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解説「ナーローの生涯」第8回(14)

◎一味

 で、次のところで、数日が過ぎてティローがやって来て、「仏陀の教えに従って出家したはずのお前が、女性と一緒に暮らしているとはどういうことだ!」と。「自分で自分を罰しなさい!」と。これはまさにティローのわけ分かんなさの代表的な部分だけどね(笑)。つまりティローが言ったのにね、ティローがナーローに「女性と暮らしなさい」と言ったのに、しばらくしてやって来て、「修行者のくせに女性と暮らしてるとは何事だ!」って言うわけだね。「自分を罰しなさい!」と。
 もちろんナーローは完全にティローに身を任せてるから、ここで反論はしない。普通だったら反論するよね? 普通だったら反論するっていうのは、もちろん言ってることが支離滅裂だから反論するっていうのもあるけども――いいですか――普通だったらですよ、これ何やられてるのかっていうと、グルよりも、あるいは教えよりも、普通は大事にしてしまいそうな配偶者っていう罠を与えられてるんです。つまりある意味、大いなる罠に一旦突き落とされてるんです。例えばそれがなければ普通だったら、どんなことがあっても師匠に従いますと。どんなことがあっても、わたしは何よりも解脱の方が大事ですっていう人がいるわけだけど。
 実際わたしはそういうパターンをよく見てきた。そういうパターンっていうのは、素晴らしい素質を持った修行者が、恋愛にはまり、性欲にはまり・・・・・・で、この間までは、「わたしはもう神しかいません」とか言ってたのが、「いや、わたしは彼女を幸せにするためだったら」とかね(笑)、そういうちょっとなんか――まあ別に相手の幸せを願うことはいいことだけど、ちょっと方向性が変わってきたかなって感じになってきて、で、さらに過ぎると、「なんかもうわたしは修行はどうでもよくなりました」と。まあそれがいつも言うように、スワーディシュターナの恐ろしさなんだけどね。このスワーディシュターナの世界にはまると、ものが見えなくなります。非常に動物的になってしまうっていうか。修行もできなくなる。
 で、つまりここでは何をいいたいのかっていうと、ティローはナーローをわざとスワーディシュターナの世界にはめさせてるんです。で、そこでこのような理不尽な態度にでてるんだね。で、普通だったら、皆さんだったらね、ここにはまっちゃったら多分反論すると思います。「え! 何言ってるんですか! あなたが言ったんじゃないですか!」と。それはなぜそう反論するかっていうと、言ってることが支離滅裂っていうのもあるんだけど、こっちの――つまりパートナーに対する執着が大きくなってるからなんです。だからこれを阻害する言葉っていうのに反論したくなるんです、普通はね。これがだから異性の怖さっていうか、スワーディシュターナの怖さだね。でもここに、この罠を与えられて、もうまんまとナーローははまってるんです。
 あのね、このナーローの物語の、皆さんに一つの読み方のポイントを言うと――ちょっとこれは高度な話になるけども――このような罠には実は、すんなりはまるタイプは早く修行が進みます。すんなりはまるタイプっていうのは――はまんないタイプもいるんだね。ちょっと知性があるっていうか、知性があるっていうよりも防御の習性があると、例えば師匠とかが何かやってきた場合に、「ん? ちょっとこれ、なんかあるかもな」って感じで、ちょっと防御を張って、あまりはまりすぎないようにするとかね。なんかそういうのがあると、うまく仕掛けができないんだね。でもナーローはここで存分にはまってるんです。存分に、師匠の命令だっていうことで、存分に配偶者との、妻との執着と恋愛とその裏側の嫌悪ね。愛憎の世界。あるいは性欲の世界にどっぷりはまってしまった。はまってしまいながら、師匠をとってるんです。これがだからここの一つの意味だね。
 はい、そこでその師匠が言ったのが、「自分で自分を罰しなさい!」と。ね。これもまたもうちょっとリアルにっていうか細かく言うと、ここでナーローは――これはもちろんティローの差し金だったわけだけど、差し金によって間違ったカルマヨーガをやってたがために――間違ったカルマヨーガをやると、これは皆さんに警告しておきますけども、この中でももしかするとそういうのに興味ある人がいるかもしれない。つまり性的なことをやって修行を進めたいっていう人がいるかもしれない。もし皆さんがそれをやった場合、おそらくそれはほとんど間違ったやり方になります。間違ったそういったことやってるとどうなるかっていうと――つまりもちろんさっきも言ったように、漏らしてたらもう最悪ですよ。漏らしてたらそれは単にエネルギーが、徳がどんどんなくなって、修行なんかできなくなります。じゃなくて、漏らさなかった場合。漏らしてないんだけど、でもそれが正しいやり方じゃなかった場合、単純に強まった性エネルギーがこの性器の辺り、スワーディシュターナの辺りに溜まるだけになります。それは別に悟りとかには還元されないっていうか。その場合その人はいつも――まあ男性の場合ね、勃起してるようになります。
 これはね、ただちょっとまた勘違いしないように言っておくけども、修行の初期段階――初期段階っていうかな、あるステージにおいては――ちょっと変な話だけどね、男性の場合、しょっちゅう勃起します。つまりエネルギーが強まってきたんだけど、ちょっとそれがスワーディシュターナに滞りがちな場合ね。なんかしょちゅう勃起するような時期があるんだね。これはね、別にいいことです。喜んでください。つまり生命力が強まってきたってことです。強まってきたけど、まだここから上がりきれてないんだなっていう段階だね。
