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クンサン・ラマの教え 第一部 第一章「自由と縁を得ることの難しさ」(9)

環境的な五つの条件

 仏陀があらわれて、
 ダルマを説き、
 仏陀の教えが現存し、
 ダルマに従うことができ、
 優しい師がいる。

 仏陀があらわれた時代に生まれなければ、決してダルマを聞くことはできない。しかしわたしたちは、仏陀があらわれた時代に生きている。そして、特別な師が生きているという条件を得ている。
 もし仏陀があらわれても、ダルマをお説きにならなかったならば、誰も救われることはない。しかし仏陀はダルマの車輪を回してくださった。それによりわたしたちは、ダルマが説かれたという条件を得ることとなった。
 仏陀がダルマを説いたとしても、その教えが死に絶えてしまえば、もはやわたしたちを救うことはできない。しかし、その教えは現在に伝わり、いまだ滅びてはいない。つまり、わたしたちは時代としての条件を得ている。
 仏陀の教えがまだ存在していたとしても、従うことができなければ意味がない。しかし、わたしたちはダルマに従うことができる。つまり、わたしたちは善い運命という条件を得ている。
 ダルマに従うことができても、師に受け入れられなければ、真のダルマがどのようなものであるか、知ることはできない。しかし師はわたしたちを受け入れてくれた。つまり、師の特別な慈悲という条件を得ている。
 これらの五つの条件は、自分自身の努力ではなく、環境的な側面を満たさなければならない。よって、外的な五つの条件と呼ばれる。

 完全な仏陀が世界にあらわれるカルパを『輝けるカルパ』と呼ぶ。一方、仏陀があらわれない時代を『暗黒のカルパ』と呼ぶ。もし暗黒のカルパに生まれたら、三宝という言葉さえも決して耳にすることはできない。
 さらに、ウッディヤーナの偉大なる師(グル・リンポチェ)が次のように説いたように、秘密真言金剛乗が説かれることは滅多にないことである。

 遠い昔、「完全な配列のカルパ」において、秘密真言乗の教えが広められて、大いに有名になった。
 今のわれわれの時代の教えにも、秘密真言乗が含まれている。
 そして一千万カルパののち、「花の配列のカルパ」において仏陀マンジュシュリーがあらわれて、秘密真言乗を明らかにするであろう。
 なぜなら、これらの三つのカルパに生きる者たちは、秘密真言乗を伝授されるにふさわしいからである。他のカルパにおいて秘密真言乗があらわれなかったのは、その時代の者たちが秘密真言乗を修行する能力がないからである。

 わたしたちが生きるこの時代には、完全な仏陀である釈迦牟尼があらわれた。それゆえに今は「輝けるカルパ」である。

 仏陀が出現しても、仏陀がただ瞑想の状態にあり、ダルマをお説きにならなければ、ダルマの光はあらわれない。
 完全なる仏陀の境地をヴァジュラーサナで得たとき、釈迦牟尼如来は次のように考えた。

 ダルマは神々の食物のように美味であり、
 深く、平和で、平易であり、純粋で、輝いている。
 しかしもしわたしがこのようなダルマを説いたとしても、誰も理解できないであろう。
 それならば、森の中で静かにしていよう。

 このように、ブラフマー神がダルマの車輪を回すことを懇願するまでの七週間は、ダルマが説かれることはなかった。
 仏陀釈迦牟尼は、わたしたちのためにダルマの車輪を回し、衆生の必要性と能力に応じて無数の姿であらわれ、九乗の教えにより弟子を成熟と解脱へと導いた。
 
 たとえ仏陀があらわれて教えを説いたカルパであっても、教えが滅び、説かれたダルマが消滅してしまえば、それは暗黒のカルパと同じである。仏陀の教えが消滅して次の仏陀の教えが説かれるまでの期間を「ダルマの欠如」と呼ぶ。その時代、吉祥な場所には独覚はあらわれるが、彼は教えを説くことはない。
 今日、仏陀釈迦牟尼の教えはまだ残っている。今は、寿命や信仰などが衰退していく時代といわれている。にもかかわらず、教えがまだ存在している。ダルマが死に絶えてしまっていないため、わたしたちはダルマが現存しているという縁を得ている。

 しかし、教えが残っていても、実践しなければ無意味である。ちょうど、太陽が昇り全世界を照らしたとしても、盲目の人間には全く見えないのと同じである。あるいは、旅人が大きな湖にたどり着いても、実際にその水を飲まなければ喉の渇きは癒されないのと同じである。

 たとえダルマの修行を始めたとしても、師に受け入れられないならば、意味のないことである。「凝縮された智慧の完成」には、次のように説かれている。

 仏陀とその教えはただグルゆえにやってくる。
 ゆえに勝者はおっしゃった。「グルはすべての悟りの特性の最高の体現者である」と。

 仏陀の教えは無限であり、伝授は莫大な数がある。本質を突いた師の指導に頼らなければ、すべての教えの本質部分をいかに凝縮し、実践すればよいのか、まったくわからないであろう。
 かつてアティーシャがチベットにいたとき、弟子たちがアティーシャに、「悟りに達して全智を完成するためには、経典、解説書、師の口頭の指導のうち、どれが最も大事ですか?」と質問した。
 これに対してアティーシャは「師の指導です」と答えた。
 「なぜでしょうか?」
 「たとえ記憶によって三蔵をすべて説明することができ、形而上学に深く精通していたとしても、師の実践的な指導がなければ、それは真のダルマとは別物になってしまう。」
 これは、師の存在がいかに重要不可欠かをあらわしている。

 自分自身の人生と環境を、八つの自由と十の条件の観点から考えてみなさい。もし現状がすべての条件を満たしているならば、「十八の自由と条件が備わった人間の命」を持っているということだ。しかし、全智のダルマの王ロンチェンパは、「如意の宝庫」において、さらに16の条件を付けくわえている。

 五毒による混乱、
 愚かさ、
 悪しき影響に支配されること、
 怠惰、
 過去の悪しきおこないの影響に支配されること、
 他人への隷従、
 危険からの保護だけを求めること、
 偽善的な修行、
 これらが八つの悪しき境遇であり、自由を奪ってしまう。

 世俗の結びつきに支配されること、
 ひどい堕落、
 輪廻を厭う心の欠如、
 信の欠如、
 悪しきおこないを楽しむこと、
 ダルマへの興味の欠如、
 戒とサマヤへの無頓着、
 これらは八つの不適切な性質であり、自由を奪ってしまう。

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