ニュとマルパ
チベット仏教カギュ派の開祖であるマルパは、若いころ、仏教の真髄の教えを求めてチベットからインドに渡りますが、その旅の途中で出会ったのがニュという男でした。
ニュもマルパと同様に教えを求めて留学のためにインドへ向かうところでしたが、その動機は純粋な求道心というよりも、教えによって有名になり富を稼ぎたいという野心があったようです。
二人は当初の予定では、インド一の僧院であり仏教研究施設であるナーランダー大学に留学する予定でした。西遊記で有名な中国の玄奘三蔵法師が留学したのもこの大学です。もっとも、玄奘三蔵法師が留学した時代は原始仏教と共に大乗仏教の研究・実践が盛んにおこなわれていましたが、マルパの時代はそれらに加えて密教の研究・実践が盛んにおこなわれていました。
しかしマルパは、当初の予定とは違う道を行くことになります。過去世からの縁のある密教行者ナーローの存在を知り、彼の弟子となる道を選ぶのです。
ナーローはかつてはナーランダーの最高の学長として誉れ高き人物でしたが、その地位を捨てて、密教行者ティローの弟子となり、十数年の激しい修行の後に、偉大な成就を果たしました。世俗にとらわれない真理の観点からは密教行者の理想ともされる人物ですが、世俗的・社会的観点からは、仏教学者や僧侶としての出世コースからドロップアウトした人物とみなされていました。したがって、ナーローと何の縁もなかったニュはナーローのもとへ行くマルパをあざけり、自分は当初の予定通りナーランダー大学へと留学したのでした。
マルパは修行の天才だったらしく、ナーローが授けてくれた教えや修行を次々と理解・成就していきました。そしてその過程において、少なからぬ縁のあるニュがたびたび重要なキーパーソンとして登場してきます。
たとえばナーローはマルパに、へーヴァジュラという密教の秘法を伝授しました。マルパはその教えを一年間かけて十分に学び、修行し、自分のものにしたのでした。
ちょうどそのころ、マルパは町で偶然、久しぶりにニュに出会いました。お互いの勉学について情報交換すると、二人ともへーヴァジュラを学んでいることが分かりました。そこで二人は、へーヴァジュラについてのお互いの理解や成就を比較し合いました。すると、圧倒的にマルパのほうが高い理解・成就をしているということがわかりました。
勝負に負けたニュは、悔し紛れに、
「へーヴァジュラなどもう古い。これからの時代に必要なのは、グヒャサマージャだ」
と言いました。
マルパはまだグヒャサマージャについては何も学んでいなかったので、何も言い返すことができず、ナーローのもとへ戻ると、ナーローに、グヒャサマージャを教えてくれるように懇願しました。それに対してナーローは、自分ではそれを教えずに、ジュニャーナガルバという聖者のもとに行ってグヒャサマージャを学んでくるように指示しました。
マルパは言われたとおりにジュニャーナガルバのもとで十分にグヒャサマージャを学び、自分のものとしました。
その後、再びマルパはニュと偶然出会い、前回と同じように、お互いの修行の進度を比べました。すると今回も、グヒャサマージャについてマルパのほうがはるかに高い理解と成就をしていることがわかりました。
ニュはまた悔し紛れに言いました。
「グヒャサマージャなどもう古い。これから必要なのはマハーマーヤーだ。」
前回と同じく、何も言い返せなかったマルパはナーローのもとへ帰り、マハーマーヤーの教えを懇願しました。ナーローは今回もそれを自分で教えることなく、クックリーパという聖者のもとで学んでくるように指示しました。
さて、ナーローは後に自分でもマルパにグヒャサマージャやマハーマーヤーの教えを与えるのですが、なぜ最初からそうせずに、マルパを他の聖者のもとへ行かせたのでしょうか?
