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◎四つの前行

◎四つの前行

【本文】

1 前行

 初めは以下の前行をせよ。
(1)自由で幸福な人間としての生涯の稀有さ・得難さ、および人間のもつ可能性について考える。
(2)死と無常について考える。
(3)カルマとその果報について考える。
(4)輪廻がもたらす不利益について考える。

 この前行は分かりますね。これはチベット仏教とかで必ず出てくる、本格的な修行に入る前に繰り返し学んで納得し、自分の心に根付かせておかなきゃいけない四つの項目ですね。

 これはいろんな勉強会でいつも出てくるんで、何度も聞いてると思うけど、まあつまりそれだけ大事なことなので、もう一回サーッと復習しましょうね。

 まずは一番目、「自由で幸福な人間としての生涯の稀有さ・得難さ、および人間のもつ可能性について考える」と。

 これもいつも言うように、この六道輪廻の中で――つまり地獄、動物、餓鬼、人間、阿修羅、天という六道輪廻の中で、唯一われわれが修行を進めることができるのは人間界であるといわれています。ここでいう天界っていうのは、さっきもいったように、シヴァとかクリシュナとかの神の世界じゃなくて、われわれよりちょっと高いぐらいの神の世界です。つまりまだこの輪廻に縛られてる神だね。

 われわれはこの地獄から神に至る人間以外の世界に生まれると修行できない。人間のみが修行できる。何で修行できないかっていうと、これも簡単に言うけどね、地獄は苦しすぎて修行できません。動物は無智すぎて修行ができない。餓鬼は貪りに心が覆われてて修行どころじゃない。で、天界は楽しすぎて修行できないんだね。それは一時的な無常な楽しみなんだけど、無智だから分からなくて、一時的な楽しみに溺れて修行したいなんて全く思わない。で、阿修羅はもう天界の一部だから、天界と同じといってもいいんだけど、それプラス阿修羅は闘争に心が明け暮れてるから、やはり修行に心が向かわない。

 人間っていうのはそういう意味では非常に中途半端な存在なんだね。人間っていうのは動物にはない理性がある。でも天界ほど幸せじゃない。地獄ほど苦しいわけでもない。非常に中途半端な状態で、しかも理性を与えられちゃってるから悩むんだね、人間って(笑)。「人生って何なんだろう」って(笑)。

 あのさ、天界みたいにもう楽で満ち溢れてたら悩まないでしょ? 毎日毎日、うわーって感じで天女がいっぱいいて(笑)、人間には考えられないようなものすごい美味しい食べ物があって、それだけじゃなくてもう日々エクスタシーでいっぱいだと。「ああ。これが人生だー」と思って何も悩まない(笑)。で、地獄みたいに、逆に釜ゆでにされたりとか、あるいはグサグサグサって刺されてたら、やっぱり悩む暇がない(笑)。「うわー! 助けてくれー! 助けてくれー!」しかないわけだね。でも人間ってそういう意味では中間状態なんです。そこまで苦しくはないし、そこまで楽しくもない。

 で、動物は無智だから、動物界っていうのも人間界に似てるけど、無智だからあんまり考えない。考えないで、ただ習性通り生きてるわけです。わたしよく動物を観察することがあって、池の鯉とか観察すると、泳いでるわけです、群れで。で、ある広さの池のとこをじーっと観察してたら、全く同じルートを全く同じ習性で動いてるんだね(笑)。「何考えてるんだろう?」って思って(笑)。何か疑問とかないのかなって(笑)。例えばクイッてこう背びれの曲げ方とか、ついていくときの二番目の魚の位置とか、みんな同じで、クイックイッてこう(笑)、ずーっと繰り返してるんです。「中には疑問を持つやついないのかな?」とか(笑)。でもそれが動物なんだね。つまり習性が――ここでいう習性っていうのは本能ってよくいわれるけど、本能っていうよりも過去の経験です。動物的な過去の経験に基づいて、ただ繰り返してる。それに何の疑問も抱かない。

 でも人間は違うんです。なまじっか理性が――完全な智慧ではないんだけど――あるために、考えてしまうんだね。「これでいいんだろうか?」と。そこで悩みが生まれる。でも逆にそれだからこそ修行に辿り着くんです。

