうかな、よくね、仏教の人たちは、ヒンドゥー教のハタヨーガとかクンダリニーヨーガを、そういう方向性から批判する人が多いんですね。つまり、仏教の密教も、ヒンドゥー教のヨーガとかも、なんか似たようなことを結構やるんです。例えばね、ハタヨーガのアーサナってあるよね。アーサナは、あれもね、チベット仏教でも、ヤントラヨーガとか、トゥンコルというかたちで似たようなのをやるんですけども、そのヤントラヨーガの内容を見てみると、載ってるやつはほとんどハタヨーガなんです。つまりほとんど同じような、まあ皆さんも知ってるような、ここでもやってるようなアーサナなんです。もちろん、やり方はちょっと違うんだけど、ポーズのかたちはほとんどヨーガのアーサナと同じようなものばかりです。
だから、やってることはあまり変わらない。あとクンダリニーヨーガも、さっきも言ったように、チベットのトゥモヨーガね、チャンダーリーのヨーガも、まあ、やってることはあまり変わらない。じゃあその、ハタヨーガとかクンダリニーヨーガと、チベット仏教のヨーガの違いはなんなんだと。で、そこでよくチベット仏教とかインド仏教の人が言うのは、いや、彼らは――つまりヒンドゥー教の人たちは、行法ばっかりやって、空の悟りとか、慈悲とかね、そういうものはおそろかにしてると。だからそれでは駄目なんだという批判をよくするんですね。
でも皆さんはよく分かると思うけど、実際はそんなことはないんです。つまりそれは、なんていうかな、そういう人もいる。でもそれは仏教にも言えることなんですね。つまり仏教側にも、あまりそういった徳も積まず、慈悲も持たず、帰依もなく、ただ例えばマニアックに行法ばっかりやってる人もいる。これはまあ、同じなわけですね。で、逆にもちろんヨーガ、ヒンドゥー教の方でも、そうじゃなくてほんとに神への強い愛を持ち、徳がしっかりあって、慈悲の心に満ちてて、で、ほんとにその修行の意味を分かった上で行法をやってる人もいる。だからそれは、なんていうかな、一概にヒンドゥー教とか仏教とかではくくれないんですけどね。
だからヒンドゥー教とか仏教とかではくくれないわけですが、でもそういう間違った、つまりポイントが分からず、ただ行法だけをやって――つまり言ってみれば物理的な身体の反応っていうかな、身体的な反応だけによって、ここで「小さな快楽」って書いてありますが、つまり徳もない、あるいは正しい修行もしてないから――例えばですよ、そうですね、あまり徳を積まず、慈悲もなく、しかし根性だけはあって、ね(笑)、一日十時間ぐらいムドラーいっぱいやってたとしますよ。そしたらね、多分ね、その人は徳が小さくてもその小さな徳が、十時間もやれば燃えて、ウワーッてなって、神経が覚醒していって、で、甘露がちょっとは落ちて、「ああ気持ちいい!」ってなるんです。でもそれは、さっき言ったような正しいプロセスで味わう甘露とは比較にならないほど小さい。でもいつも言うけどさ、この内側の至福感とか、あるいは内側の光とかっていうのは、測れないんだね。つまりこう外に出して、比べてね、「ああ、M君のちっちゃいなあ」と、「おれの方がこんなにでかいぜ」とか言えないんだね(笑)。比べられない。だから全部ね、自己認識になっちゃうから、人によってはほんとにちょっとした快楽なのに、「おれはすごい歓喜を得た!」とか言う人もいるかもしれない。そういうタイプの人がいるわけだね。
つまり、なんていうかな、ものすごい努力して、行法ばっかりやって、で、それによってやっと生じた小さな快楽にもう満足しちゃうと。「おお、おれはすごい経験をした」と。「おれはすごい達成を得た」と。しかしそれは間違いなんだと。
で、「この積み重ねは、彼らを完全に情緒不安定にするが」って書いてありますが、これは事実です。つまり、これがね、よくいわれる、クンダリニーの危険性なんです。よくね、クンダリニーヨーガとかクンダリニーっていうのは、ものすごく危険だっていわれる。でも実際はそんなことありません。正しくやってれば全く危険はありません。しかし、今言ったように、徳も積まない、あるいは高い存在に対する帰依もない。あるいは戒律も守らず、慈悲もなく、ただ物理的な圧力っていうかな、物理的な力だけをクンダリニーにガンガン加えてたら、まさにそれは情緒不安定になります。逆にちょっと精神を冒してしまう危険性もある。で、そうなってるのにその人は、プライドがあるからね、「いや、おれはすごい修行をしてるんだ」と。で、「いろんな経験をしてるんだ、おれは偉大なヨーギーなんだ」っていうふうになってしまうと。これに対するまあ、注意点なわけですね。
はい。だからここも皆さんに当てはめてね、もう一回まとめてアドバイスすると、もちろん――っていうかね、そうですね、その前に皆さんはもっと修行しなきゃいけないかもしれないね(笑)。「いやあ、もう行法ばっかりやって」って言うほどやってないだろうから(笑)。まずそれはしっかりやんなきゃいけないんだけど、それと同時にね、もちろん、徳を積むこと、そして慈悲を持つこと、戒を守ること、そして師や神や仏陀といったものへの帰依を強めること、そして、ちょっと難しいけど、この世の真髄をつかまえる修行ね。こういったものをすべてしっかりとやって、同時にね、しっかりと行法を行なうと。これによって、正しい甘露の経験をしなきゃいけないっていうことですね。
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