yoga school kailas

山のダルマ(15)

第二項目「本行」:見解・瞑想・行為についての誤認と疑念を根絶し、実際に修行に打ち込む方法

 まず第一に、リアリティとは何かという見解について述べよう。
 心の究極の本性そのもの、心のあらゆる分別から解放された本然の境地は、伝統的にリクパ(純粋なる実在)と呼ばれる。リクパは、今ここにありのままに存在している非二元の意識に、むき出しの裸の状態で現われる。それは言葉で表わせず、メタファー(隠喩)によって指し示すこともできない。それは輪廻の錯乱状態とも、ニルヴァーナの消滅した状態とも違う。それは生まれることも消滅することもない。解放されることもなければ、錯誤に陥ることもない。存在しているのでも、存在していないのでもない。無限でもなければ、どこからの方向に縛られているのでもない。

 つまり、「何か限定的なもの」、「状態」、「作用」として確立しているわけではないから、それは、ありのままに原初から純粋な、すべてに遍在する空性という独創的な顔をもっている。空性の何にも遮られることのない輝きと輪廻とニルヴァーナの無数の構成要素は、太陽とその光のように分けられるものではないから、空性は実際にあらゆるものとして経験することができ、それには、自発的に生じた純粋なる性質の宇宙の非二元の意識の本性が備わっている。ゆえに、「今ここに在る」という本然の境地としての、三つのブッダの身体からなる「真の自己」、光輝と空性の合一としての純粋なる実在という存在の認識は、想像を超えた大いなる完成(ゾクチェン)の見解と呼ばれる。

 偉大なる師パドマサンバヴァは「想像を超えたダルマカーヤは心の真の本性である」とおっしゃった。おお! クンツサンポの心を獲得できるなんて、なんという喜ばしいことであろうか!

 この見解は、大いなる完成(ゾクチェン)の六百四十万のタントラの真髄であり、ブッダの八万四千の教えのエッセンスである。これを超えるものは存在しない。そしてこの見解を持てば、最終的に、あらゆる段階のすべての疑念が晴れるはずである。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする