yoga school kailas

「あらゆる怒りを否定する」

【本文】

 ある者は夢に百年を楽しんで目覚め、他の者はわずかに一時を楽しんで目覚める。
 しかし両者いずれも、目覚めたときには、楽しみは消えうせていないか。人は長命であっても短命であっても、死時においてこれと全く同様である。

 多くの所得を得、長く楽を享受しても、あたかも盗人に剥ぎ取られたように、手はむなしく、裸で私は去り行くであろう。

 所得によって生を維持しながら、罪悪を滅ぼし、かつ功徳をなすと言うならば--所得のために怒りを発して、功徳の消滅と罪悪が起こるではないか。

 私がそのために生を維持する目標(功徳の増大と罪悪の消滅)が消失するならば、ただ不浄な行ないをなすこの生存に、何の用があるか。

【解説】

 夢の中で、何十年もの人生を経験するような夢ってありますね。

 インドの逸話でも、こういう話があります。
 ある弟子が、師に対して、「マーヤーとは何ですか?」とたずねました。師は、その問いに答える前に、近くの村に行って水を一杯もらってきてくれ、と弟子に言いました。弟子は言いつけどおりに、近くの村に水をもらいにいきました。するとそこで、大変な美女を見、弟子は一目ぼれしてしまいました。
 師に頼まれた水のおつかいのことも忘れ、美女に夢中になった弟子は、彼女に結婚を申し込みました。二人は結婚し、子供も生まれ、大変幸せな家庭生活を送りました。
 そんなある日、突然、村を洪水が襲いました。男は何とか生き延びましたが、妻と子供は、水にさらわれて死んでしまいました。
 愛する妻と子供をいっぺんに失った大きな悲しみに耐えられず、男が泣き崩れていると、そこに師がやってきて言いました。
「水はどうした?」
 久しぶりに師の姿を見、弟子はやっと、師に頼まれていた一杯の水のおつかいを思い出しました。師は弟子に言いました。
「それがマーヤーだよ。」
 すべては師が作り出した幻影だったのです。そう、妻と子供の死も幻影だったどころか、妻も子供も、もともと存在しなかったのです。弟子は師の言いつけという大事なこともすっかり忘れ、喜びと悲しみのマーヤーに巻き込まれていたのでした。

 これと似たような話は、中国やインドなどでいろいろありますね。睡眠における夢が、目覚めてみると、長い夢も短い夢も同じように一瞬で終わったように感じます。そして人生というマーヤーも同じなのです。
 それは、所得がどれだけあったかとか、友人がどれだけいたかなどとは、全く関係ありません。我々は誰もが、この世にやってきたときと同じように、無一物で去らなければいけないのです。
 しかし唯一つ持っていける、いや、持っていかなければならないものが、善悪のカルマです。よってこの夢のような人生は、長生きするためにあるのでも、所得を増やすためにあるのでもなく、ただ悪いカルマを減らし、善いカルマを増やすために、そしてできるならば輪廻のマーヤーから解脱するためにこそ、使われるべきなのです。
 
 そして、修行のために生きなければいけないから所得にこだわる、というのもナンセンスだということですね。所得にこだわることによって執着と怒りが生じ、功徳の減少と悪業の増大が生じ、修行が遅れてしまうので、結局、本末転倒なのです。

【本文】

 ののしる者に対して、怒りを起こす。
 「彼は衆生を滅ぼすものだからである」と言うなら--彼が他人のそしりをなすとき、なぜ汝に(自分がののしられた場合と)同様の怒りが生じないか。

 他人に向けられた悪意であれば、汝はその悪意を許す。しかしその罵りなどが汝の煩悩などに抵触するときは、汝は彼を許さない。

【解説】

 ここもまた、エゴの言い訳を智慧の眼で論破していますね。
 自分をののしってくる者に対して、
「私は自分がののしられたから怒るのではないのだ。彼のような存在は衆生にとって害となるから怒るのだ」
という言い訳を、エゴはしがちです。
 しかし実際、自分と関係ない他者が彼にののしられたときには、そのときはそこまで心が動かないかもしれません。結局どんな奇麗事を言っても、エゴは自分のために、自分を守るために怒りを発しているわけですね。それをしっかりと自己分析しなければなりません。
 

【本文】

 また、仏像、ストゥーパ、正法を、破壊し誹謗する人々があっても、それに対して私が怒るのは、ふさわしくない。それによってブッダ等は、なんらの災厄を受けないから。

 師匠、血族、および愛しい者等に対して、害を加える者がある場合には、前述のように、それを条件から起こったことと観て、怒りを除くべきである。

【解説】

 仏教という世界的大宗教の中で、正統的にかなり重要視されているこの入菩提行論という論書の中で、このような宣言がなされているのは、ある意味世界宗教史上、大変驚くべきことではないでしょうか。
 なぜなら歴史を見ると、世界において、たとえば聖地をめぐり、聖像をめぐり、あるいは誹謗中傷をしたとかされたとかいうことをめぐり、宗教間で多くの怒りと罵りと闘争が繰り返されてきたからです。
 しかしシャーンティデーヴァは、はっきりと言います。誰が仏像やその他聖なる物を破壊しようとも、誰が真理の教えを誹謗しようとも、そもそもブッダも、真理の教えも、なんらの被害も受けないんですよ、仏陀や正法というものは、そんなもので傷つけられるようなものではないんですよ、だからそこで怒りを発するのは、菩薩としてふさわしくないですよ、ということですね。

 そして、自分に起こった苦しみが、複雑なカルマの因と条件の絡み合いによって成立した実体のないものであるのと同様に、仏像や真理の教えに対して、あるいは自分の師や、家族や、愛する者たちに対して害を加える者があっても、彼らもまた、カルマの因と条件に駆られてそのように動いているに過ぎないと考えて、その加害者への怒りを除くべきです。

 といってももちろん、何の措置もとらないでいいというわけではありません。自分のできることで、それらへの被害を食い止めることができたり、あるいは加害者の心を改善させることができるなら、やるべきでしょう。しかしその場合も、心に怒りを持ってはいけないということですね。そのような悪業をなさなければならないカルマの輪の中にいる相手に対して慈悲を持ち、自分の置かれた条件の中で、ただ自分のなせる最善の行為を努力すべきでしょう。

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