私
我々は苦しみや被害から自分を守りたいと思うが、一体何を守るというのだろうか? そこでいう「自分」とは何なのだろうか?
我々は幸福でありたい、得をしたい、皆から褒められたいなどと願うが、一体何が、だれが褒められるというのか? 誰を幸福にしたいのか? 誰が得をするのか?
我々は、損をした、被害を受けたなどと思うが、一体何が、だれが損をしたのか? 誰が被害を受けたのか? その主体は誰なのか?
例えば若者が若くして殺されたりしたとき、「彼は輝かしい未来を奪われた」などと言ったりするが、いったい奪われた「彼」とはだれなのか?
我々があいまいに言うところの「私」は結局どこにも存在しない。
ただ「ああいう人がいるみたいだよ」というような噂話の対象になるだけの、実在しない人物のように。
しかしこの実体なき、実在しない、あいまいな錯覚に過ぎない「私」が、終わりなきカルマの流れ、データの流れによって、様々に形を変えながら、輪廻してゆく。
しかしこの「私」意識がすべて錯覚だとしても、次の問題が出てくる。ではその「錯覚」をしているのは誰なのか笑?
そう、それが、その最後の最後に発見されるものこそが、「真我」あるいは「光り輝く心の本性」などと表現されるものだ。
それは本質的には対象がない唯一者なので、実際は「私」という表現は当てはまらない。「私」とは「他者」を前提とした概念だから。
よってそれを仏教は「無我」と表現した。ヨーガは「真我」と表現した。
そしてそれを真に悟るとまではいかなくても、ある程度理解しつつ、この錯覚の世界においてそれをフィードバックするならば、一つの思いが生まれる。つまり今まで思っていたあいまいな「私」は錯覚であり、いっさいに遍在する唯一の「真我」のみがあるという見解を保ち続けられるならば、「彼も私」「あれも私」であり、どこにも他者はいないということだ。ここにいるのは「肉体の内側の私」に過ぎず、外側には「外側の私」がいる。彼も、彼も、あの山も、あのビルも、あの空も、私である。
ここから大いなる慈悲、あるいは平等心が生まれる。
この世界そのものが私である。「狭い私」を捨て、その思いに没入しよう。
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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第11回(4)