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解説・ナーローの生涯①(4)


◎ダーキニーのいざない

【本文】

 あるとき、アバヤキールティが本を読んでいると、ぞっとするような人影がさしました。アバヤキールティが振り向くと、そこには一人の醜い老婆が立っていました。

 老婆はアバヤキールティに聞きました。
「何を読んでいるんだい?」

 アバヤキールティが、これこれについて勉強していると答えると、老婆は重ねて聞きました。
「あんたはその本の言葉を理解しているのかい? それとも意味を理解しているのかい?」

「言葉です。」
 アバヤキールティがそう答えると、老婆は杖を振り回して、飛び上がって喜びました。
 それを見たアバヤキールティは、もっと喜ばせてあげようと思い、
「私はまた、意味も理解しています」
と付け加えました。すると老婆はしゅんとして、悲しい顔で落胆してしまいました。

「私が『言葉を理解しています』と答えると、あなたはあんなに喜んだのに、『意味も理解しています』と付け加えると、あなたは落胆してしまいました。いったいどうしてですか?」
 アバヤキールティがたずねると、老婆は答えました。
「私は、あんたのような偉い学者が、『言葉面しか理解していない』と正直に答えてくれたんで、嬉しく思ったんだよ。でもあんたが『意味も理解している』と嘘をついたんで、悲しくなったのさ」
「では、誰が『意味』を理解しているというのですか?」
「私の兄さ。」
「どんな方であっても、その方に合わせてください。」
「自分で探しに行きな。」
 そう言うと、老婆は消えてしまいました。

 この老婆は、実はダーキニーの化身でした。このダーキニーの導きにより、ナーロー(=アバヤキールティ。ここからはナーローと呼ぶことにします)は、みなの反対を押し切って、僧院長の地位を辞して僧院を出て、自らに真理の意味を明かしてくれる師を探す旅に出たのでした。