まあこれらの聖者たちはナーローの弟子ともいえる人たちだったので、ナーロー・グループであることは間違いないのですが、なぜ根本グルであるナーローが自ら教える前に最初にこれらの聖者のもとへマルパを送ったのかというと、おそらく、滅びゆこうとしていたインド密教の正統な流れのすべてを、マルパに注ぎ込もうとしていたのかもしれません。
というのは、ナーローは完璧な成就を果たした大聖者でありマルパの根本グルですが、それぞれの教えにはそれぞれの正統な大家が存在するのです。ジュニャーナガルバやクックリーパは、まさにグヒャサマージャやマハーマーヤーの大家でした。それらのインド密教の様々な教えを正統から完璧に学び、体得し、チベットへ持ち帰る使命がマルパにはあったのかもしれません。
実際、この後しばらくしてイスラム教の侵攻その他の理由によってインド仏教は滅びました。原始仏教と大乗仏教に関してはそれ以前に東南アジア、中国、日本などの国に伝わっていましたが、密教、特に後期密教に関しては、時代のタイミングによってそれらの国には伝わりませんでした。まさにこの当時の、マルパをはじめとしたチベットからの探究者の存在によって、かろうじてインドの後期密教は、地上から姿を消すことなく、チベットにのみ残ることになったのです。
そのような、インドでは姿を消す運命にあったインド後期密教の正統な流れをすべて受け継ぎ、チベットで花開かせるという使命が、マルパにはあったのかもしれません。
さて、このようにしてマルパは12年かけて、ナーロー、そしてナーローと関係のある聖者たちから、インド仏教、特にインド密教の真髄を徹底的にたたき込まれ、自分でもそれを徹底的に修習し、身につけていきました。
そして12年が経過したころ、ついにマルパはチベットへと帰ることになりました。そして行きと同様、帰り道もマルパはニュと共に旅をすることになりました。
この旅の途中、マルパが自分よりも博学で偉大な成就をしていたことに嫉妬したニュは、荷物持ちにお金を渡して、事故に見せかけて、マルパが持ち帰った貴重な経典を、ガンガーに投げ捨てさせたのでした。
マルパはこれがニュのしわざだと気づき、問い詰めましたが、ニュはとぼけました。しかし荷物持ちがすべてを白状しました。
ニュは、チベットに帰ったら自分が持ち帰った経典を写させてあげるから、この件は皆に広めないでほしいとマルパに言いました。
もともとマルパは小さいころから癇癪持ちで大変怒りっぽい性格でしたが、このようなひどいことをされたにもかかわらず、このときのマルパの心は平静でした。それはマルパがすでにある種の悟りを開いていたと同時に、河に落とされた経典の内容はすべて体得していたので、経典がなくてもあまり問題なかったからです。よって、経典を写させてやるというニュの申し出も断りました。
しかしチベットに帰った後、マルパは、やはり教えを広めるためには経典も必要だと思い直し、経典を写させてもらうためにニュのもとへと行きました。しかしニュは、約束を翻し、経典を写させることを拒否しました。マルパが自分よりも有名になって成功することをおそれていたからです。
そこでマルパは、「もう一度インドに行かなければいけない」と考え、お金を貯め直して、再びインドへと旅立ちました。そしてナーローや他の聖者たちのもとで、以前学んだ教えを徹底的に学び直すと同時に、まだ受けていなかった新しい教えも受け、貴重な経典を多く持って、6年後にチベットへと帰りました。そしてマルパはチベットでも有数の偉大なる翻訳者にして大成就者として有名になり、ミラレーパをはじめとする多くの優れた弟子たちが集まってきたのでした。
さて、この物語に出てくるニュという男は、大変な悪役というか、性根の腐ったどうしようもない男という感じですね笑。
しかし、彼の性質はそのようだったとしても、現実的にマルパの人生に彼が与えた影響という点から見ると、どうでしょうか?
もう一度まとめてみましょう。
マルパが最初にグルから教わった教えを達成して満足していたとき、ニュは嫉妬心から、「そのような教えは古い! これからはこの教えだ!」とうそぶきます。マルパはそれによって闘争心をあおられ、さらなる教えをグルに乞い求めます。このようなことが何度か繰り返されます。つまりマルパは多くの教えを受け継いでいかなければいけない使命があったわけですが、精神的にそれら多くの教えを強く乞い求める原動力の一端を、ニュは担っていたわけです。
そして帰り道でニュが河にマルパの経典を捨てさせたとき、マルパはそのような状況においても心が平静であったことによって自分の悟りを確認し、また、経典や師の教えの内容はすべて自分の心が体得していたという確信を得ました。これについては後に他の聖者からも称賛されました。そしてこのような境地の経験および確信も、ニュが経典を河に捨てたから生じたともいえます。
そしてチベットに帰った後、ニュは約束を反故にして、マルパに経典を写させることを拒否します。これによってマルパは再びインドに行かざるを得なくなります。そして再びインドに行ったことによって、マルパは自分の成就をさらに堅固なものとして確定して大成就者となり、そして前回は受けていなかった新しい教えまで受け、それらをチベットに持ち帰ることができたのです。
つまり結果だけ見るならば、まさにニュはマルパの運命の導き手であり、要所要所でマルパを定められた道へと導くキーマン、補助者であったともいえるのです。
もちろんこれは、マルパが誠実で熱心な求道者であったからこそのことでもあります。
みなさんの周りにも「ニュ」がいるかもしれません笑。それは皆さんから見て、とんでもなくひどい人物、あるいは邪魔者に見えるかもしれません笑。
しかし皆さんが人生のすべてを、魂の進化、真理の探究、理想の達成のためにあると考えていたならば、そのひどい人物はまさに「ニュ」となり、結果的にあなたの人生の導き手、キーパーソン、神の使いとなるでしょう。
逆に人生を単にエゴを表現する場として考えていたならば、そしてその相手を憎んだり非難することだけに時間を費やしていたならば、そのひどい人はただのひどい人で終わり笑、自分も相手も共に堕落することになるでしょう。
あなたのニュがニュであれるように笑、皆さんもマルパのように、誠実で熱心な求道者であり続けてください。