◎得難さ

 まあ、わたしもそうだったし、みんなもそうだったかもしれないけど、わたしも小さい頃からそういうことよく哲学的に考えてた。「おれは何で生まれてきたんだろう?」と。将来をシュミレーションしても、全く意味を見いだせない。別に暗い何の夢もない子供だったんじゃないよ(笑)。夢はいっぱいあったんです。野球選手になりたかったし、漫画家にもなりたかった。あと絵が好きだったんだね、小さい頃。だから画家とかもいいなと思ったし、あと文章も好きだったから小説家もいいなと。あるいはね、格闘技が途中で好きになって、さすらいの格闘家とかになりたかった(笑)。世界を放浪して敵を打ちのめしていく、さすらいの格闘家(笑)。いろんな夢があったんだけど、ちょっと現実的だったんですね。夢を現実的にいろいろシュミレーションすると、何かね、「そんな、思ってた程でもないな」っていうふうに感じちゃうんだね。それが百パーセント叶えられたとしてもね。つまり「人生のすべてをかけるには値しないな」って思ってしまう。というよりも、それがわたしの生まれてきた意味とは思えない。

 例えば一番最初わたしがなりたかったのは野球選手だったんだけど――つまりリアルに考えると、まあそのときは巨人軍がやっぱり一番だったから、やっぱりジャイアンツに入って、もう本当に最高のエースもしくは四番バッターとして大活躍して、もう国民的ヒーローになって、芸能人とかと結婚して(笑)、巨万の富と地位を築いて死んでいくと。まあもし仮に最高のシナリオを用意するとしたらそんな感じだよね。現代だったら大リーグに行くとかもあるかもしれないけど(笑)、それを最高にイメージするよね。こうなって、こうなって、こうなって、こうなって、こうなって死んでいくと。ここまで最高のシナリオをイメージしてしまったときに、「それがおれが生まれてきた意味か」って考えてしまうとね、「おれの生まれてきた意味、ジャイアンツ?」って思うと(笑)、「ちょっとそれ嫌だな」って思っちゃうんだね(笑)。「おれはジャイアンツのために生まれてきた」とか思うと、「違うんじゃない?」っていう(笑)。「もっと大事なことありそうな気もする」と思っちゃうんだね。

 あと小さいながらに言葉は知らなかったけど、やっぱり無常観もあったね。無常観っていうのは、さっき言った、大成功したとしても終わるわけじゃないですか、すべては。例えばホームランで世界記録を出したとしても、それは一時の話であって、その栄光の瞬間はとても素晴らしいけども、それからはまた違う日々がやってくる。過去の栄光にすがってもしょうがない。すべては終わる。例えば美しい女性と結婚して、楽しいとてもいい家族ができたとしても、必ず別れがくる。誰かが死ぬ。あるいは死なないで喧嘩して別れるかもしれない。あるいは国民的ヒーローになったとしても、逆に自分の不正とかが発覚して、国民的にすごい叩かれるかもしれない(笑)。何があるか分からない。で、この無常の世っていうのを考えたときに、やっぱりそれもちょっと虚しくなったことがあった。そういうことをわたしの場合は小さい頃からよく考えてたんだね。

 で、みんなも、そこまでいかないかもしれないけど、やっぱりいろいろ考えるっていう習性がある。で、こうして、「じゃあ何でわたしは生まれてきたんだろう?」「正しいことっていったい何だろう?」「本当の人生の意味っていったい何だろうか?」「人生で最も価値のあることはいったい何だろう?」――で、そこで、修行とか真理とか教えに巡り合えるかどうかは、また縁とかによって決まってくるんだけど、でも少なくともそのチャンスはあるんだね、人間っていうのは。
 
 しかもこのような教えを学んでる段階で、チャンスは手にしてるんです。で、この価値をしっかりと最初の段階で学ばされるんだね。
 
 で、「得難さ」って書いてあるけど、「稀有さ・得難さ」っていうのはつまり、これも仏教の論理だけどね、お釈迦様が手に泥をちょっとのせてね、弟子たちに、「弟子たちよ」と。「この大地全体とこのわたしの指の上にある泥では、どっちが大きいか」と。で、弟子は、「それはもう比べものにならないくらい大地の方が大きいです」と。「人間が死んで、地獄、餓鬼、動物――三悪趣っていうわけですが、この三つの世界に生まれる確率と、人間が死んで、人間以上――つまり人間や神に生まれ変わることができる、その比率はこれくらいのもんだ」ってお釈迦様はいってる。つまり、大地全体と指先の上のちょっとした泥ぐらい。つまりもう九九.九九九パーセント以上は地獄、餓鬼、動物だっていってるんです、お釈迦様はね。