 ここからナーローの運命が大きく転換するわけですね。
 はい、まず老婆が現われると。この老婆は実際はダーキニーだったんだけども、老婆が現われて、こういった会話がなされるわけですね。
 で、この老婆が、つまりダーキニーである老婆が、ナーローの運命の転換を誘(いざな)うキーになるわけですが――ちょっとこの辺は説明しづらいんですが、ダーキニーっていうのはいろんな形で現われる。で、大体女性です。で、ダーキニーっていうのは、そうですね、分かりやすく――つまり天界とかにダーキニーっていう存在がいて、実際その化身がわれわれの前に現われて何かをやるっていうパターンもあるんだけど、じゃなくて、みなさんの周りの人が何らかの形でダーキニーの役割を担うっていう場合もあります。 で、ここでいうダーキニーって、もう一回言うけども、女性です、まず。女性であって――よくさ、ダーキニーっていうと美しい女神っていうイメージを抱いてる人もいるかもしれないけど、もともとダーキニーの由来をいうと、あれね、カーリーの部下なんです。ヒンドゥー教のカーリーの部下をダーキニーっていうんだね。カーリーってみんな知ってるよね。生首持って(笑)、狂った形相で描かれるインドの神様ですが、つまりその部下なので、もともと狂ったような怒り狂った女神なんです。で、ダーキニーっていうのはつまり、もう一回言うけど、ほんわかとね、例えばT君にダーキニーがやってきて、「ああ、T様!」とかこう(笑)、そういう話じゃない(笑)。じゃなくて、われわれのエゴをぐじゃぐじゃに打ち砕いてくれる、怖い女(笑)。これがダーキニーなんです。
 で、それは、その人が密教的なそういう縁を持ってると、もう一回言うけども、ダーキニーの化身が実際現われる場合もあるだろうけど、じゃなくてみなさんの例えば奥さんがいる人は奥さん、あるいはお母さんとか、あるいは隣人であるかもしれない。もちろんそれは自分では「え? この人がダーキニーなわけないだろ」って感じがするんだけど、自分で全く気づかないかたちで、ある種のダーキニー性を帯びた女性が、われわれの人生に現われるんだね。
 で、それはその最中は全く気づかないこともある。つまり後から振り返るとそうだったのかなっていう場合もあるんだね。
 ここで何回か言ってるけど、われわれの中でよくダーキニーとか呼ばれる人がいるんだけど(笑)、それは昔、湘南台道場がまだカーサっていうね、マンションの一室にあったときの隣の人なんだけどね(笑)。で、この人は、つまり文句を――もともとMさんとかHさんとかの昔の知り合いっていうか、昔の隣人だった人なんだけど、まあ面と向かっては言わないんだけど、われわれがヨーガ教室やってる時代に隣に住んでてね、いろいろケチをつけてくるわけだね(笑)。言ってみればね。お香が臭いとか(笑)、うるさいとか、ここでヨーガ教室やっちゃいけないんだとか、何かいろいろ言ってくる。で、それをわれわれはある程度かわしてたんだけど、あるとき本当にその圧力が強くなってきて、で、そこでわれわれは、もちろん闘うこともできたんだけど――つまりいろいろこっちも論理的に言ってね、闘うこともできたんだけど、まあそのときはそれを受け入れたわけですね。じゃあ、まあちょっと場所を変える時期なのかなと思って、ちょっと場所を探したんだね。で、実際はなかなかそのとき見つからなくて、で、いったんちょっと諦めたっていうかちょっとおいといて、で、しばらくして何となく直観的にパッてまた見てみたんだね。ネットで何か物件出てないかなって見たら、ちょうど今の湘南台教室が――ちょっとあれリアルに話をすると、あそこもともと十二万円の物件だったらしいんですが、誰も借りないので(笑)、九万円に落ちたんですね。で、九万円に落ちて出した瞬間、瞬間っていうかその日に、わたしが偶然見たんだね。「お、これ安い」と思って、で、そこに決まったんですね。で、今では一番人気のある教室だと。
 で、それもなんか今考えると、隣の人がガミガミ言ってくれなかったら(笑)、あの教室はなかったわけだね。
 それはまあちょっと一つの例だけども。いろんな形で女性がね――こういうこと言うと、ここにいる女性は怒るかもしれないけど、女性の持つ陰険さであるとか、あるいは気が強いところとか、短気なところとか、あるいはエゴイスティックなところであるとか、いろんなそういう、普通はわれわれにとってそれは嫌だと、それはちょっと傷つけられるっていう部分がいろいろあるわけだけど、そういう部分によってわれわれの修行を進めてくれる存在っていうのが、修行者の人生には登場するんだね、不思議なことに。
 これは何かね、わたし今こういう話してるけども、わたしも論理的には説明できない話なんです。わたし個人の人生とか、いろんな人を見てると、まさにそういう感じなんだね。まさにダーキニーといわれる存在がいろんな形で人生に現われてくる。で、その人をそういうちょっと厳しいやり方で引っ張ってくれるんだね。
 ただナーローのこの話の場合は、まさにダーキニーの化身です。化身が老婆の姿をして現われて、そういう導きをするわけですね。
 で、この話を見ると分かるけど、ナーローっていうのはまず本当に傲慢さがない。つまり言ってみればインド一の大学者っていう地位に昇り詰めてるんですよ。それに全く満足してないんだね。で、傲慢さがないっていうのと、もちろんもう一つは求道心がやっぱりあるんだね。つまり道を求める気持ちが非常に強い。普通だったら、インドで一番尊敬される仏教の先生になったわけだから、何かお婆さんがやってきて「お前は意味を理解していない」とか言われたら(笑)、「何言ってんだ、お前は! お前に言われたくない」ってなりそうだけど(笑)、素直にそれを受け入れる。で、そのお婆さんが「うちの兄が……」――普通だったらさ、「何言ってんの?」ってなるよね(笑)。
 例えば日本の仏教博士とかね、あるいは仏教大学の最高の地位にいる人のところにお婆さんがこうやってきて、「お前は意味を理解していない」「誰が理解しているんですか?」「うちの兄ちゃんだ」とか言ったら(笑)、「何言ってんだ、お前は」と。「ちょっとつまみ出せ」ってなりそうだけど(笑)、でもナーローは、まあ謙虚だったっていうのもあるけど、おそらく直観的に、「あ、これはただのお婆さんではない」と多分感じたんだとは思うけどね。それによって、本当に気持ちいいくらいスパッとその地位を捨てるんだね。最高のインド一の地位を捨てると。
 これはもちろん多くの他の人には理解できなかった。だからみんなで止めるわけですね。止めてもそれを振り切って行ったと。
 この後のね、マルパ、マルパの生涯でも面白いんだけど、マルパが最初にインドに来たときね、やっぱり縁があったから、インドに行く前に――マルパっていうのはチベット人だから、インドに行く前に、そのときの考えとして、チベットって雪の国で非常に寒いんで、高地で。で、インドは逆に超熱いんで、で、いきなりチベットからインドに行くと体を壊してしまうっていう考え方があった。だからいったん中途のネパールで体を慣らすっていうかな、そういう考えがあったらしくて、で、マルパも――「マルパの生涯」でこれは出てきますが――マルパと途中で知り合ったニュ――ちょっと変な名前なんだけど――ニュっていう名前の修行者と一緒に、ネパールに行くんだね。そこでマルパはあるナーローパの弟子と知り合うんですね。で、そのナーローパの弟子がマルパに、ナーローパのことを薦めるんだね。本当の意味で君が、つまり単純に学問じゃなくて本当に悟りを得たいんだったらナーローパを訪ねろと、言われるんだね。で、それを聞いたのでマルパはインドに行ってナーローパを訪ねようとするんだけど、でも同行者のニュはそれを拒否するんだね。一緒に行こうって言うんだけど、「いや、おれは行かない」と。「そのナーローってやつは、せっかくインド一の大学の僧院長まで昇り詰めたくせに全部それを捨てて、訳の分からない密教行者のティローパのとこに行っちゃった」と。「あんなやつのとこに行ってもしょうがない」って言って、ニュは当時有名だった仏教大学の先生とかのところに行くんだね。
 だから当時から一般的な認識は多分そういう感じだった。ナーローは本当に馬鹿なやつだと。インド一の大学者になったのに全部捨てちゃったと。で、訳の分からない密教行者のとこに行ってしまったと。
 で、もちろんナーローとしてはそうではなくて、おそらく師匠との縁、それから真理を直観的に見抜く智慧があったんだろうね。

