「楽しい孤独」
【本文】
肉体の本来の住居である墓場に赴いて、いつ私は、他人の骸骨と自己の腐敗する身とを比べてみるであろうか。
なぜなら、まさしく私のこの身は、その臭気のために山犬すらも近づかぬほどに、ひどく腐敗するであろうから。
この身体に生まれながらに存在し、一つとなっているとされるそれぞれの骨ですら、(死後には)ばらばらにならざるを得ない。まして愛する者であっても、他人である以上、なおさらである。
人はただ一人生まれ、ただ一人死する。他の者は誰も彼の苦難にあずからない。善行の妨害者となる愛しき者に、何の用があるか。
旅行者が途中で宿を取るように、迷いの生存の旅路(すなわち輪廻転生)をたどる者もまた、(それぞれの)生に宿を取る。
世の人々に悲しまれながら、(死骸となって)四人の人に運び去られぬ前に、彼はむしろ森に逃れ行くべきである。
そこで彼は、反抗と親愛を持つことがなく、ただ身体だけの所有者である。そして世間ではすでに死んでいるのと同然なので、死に際して悲しみを味わわない。
いかなる親近者も、悲しみによって彼を苦しめることはない。またいかなる者も、仏陀等に対する彼の正念をかき乱さない。
かようなわけで、心労を起こさしめず、喜びを生ぜしめ、すべての散乱を鎮める楽しい孤独を、私は常に求めねばならない。
全て他の思考を離れ、自己の心に思いを統一し、心をサマーディに入らしめるように、またそれを調伏するように、私は努力しよう。
【解説】
この辺も、現世からの出離の教えが淡々と続きますね。
このような教えは、現代の人には受け入れがたいかもしれません。しかしこのように外界から心を出離させ、自らの心の中心に精神集中を向けない限り、サマーディの入り口には入れないのも事実です。
この部分もあえて解説はしませんので、皆さんの思索の材料にしてください。
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