 現代の仏教ではそういうことはあまり言わない。何か脅しみたいになっちゃうから(笑)。でも本当にお釈迦様までたどると、お釈迦様はズバッとそこまで言ってる。つまり、それだけ迷妄の魂が多い。

 つまり、もうちょっと逆の言い方すると、普通に生きてたらもう落っこちるんです。この人生で普通に常識に則って、修行もせず、教えも学ばず、普通に社会で普通に生きてたら、地獄・餓鬼・動物だと。それだけ下の世界ほど行きやすい。

 だからよく六道輪廻っていうのは三角形で表わされる。つまり下ほど多いんだね。下ほど、つまり行きやすい。そういう意味でも人間界に生まれるチャンスっていうのは、非常に稀なんだね。

 われわれはそこまで考えてない。何かずーっと――現代では霊能者とかも適当なことばっかり言うから、「あなた前世では徳川家にいました」とかいきなり言うから(笑)、何かこう安心して、「え? 前生もおれそんな王様だったんだ。だからおれは今生ちょっとプライドが高いのかな」とか(笑)、こういう訳の分からないこと考えてちょっと安心してるんだけど――じゃないんだと。お釈迦様に言わせると、「お前、ほとんど地獄だよ」と(笑)。「えーっと、一つ前地獄。二つ前動物。三つ前餓鬼ですね」と。「人間のときなかったんですか?」と。「うーん。五億回前ぐらい人間だった」と(笑)。冗談じゃなくてそういう感じなんです、フィーリング的には。ほとんど下にいてたまにポッと上がる。

 実際はね、修行者の場合は本当は違うんだけどね。修行者の場合はもちろん何生も人間界とか天界とかで修行してきてるんだけど、でも考え方としてはそれくらいシビアに考えた方がいい。

 これはミラレ―パもそういうことを言ってる。ミラレ―パが弟子にね――これはもちろん弟子が信仰心があるからなんだけど、ミラレ―パに対して、「あなた様は本当に素晴らしい聖者だ」と。「恐らくあなたは偉大な菩薩の国からやって来た、本当に稀に見る魂なんでしょうね」っていうことを言ったら、ミラレ―パは、

「そんなことは言ってはいけない」

と。

「わたしはそんな偉大な存在ではなかった」

と。

「おそらくわたしは三悪趣からやって来たに違いない」

と。

「しかし偉大な師に巡り会い、そして偉大な教えに巡り合うことができたんだ」

と。

「それがわたしの最大の幸運だった」

と。

「それによって、悪趣から上がってきたわたしも、その教えの実践によって救われることができたんだ」

と。

 そういうことをミラレ―パは仰っている。もちろんこれはミラレ―パの謙遜だとは思うよ。おそらくミラレ―パほどの人は、実際は菩薩として何生も転生してきたんだと思うんだけど、でも考え方としてはそういう考え方を持たなきゃいけないんだね。

 われわれは何生も何生も低い世界で苦しみ続けてきたと。で、たまたま、いろんなタイミングがあって人間として生まれ、で、たまたま、過去の何らかの縁で教えを学べたと。

◎あり得ないくらいの奇跡

 この「何らかの縁」っていうのはさ、つまり菩薩とか仏陀っていうのは、いろんな世界に生まれ変わって縁をつけてるっていわれるんだね。縁をつけてるっていうのは、そのときはさりげない縁なんです。例えば、「ちょっとご飯くれ」とかね(笑)。托鉢とか。例えば托鉢にやってきて、全然信仰心のない家に仏陀が托鉢にやってきて、「お前ら乞食にやるものはねえけど」「でもちょっと何かください」と。「じゃあ、こんなんでいいんなら持ってきな!」と。前日のちょっともうすっぱくなったご飯とかを差し出すと。これを利用して仏陀は、来世あるいは十万生ぐらい先かもしれないけど、その縁で弟子を自分のもとに持ってくる。つまり何らかの縁がわれわれは真理とあるんだね。その縁のタイミングがちょうどあったときに、われわれは聖者とか教えと出合える。でもそれも本当に稀なチャンスなんだと。それを繰り返し繰り返し自分に言い聞かせるっていうか、納得しなきゃいけない。

 そうするとわれわれはちょっとこう、気を抜いてはいられなくなる。っていうのは、稀なチャンスで今修行と巡り合ったわけだけど、逆に言うといつそのチャンスが消えるか分からない。明日消えるかもしれない。あるいは次の瞬間には消えるかもしれない。

