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クンサン・ラマの教え 第一部 第一章「自由と縁を得ることの難しさ」(4)

六つのけがれ

 『よく説明された理由』には次のように説かれている。

 慢心、信の欠如、努力の欠如、
 外界に気を散らされること、内面の緊張、やる気のなさ、
 これが六つのけがれである。

 すべての負の感情の中で、慢心と嫉妬は、最も認識することが難しい。それ故に、自分の心を常に確かめなさい。慢心を持つならば、自分の欠陥に目をつぶることになり、他者の善き性質に気づかなくなる。よって、慢心を捨て、常に謙虚でいなくてはいけない。

 信がなければ、ダルマの入り口はふさがれる。四つの信の中でも、不可逆の信を求めなさい。

 真理への希求心が、到達する段階への基礎となる。よって、希求心が優れているか、普通か、劣っているかによって、優れた修行者、普通の修行者、劣った修行者となる。もし真理への希求心が全くなければ、何の結果も得られない。次のように説かれている。

 ダルマは誰のものでもない。最も努力した者のものとなる。

 仏陀釈迦牟尼ご自身も、何百もの困難を乗り越えて教えを得た。たった数行の真理の詩を得るために、崖から身を投げたり、燃え盛る穴に飛び込んだり、何千もの鉄の爪で身体を貫かれたりなさった。

 炎の山を超え、カミソリの刃の平原を渡り、
 死の間際まで、ダルマを追い求めよう。

 それ故に、暑さ寒さなどの苦難を忘れて、努力してしっかりとダルマを聴きなさい。

 六つの感覚要素の対象に夢中になるという意識の性質が、すべての輪廻という幻の根本であり、すべての苦しみの源である。蛾がランプの灯に焼かれて死ぬのは、蛾の視覚が形状に惹かれるからである。牡鹿が猟師に殺されるのは、牡鹿の聴覚が音に惹かれるからである。蜂が食虫植物に飲み込まれるのは、蜂がにおいに惹かれるからである。魚が餌で釣られるのは、魚が味に誘われるからである。象が沼でおぼれるのは、象が泥の感触を好むからである。
 ダルマを聞くとき、教えるとき、瞑想するとき、修行するときは、過去の出来事を考えず、将来のことを考えて感情を高ぶらさせず、周囲のどんなものにも惑わされないことが大切である。
 ギャルセイ・リンポチェは、次のように説いている。

 過去に感受した苦楽は、水面に書いた絵のように、
 痕跡を残すことなく、追憶を断て。
 もし心に浮かんでしまった場合は、
 成功や失敗は、あらわれては消えるものであることを考えよ。
 真言行者たちよ、真理のほかに信じるべきことがあるだろうか?

 未来の計画や予定を立てることは、干上がった川に網を投げるようなもの。望むものをもたらすことはない。欲望や欲求を制御せよ。
 しかし心に浮かんでしまったら、死はいつ訪れるかわからないことを考えよ。
 真言行者たちよ、ダルマの実践や修行以外に、費やす時間があるだろうか?

 今の行為は、夢の中の家事のようなもの。
 意味のない労苦に時を過ごしてはいけない。
 正法が求めるものだけを、無執着に摂取せよ。
 真言行者たちよ、行為に実体はない。

 すべての思考や識別がダルマカーヤとしてあらわれるまで、
 瞑想において、あらゆる思考が三毒から生じる。
 それを制御することを学びなさい。
 それは常に覚えていなければならない、重要なことである。
 真言行者たちよ、けがれた思考に決して支配されてはいけない。

 また、次のようにも説かれている。

 未来を夢想するな、夢想すれば、
 「ダワ・タクパ」の親父のようになる。

 「ダワ・タクパ」の親父とは、かわいそうな男の話である。その男は、たまたまたくさんの大麦を見つけ、大きな袋にその大麦を詰めて屋根の垂木に縛り、その下に寝そべって夢想を始めた。
 「この大麦で、すごい金持ちになれる」とその男は考えた。「金持ちになったら、妻を娶ろう。妻は、そのうちに男の子を生むだろう。その子の名前はどうしようか?」
 ちょうどそのとき月が出たので、息子を「ダワ・タクパ(有名な月)」と名付けることに決めた。まさにそのとき、ネズミが大麦の袋を吊り下げていた縄をかみ切って、縄が外れ、その男は袋の下敷きになって死んでしまった。
 このように、過去や未来について夢想することは、良い結果を生むことはなく、気を散らすだけである。それらを完全に捨て去って、心して注意深く大切にダルマを聴きなさい。

 また、一つ一つの言葉や論点にこだわりすぎるような、細部に過度に集中する態度もいけない。クマがモグラを掘り起こすように、一匹捕まえるたびに前のモグラを忘れてしまい、結局全体を理解することができない。
 また、極端に緊張しすぎてもいけない。緊張と弛緩の間でバランスを取りなさい。
 かつて、仏弟子アーナンダが新弟子のシュローナに瞑想を教えていた。シュローナは正しく瞑想することについてとても苦労していた。緊張しすぎることもあれば、弛緩しすぎることもあった。シュローナがこの問題について仏陀に話したところ、仏陀は次のように尋ねた。
 「あなたが俗人であったとき、上手なヴィーナの奏者だったそうですね?」
 「はい、とても上手でした。」
 「ヴィーナの弦がとても緩い場合と、きつく張っている場合と、どちらの音が良いでしょうか?」
 「緩くもなく張りつめてもいないときが最も良い音でした。」
 「心についても同じです」と、仏陀はおっしゃった。この助言によってシュローナは目的を果たした。

 マチク・ラプドゥンはこうおっしゃっている。

 はじめ、固く締めあげて
 次に、ゆっくりとほぐしていく
 そこに、見解の本質が会得される

 心を過度に張りつめたり、極端に緊張したりしてはいけない。感覚を自然にくつろがせ、緊張と弛緩の間でバランスを取りなさい。

 ダルマを聞くことに疲れてはならない。説法がとても長いときなどに、空腹を感じたり、喉が渇いたりしたとしても、うんざりしてはならない。風、太陽の光、雨などの不快さに関しても同じである。人間の生という自由と縁を得て、本当の師に巡り会い、甚深な教えを聞けることをただ喜びなさい。
 この瞬間に甚深なダルマを聞いているという事実が、無数のカルパにおいて積んだ功徳の結果である。人生を通して百回しかない食事のうちの一回分の食事のようなものである。それ故に、喜びを持ってダルマを聞き、暑さ、寒さやどんな試練や困難が起ころうとも耐えようと誓い、教えを受けることが不可欠である。

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