◎観念の完全な放棄

 それからね、このナーローの生涯全体を通して言えるんだけど、特にこの場面でわれわれが学ばなきゃいけないのは、これはちょっと厳しい話になるけども、特にこのマハームドラー系統の道において、われわれが本当の意味で修行を達成しようとする、あるいは悟りを得るためのポイントがあります。その一つはまさにこの部分なんだけど、つまり――特にこのマハームドラーの修行っていうのは師匠と弟子の関係ってすごく強いんですが、その自分と縁のある師匠の前においてですよ、観念の完全な放棄、これがやっぱり一番大事なんだね。観念の完全な放棄っていうのは、教えも含めてです。教えも含めて。このナーローがそうだったように、今まで何十年もかけて積み上げてきた自分の知識、ね、これを偉大な師の前においては、全くすべて放棄するんだね。
 これはここから先のナーローとティローの関わり合いにおいてもそれは繰り返されるんですが、つまりちょっと先のことを言ってしまうと、ティローパ、師匠のティローっていう人は、ナーローが全く理解不能なことをいっぱいやってくるわけですね。そこで、言ってみればナーローの中で選択が生じるわけです。選択っていうのは、今まで学んできた教えではこうのはずだと。でも師匠はその逆を要求してくるんです。さあ、どうしますか? っていう問題なんだね。
 これはね、はっきり言うとみなさん自身が考えればいい問題。っていうのはね、今、ダライ・ラマ法王を始めとして一般的な例えばチベット仏教とかの本を見ると、このナーローの教えとは反対のことが書かれています。反対のことってどういうことかっていうと――いいですか――師匠は敬わなきゃいけないが、しかし、師匠の言葉とか師匠の指示と自分が理解してる教えが、もし反対だったら、教えを取れっていってるんです。それは一般的にそういわれてる。それは、もちろんこういったナーローの話って密教の話なので、一般的に建前上そう言ってるのかもしれないし、あるいはそうじゃなくて、そういう理解の人が多いのかもしれない。だからそれはみなさん自身が考えればいいんですが、少なくともこのナーローの歩んだ道っていうのはそうじゃなくて、いつも言ってるように、教えというのはあくまでも観念でしかない。必要なんだけどね。必要な観念なんだけど、つまり今までの間違ったわれわれの観念を矯正するために必要ではあるんだが、答えそのものではないんだね。つまり悟りそのものではない。よって、ある程度自分を立て直すために教えは必要だけども、最後の最後の場面っていうか、本当に悟りを得たいって思ったら、自分にいかにそれが偉大な積み上げがあったとしても、すべて放棄しなきゃいけないんだね。
 で、これはまさにナーローパの生涯っていうのは、その一番いい例ですね。つまり誰も真似のできないような最高の仏教的知識を自分のものにして、最高の学者になりながら、それを端から見たら本当に訳の分からない放浪してるある一人の密教の師のもとに行くために、全部放棄してるわけだね。これはわたしが求めてる本質ではないと。これはなかなか厳しい話ではあるよね。
 そして、その自分の地位も、名誉も、あるいは知識もすべて捨てて、自分の縁のある師匠ティローを探しに行くわけですね。

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