水
こころをとどめている人々は努めはげむ。かれらは住居を楽しまない。白鳥が池を立ち去るように、かれらはあの家、この家を(つぎつぎと)捨てる。
白鳥は太陽の道を行き、感官を制御した人々は虚空を行き、心ある人々は、悪魔の軍勢にうち勝って世界から去って行く。
若いときに財を獲ることなく、(あるいは出家して)清らかな行ないをまもらないならば、魚が僅かしかいなくなった池にいる老いた白鷺のように、(悲しく)思いに耽る。
若いときに財を獲ることなく、(あるいは出家して)清らかな行ないをまもらないならば、壊れて投げてすてられた弓のようによこたわる。――昔のことばかり思い出して嘆きながら。
「その報いはわたしには来ないだろう」とおもって、悪を軽んずるな。水が一滴ずつ滴りおちるならば、大きな水瓶でもみたされるのである。愚かな人々は、少しずつでも悪をならすならば、やがてわざわいにみたされるのである。
「その果報はわたしにはこないであろう」とおもって、善を軽んずるな。水が一滴ずつ滴りおちるならば、大きな水瓶でもみたされるのである。気をつけている人々は、少しずつでも善をなすならば、やがて福徳にみたされるのである。
大海原を渡る人々はつねに立派な筏をつくって渡る。(かれらは河を渡ったのだと思っているが、)河を渡っていないのだ。聡明なる人々のみが(迷いの大河を)渡っているのである。
ブラーフマナである尊師ブッダは、渡りおわって陸地に立っている。ある修行僧らはここで水浴をしている。他の修行僧らは筏をつくっている。
もしも水がどこにでもあるのであるならば、どうして泉をつくる必要があろうか? 渇愛の根を取り除いたならば、さらに何を求める要があろうか?
水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は力をこめて(矢を)矯め、大工は木材を矯め、慎しみ深い人々は自己をととのえる。
深い湖が、澄んで、清らかにあるように、賢者たちは正しい教えを聞いて、こころ清らかである。
大地のように汚されることがなく、門のしまりのように動揺することなく、湖に汚れた泥がないように、そのような境地にある人――実にもろもろの賢者は汚濁を離れている。
(ウダーナヴァルガ)