 そうじゃなくて、悪い意味でスワーディシュターナとかに性エネルギーが集中しすぎた場合、その修行のあるステージっていう意味じゃなくて、悪い意味でいつも勃起してるようになります。で、それを「罰しろ!」って言われたんだね。で、そこでナーローはなんの躊躇もなく、石を持ってきて自分の性器を打った。そこであまりの痛みに気を失ったって書いてあるんだけど(笑)。
 で、そこでティローが与えた教えが、「苦痛と快楽は同一であることを知りなさい。すべてが一味である、心の鏡を見つめなさい」。――これは一つの究極の教えなわけだけども、すべては一味ですよ――よくさ、最近精神世界とかでね、「すべては一つですよ」「ワンネス」とか言うけども、それはまさに真実なんです。しかしこれを本当に悟るのは大変なことであってね、曖昧な世界じゃないからね。曖昧に、「はい、あなたもわたしも一つですよ。すべては一つなのです」――こういう世界ではない。つまりこの究極の経験をここでナーローはさせられてるんだね。つまり、身体の最高の肉体的エクスタシーであるセックス、これを徹底的に経験させられた後に、その同じ性器を使って――つまりそうですね、男性だったらね、もう最悪って思うかもしれない(笑)。男性だったら、性器を石で打つと。同じところを使って――つまりものすごく感覚が敏感な場所に対するものすごい苦しみを味わったと。つまりこの二つが――いいですか?――一つであると感じられるぐらいじゃなきゃ駄目なんです(笑)。で、逆にいうとこの境地にナーローはここでもう達したんです。つまりセックスしてたとしても、同じ性器を打ちのめされたとしても、その二つが一つであると。どっちかが苦であり、どっちかが楽であるなんてものはないっていう状態に、ナーローは達してたんだね――達してたっていうか、達したとういうか。
 このようにこの話っていうのは、非常に高度であると同時に、一般的にはわけが分からない。わけが分からないけども、そこからわれわれはエッセンスだけ汲み取ればいいと思います。皆さんはだからこういうことする必要はないからね。そういうことしても別にナーローの境地には達せられないと思う。だから一つの非常に極端な例としてこれを受け取って、われわれもその境地を目指せばいいと思うね。
 これのね、ミニマムなかたちのことっていうのは、よくチベットとかではやったりするっていうんだね。どういうことかっていうと、例えばですよ、自分の大好物の美味しい食べ物と、それからものすごいまずいもの、あるいはちょっと腐ったものとか、普通食べるものじゃないようなものを一緒に食べたりするんだね。で、それによって自分の中の美味しい・まずいっていう感覚を平等にしていくっていうか。これも一つの極端なやり方だけどね。それも別にやる必要はないんだけど。
 じゃなくてわれわれの場合は、さっきも言ったように、自然に祝福によって日々生じるいろんな出来事の中で、その苦楽の平等性を追求していけばいいと思う。つまりいろんな起きる、自分が習性によってね、「あ、これは嫌だ」とか「苦しい」って感じる現象も、あるいは「あ、これはいいな。楽しいな。こうなったらいいな」って思う現象も、すべて平等にしていく。あるいは細かく言えばいろいろあるけどね。褒められることも、けなされることも一つであると。この境地を目指すんだね。
 実際、幻身のヨーガの修行とかでそういう修行があるんだけど。どういう修行かっていうと、まず瞑想段階で、褒められること、そしてけなされること――これはわたしにとって一つであると。つまりどちらが来たとしても、褒められたからってわたしは心が喜ぶわけじゃないし、けなされたからって何か悲しんだりもしないと。どちらもわたしにとって一つなのである――っていうことを、徹底的にいろんな思索によって瞑想によって固めるんだね。で、完全に「よし! 固まった!」って思ったら、今度は人々の中に入っていくっていうんです。つまり自分をけなしそうな人、あるいは褒めそうな人とかの所に行って、「やあ!」っていって、いろいろ言われるんだね。で、そこで大体失敗するんです。やっぱり褒められちゃうと「おっ!」ってなっちゃうし(笑)、けなされるとちょっと落ち込むし(笑)。そこで「ああ、駄目だった」ってなって、また戻って瞑想で「同じである」ってやるんだね。これは一つの修行としてあるんだけど。
 だからみんなの場合はさ、そういうね、いつも唱える『バガヴァッド・ギーター』の詞章とかもそうだけど。あるいは『心の訓練』の教えとかもそういうのがいっぱい書いてあるけど、そういうかたちで教えによってまず苦楽や、あるいは「これがいい、これが悪い」っていう二元性をね、平等にしていく教えをしっかり学んで、で、その通りに日々の現象を当てはめて、自分の中でそのような――つまりね、われわれはこの苦楽に対する渇愛と嫌悪によって輪廻に結びつけられてるから。単純に言うとね。だからわれわれをこの輪廻に結びつけてる、「これは楽である。よって欲しい。渇愛、執着」――この流れと、「これは苦である。よってわたしは嫌なんだ。嫌悪」っていうこの流れね。この二つを断ち切らなきゃいけないんだね。この二つが平等であるっていう境地にまで辿り着かなきゃいけない。
 これはだからナーローの場合はちょっと非常に極端な形でこれが導かれたわけだけども、われわれはいろんな形で日々その仕掛けが、実際にもう今の段階でやってきているので、その中でわれわれの知性を使ってね、純粋な心と知性を使って、日々のいろんな現象をね、こういったすべての平等性、「すべてが一つの味である」ということを悟るための現象として使うように気をつけたらいいと思いますね。
 はい、で、ここで正式にナーローという名前が与えられましたっていうことですね。

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