 これはね、今日は詳しくはやらないけど、その要素ね、まあ伝統的には十八の要素が挙げられています。十八の項目、十八の要素が全部備わってるので、今われわれは人間として修行できてるんです。一個でもなくなると、われわれは修行しにくくなります。 
 
 例えば例を挙げると、人間界は修行できるといっても、じゃあわれわれが、現代でいうと北朝鮮に生まれたらどうだっただろうか。つまり北朝鮮に生まれた場合、おそらく思想統制をされて、仏教の教えと巡り合える、あるいはヨーガの教えとかと巡り合える可能性は非常に少ない。それ以前に小さい頃からある一つの思想を徹底的に教え込まれるから、それによって教えの理解ができなくなるかもしれない。

 あるいはもっと別パターンとしては、アフリカの奥地とかの原住民に生まれたらどうだろうか。その原住民の中での価値基準で育てられ、原住民の宗教を教えられ、自己の心を変革していくような仏教やヨーガというものには全く巡り合えないかもしれない。あるいは巡り合っても全く理解できないかもしれない。

 今の日本にいるわれわれっていうのは、思想の自由がある。そして行動の自由がある。これだけでもとても素晴らしいんだね。つまりいろんな思想が今学べて、その思想を選べる。だから確かに、例えば共産主義の本もあると。あるいは唯物論的なことをいう人もいると。あるいは宗教の中でも、ちょっと霊的なね、ちょっと魔境的な宗教もある。で、仏教とかヨーガもバーンとあると。その中で自由に、仏教やヨーガと縁があれば、仏教やヨーガの教えを正しく学んで、そしてその教え通りに生きる。

 例えば日本の場合は現代ではまだ徴兵制もないし、あるいはあまり行動を縛られてる国でもない。もちろん法律はあるけども、その法律の範囲内でだったら、教え通り生きることは、まあ難しくはない。それだけの行動の自由。

 それから日本人は豊かだから――豊かといっても、もちろんなかなか日々働くのは大変なことだけども、それでももっと恵まれてない人達も世界中にたくさんいる。日々のご飯を食べるのも本当に大変で、もう重労働に日々を費やしていて、修行の暇なんて全くないって人もいるわけです。でもわれわれはもちろん日々忙しいけども、でもある程度修行の時間を取れる。そういう時代に生まれてきてる。あるいは修行するための強い肉体を作れるだけの豊かな食物にも恵まれている。

 つまりこれだけ周りを見渡すと、もうありえないぐらいの――「え? ちょっとこれって奇跡じゃないですか?」ぐらいの(笑)、環境が整ってるんだね。

 で、ある経典とかでは、「ここまで整ってるときに修行しないやつが、これよりも整ってないときに修行できるのか」というような話もあるんだね。だからそういうふうに自分に言い聞かせなきゃいけない。「ここまで修行しやすい環境が整うことは稀だぞ」と。これがそうじゃない、もうちょっと修行しづらい世界に生まれたときに、今こんなに怠けてるおれが、そのときどうするんだと。そういうふうに自分に言い聞かせるんだね。

 こういうことを繰り返し繰り返して――まあだからこの教えっていうのは、まあ心の訓練の教えの全体がそうだけど、客観的な分析的真理っていうよりは、方法論的な教えなんだね。方法論的に――つまり、別にここで分析してもしょうがないんです。例えば、「本当に人間に生まれるのが難しいのだろうか?」とかね。あるいは「本当に今のわたしの与えられた環境っていうのは、そういうことなんだろうか?」「いや、でも日本のGNPはこうで・・・・・・」とか(笑)、そういうことをいろいろ言い出してもしょうがない。そうじゃなくて、目的を持った教えなんです、これはね。方法論的な教え。つまりそういうふうに考えなさいと。考えることによって、まずあなたの中の教えへの求める心とか、あるいは自分の時間を大切にする心とかが育まれますよと。で、そういうものがあなたの修行の土台になると。だからそういうふうに考えてください。

 現代の日本人っていうのは、小さい頃からの学校の教えられ方によってね、そういうちょっと意味のない論理的な考え方をすることが多いと思うんだね。「これはどうなんでしょうか? これは客観的にどうなんでしょうか?」と。そうじゃなくて、仏教のこういう方法論的な教えっていうのは、いかに自分を変えるかの教えなんです。だからこれは、もちろん理解できないところはいろんな人に聞いたり、教えを学んだりして理解を深めなきゃいけないけど、自分を変えるためのセオリーなんだっていうのは、しっかりと認識して学ばないと駄目ですね。

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