カルマや心を浄化するために
わたしたちは、カルマや心を浄化するために、この肉体を得た。
心の世界だけでもそれらは浄化できないことはないのだが、それはとても難しい。
肉体を持ち、固定的なマーヤーに縛られた中で、正しい道を選択していくことで、ものすごいスピードでカルマや心は浄化されていく。
もちろん、逆にものすごいスピードでカルマや心を汚してしまう危険性とも背中合わせではあるのだが。
では、なぜ心やカルマを浄化しなければならないのか?
段階的な意味としては、それが幸福への道だからである。
多くの人が勘違いしているが、現世的な意味においても、例えばお金や恋人や名誉等の外的要素が幸福の条件ではない。それらは、自分が作り出した幸福のイメージにおける一瞬の充足感は与えてくれるが、本質的には幸不幸とは関係がない。幸不幸は結局、心が感じるものであるから。
端的に言えば、カルマや心がきれいであること=幸福であり、カルマや心がけがれていること=苦しみなのである。
幸福になりたかったら、心やカルマを浄化するしかない。
そして最終的な意味としては、心やカルマが浄化されることによって、我々は心やカルマを超越し、「私」というものが幻影だったということを悟り、「私」を超越した真実を悟るからである。
それはヨーガでは真我、ヴェーダーンタではブラフマン、バクティヨーガではバガヴァーン、そして仏教では仏性、心の本性、無住処ニルヴァーナなどと呼ばれるものである。
それはちょうど、湖が透明になり切らないと、湖底にある宝物が見えないようなものだ。
そしてさらにいうならば、菩薩の道やバクティヨーガの道の場合、そのような心の本性に到達して終わりではなく、主の道具として衆生の役に立てるように、より素晴らしい心やカルマを身につけていかなければならない。
よってあなたが目指しているのがこの世の幸福であるにせよ、解脱や悟りであるにせよ、菩薩道やバクタの道であるにせよ、この肉体を使って常に正しい道を選択し続けることで、カルマと心を浄化し続けなければならないのである。
そしてそのための肉体はどの肉体でもよいというわけではなく、「人間の肉体」でなければならず、さらにそこに正しい真理の教えや、縁ある正しい師との出会いがなければならない。
よってそれらを得ているならば、それは我々のこの心が無数のカルパにおいて待ちに待った、千載一遇のチャンスであると考え、正しい生き方に邁進しなければならない。
その正しさの基準はもちろんヨーガや仏教の聖典などの教えを学び、あるいは師がいる人は師の教えや指示に従うべきである。
そしてその中でも最もキーポイントとなる教えは、「帰依」と「四無量心」である。