「常に笑顔を保て」
【本文】
かように己自身の支配者は、常に笑顔を保てよ。眉のひそみを捨て去れよ。世の人々の親友として、はじめに人に会釈の言葉を述べよ。
荒々しく声を出したりして椅子やベッドなどを突き倒したり、扉を叩いたりゆすったりしてはならない。いつも騒々しさを好まぬ者であれ。
鷺と猫と盗賊とは、音を立てず、目立たぬように行動して、目的を達成する。修行者も常にそのように行動せよ。
【解説】
「かように」というのは前までの流れを受けているわけですが、自分の心も、そして肉体も、自分自身で支配しなければならないわけです。つまり自分自身および他者に最も利益がある行動・言葉・心の働きを為すように、心身を調御(ヨーガ)するわけですね。
そしてここからまた少し具体的な実践内容が出てきます。
まず常に笑顔を保て、眉のひそみを捨てろ、とありますね。常に笑顔でいることは大事ですね。心に苦しみや悲しみがあっても、笑顔を保つなら、自分も周りも友好的で明るくなります。
親友に対しては--しかも尊敬の念も含んだ親友に対しては、私たちは常に、友好的に挨拶を交わすでしょう。すべての人々に対して、そのような、尊敬すべき親友に対するように、友好的な挨拶を交わしなさい、と言っていますね。
そして次に、まるで鷺や猫や盗賊のように、目立たぬように行動して、修行者の目的を達成せよ、とありますね。
これはどういう意味でしょうか? 修行者の目的とは、自分と他者を解脱・悟りといった真の幸福へと導くことですね。そこにおいて、自分はこんなに修行しているんだとアピールするとか、人々のためにこんな活動をしてますよとか必要以上にアピールせず、逆にわざと目立たぬようにして、自己と他者の真の幸福を密かに達成しなさい、ということですね。
【本文】
他人の指導に巧みな人、乞われないのに恩恵を与える人--かような人々の言葉を、頭をたれて遵奉せよ。常に、すべての者の弟子であれよ。
【解説】
まず、もし、巧みに我々を修行の進歩に導いてくれる人や、乞われなくても人々に様々な意味での恩恵を与えるような人に出会ったら、謙虚になって、頭をたれてその人の言葉を聴き、実行せよ、とありますね。
そして次に、「すべての者の弟子であれよ」という言葉があります。私はこの言葉が好きですね。この宇宙にいるすべての人々、魂は、自分の師匠なんだと。だから他者との交流において、この人から何を学べるか、この人のやり取りにおいて、何を自分は学べるか、あるいは、どういう意味で自分の修行が進むか、ということを考えなければなりません。
たとえば自分を馬鹿にする人が現われたら、この人は私の慢心を試しているんだ、慢心に気づかせてくれる師だ、と考えるべきです。
あるいはいろいろな苦しみを与える人が現われても、それはちょうどマルパがミラレーパにしたように、私の悪いカルマを落としてくれる、すばらしい師だと考えればいいですね。
あるいは逆に、何かすばらしい行為を行なったり、自分にないすばらしい部分を持っている人がいたら、それももちろん、自分の手本となってくれる師だ、と考えればいいわけですね。
つまりその相手が実際どういう人で、どんなことを考えているかは関係なく、こちら側の心一つで、あらゆる人との関係を、自分の修行を進めるために活用することができるのです。だから「すべての者の弟子」なのです。そして実際に精神的にも、謙虚になって、そのような思いで、他者を尊重しなくてはなりません。
【本文】
すべて人を褒める言葉に対しては、賛成の言葉を発せよ。功徳を為す者を見ては、褒め言葉をもって鼓舞せよ。
他人の徳をたたえるのは、その人のいないときにせよ。また(他人の徳をその人の前で誰かがたたえる場合には)喜んで唱和せよ。さらに、自己の長所を人が説くときは、それをただ徳に対する認識(敬意)として観想せよ。
【解説】
ここは称賛ということに関して述べられています。
誰かが人を称賛していたら、同様に自分も称賛しなさい、ということですね。
そして実際に、功徳を積む者や、修行に励む者、正しく生きようとしている者がいれば、称賛によって励まし、もっとその人がそのような善に励むように鼓舞してあげなさい、ということですね。
誰かが誰かを褒め称えているときは、同意して共に称賛せよ。しかし自分が誰かの徳を称賛したくなったときは、その人のいないときにせよ、とありますね。これはどういうことでしょうか。
これは利害関係を入り込ませないための処置ではないかと思いますね。つまりその人に良く思われたいためとか、何か後の利益を期待して人を褒める場合があるので、そうではなくて、その本人がいないときに称賛しなさい、ということですね。
ただしもちろん、前述のように、相手を励まし、鼓舞するという目的のときは、その人自身に称賛の言葉を述べても良いようですね。
そして、最後がまた大事なところですが、自分が褒められたとき。このときはそれをただ「徳に対する認識(敬意)」として受け取れ、とあります。
これはつまり、たとえば自分が真理によって人の悩みを安らがせてあげたとします。そこで他者に、「あなたは真理によって人に幸福を与えて、すばらしいですね」と称賛されたとき、それは、「自分」が称賛されているのではなくて、そのように人に幸福を与える「真理の教え」とか、あるいはそのような真理によって人を幸福にするという功徳そのものが称賛されているのであって、「自分」が称賛されているわけではないのだ、という認識が必要なんですね。
逆に、「いや、徳が減るから称賛しないでくれ」なんていう頑なな態度も駄目です(笑)。もちろん、「いやー、俺ってすごいでしょう」なんていう慢心も駄目です(笑)。
褒められたら、ニコニコと笑い、心の中で、「これは自分が褒められているのではなく、真理そのもの、あるいは徳そのものが称賛されているのだ。それはすばらしいことだ」と考えることです。そうしてそのように素直に人を称賛できる相手のことも、心の中で称賛すると良いでしょう。