「彼に属すべきこの眼」
【本文】
他界のことは別問題としても、雇い人が仕事に励まず、主人が給金を与えなければ、現実的に業務は成功しない。
お互いの和楽から生じる、可見(この世)と不可見(他界)の安楽歓喜を捨てて、惑える人々は、互いに苦しめあい、その結果恐ろしい苦しみをなめる。
苦しみと危険が多いほどに、世間には艱難が多い。その全ては、自我への執着から生ずる。かような執着は、私に何の用があるか。
【解説】
来世とか三界とかニルヴァーナとか、瞑想しないと認識できない世界はひとまずおいていて、この現世と呼ばれる世界だけに目を向けたとしても、お互いが相和合し、お互いがお互いのためになすべき事をなして初めて、全てはうまくいき、安楽や歓喜が成立します。
しかし実際は、互いのエゴによって、互いに苦しんだり、うまくいかなかったりすることが多いものです。結局、全ての苦しみ、デメリットは、すべてエゴ、自我への執着から生じるのだと、シャーンティデーヴァはここでも言い切っています。そんなもの(自我への執着)に、私は用はないんだと。
【本文】
自我を捨てないでは、苦しみを捨てることができない。それは、火を捨てなければ、やけどを免れないに等しい。
それゆえ、己の苦しみを鎮め、また他の苦しみを取り除くために、私は自我を他に与え、他を自我として受け取る。
【解説】
この一行目は、とてもシンプルで、ストレートで、美しい教えだと思います。
火がやけどの直接原因であって、やけどを免れるには「火を捨てる」という選択肢以外ありえないように、自我への執着のみが苦しみの直接原因であり、自我を捨てないでは、苦しみが消えることはありえないのだ、とはっきりと述べているのです。
言い方を変えれば、苦しみとは自我意識の別名であり、自我意識とは苦しみの別名であるともいえるでしょう。だから、自我への執着(エゴ)を持ちつつ苦しみから逃れたいというのは、ナンセンスであり、不可能なのです。
しかしこの「自他の転換」の教えを使えば、自分と他者の苦しみを取り除くことができるというのです。
【本文】
ああ、心よ。汝は他と結合しているとの決心をなせ。全ての衆生の利益以外に、汝は他のことを考えてはならない。
彼に属すべきこの目等をもって、自己の利益を見ること等は、ふさわしくない。他に属する手等をもって、自己の利益を作り出すことは、ふさわしくない。
それゆえ、衆生のために心を一筋にし、この身において有用と認めるものは、その一つ一つを取り出して、他人のためになることを行なえ。
【解説】
自分の心に対して、「他と結合しているとの決心をなせ」と命令しています。「全ての衆生の利益以外に、他のことを考えてはいけない」と。
我々のエゴ、無明は、まず自分と他者をはっきりと分けます。境界線を引くわけです。もちろん、この自己と他者の境界線を打ち破り、自己と他者の同一性を悟れれば一番いいのですが、なかなかそう簡単にはいきません。「自分と他人は同一である。区別はない」という教えは、美しく、またそれを聞き、少し理解することによって、一時的に少し優しい気持ちになるかもしれません。しかし依然として自我への執着は消えてません。
それを実質的に変えていこうという強烈な方法が、「自己と他者の転換」なんですね。
まず、自己と他者の境界線がある。自己と他者がはっきりとわかれている。これはもうしょうがない。悟っていない以上、なかなかその境界線を取り除くことはできない。ならばその境界線はそのままにして、自分の心に対して、「自己」ではなくて「他者」の側につけと、命令しているのです。
さあ、もう今以降、私の全ては、衆生のものです。私の全ては、衆生の幸福のためにのみあります。
この目も、衆生のものですから、他人の目をもって、自分の利益を見るのはふさわしくないですね。それでは泥棒になってしまいます。だからただただこの目で、衆生の利益のみを探すのです。
この手も、衆生のものですから、他人の手をもって、自分の利益を作り出すのもふさわしくありません。だからただただ衆生の幸福を作り出すためにのみ、この手は使われるべきです。
このように、自分の中に、何かのためになるものを見つけたならば、その一つ一つを、自分ではなく、他者のためにのみ使えと、そのように確固とした決意をなせ、ということですね。
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