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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第七回(1)

20110709

解説『実写ドラマ・ラーマーヤナ 第11話』&
解説『スートラ・サムッチャヤ』第七回

 またちょっとだけ『ラーマーヤナ』の話をすると、今回はまあ、あまり大きな出来事はなくね、ちょっと中間的な話ですね。いわゆる苦行を行なう、チトラクータという森に行くまでの話だね。
 だからまあメインとなるものはないんですけども、まあ一つは最初の方でね、三人が旅をしていて、そこで歌が流れて、その歌の内容としてね、これは前にも話したけども、この『ラーマーヤナ』の――あの、『ラーマーヤナ』っていうのは、『ラーマ―ヤナ』とかあるいは『マハーバーラタ』、こういったいわゆる叙事詩、インドの叙事詩といわれるやつは、まあいわゆる物語なわけですけども、これはもちろん実際には、実際にあったっていうかな、本当に大昔にあった話だとは思うんだけども、それだけではなくて、当然多くの象徴というか、多くの秘儀が隠されてるんだね。
 もちろんそれはいろんな説があって、いろんな見方があるわけですけども、このラーマとシーターとラクシュマナっていうこの三人の存在ね、これが今日のあの歌では、まあ、こういうふうに言われてたね。「絶対者と、それから相対者。そしてその真ん中にあるマーヤー」と。このマーヤーがシーターなんだって話なんだね。
 これは前にもちょっと言いましたね。つまり、もう一回、聞いてない人もいるかもしれないんで言うと、まさに今日あのドラマの中でそういうシーンだったけども、つまりシーターは女性なんで、危険なんでね、まず一番前をラーマが歩き、で、真ん中にシーターがいて、で、後ろを守るようなかたちでラクシュマナが歩くんだね。こういう感じで歩くわけだけども。
 で、ここで、つまりラーマ、イコール絶対者――つまり完全なる宇宙の本質である至高者を表わしてると。
 で、ラクシュマナは、ラーマを慕う相対者ね。つまりわれわれのような、まだ相対的世界にいて、その絶対者を慕ってる存在を表わしてると。
 で、その真ん中にいるのがシーター。これがマーヤー。つまりその、われわれのこの宇宙を作り出してる女神ですね。つまりヒンドゥー教とかインド哲学では、女神――宇宙の女神が、このわれわれの宇宙を創り出してるっていう発想なんですね。この三つがあって。
 で、これは前にも言いましたけど、面白いのはラクシュマナね。ラクシュマナっていうのは、まあラーマの異母弟ね。母親違いの弟ではあるんだけども、ラーマに対する帰依心っていうかな――が、ものすごくてね、その帰依心によって、ラーマのことをいつも見ていたいんだね、本当はね。うん。ラーマをずーっと見ていたいと。ラーマの側にいて、ラーマの御顔や御足をずーっと眺めていたいと。しかし今は使命によって、ラーマとシーターを守らなきゃいけないから、ラーマ、シーター、自分っていう順で並んで歩いてるから、ラーマが見えないんだね(笑)。シーターの背中しか見えなくて(笑)。でも自分の使命を遂行しなきゃいけないから――つまり、自分の欲求よりも使命が大事だから、こうやって見ることができないから、もう本当に悶々としながら、「ああ、ラーマのことが見たい」と。「ラーマのことが見たい」と思いながら、自分の使命として、シーターの後ろを歩いてるんだね。
 で、このときにそれにシーターが気づいたとしたら――まあ実際気づくわけですけども。神秘的な力によって、後ろを歩いてるラクシュマナの気持ちを察してね、シーターがどいてくれるんですね。これは一つの例え話ですけど――どいてくれる。どいてくれたときに初めて、ラクシュマナはラーマを見ることができるんだね。
 で、この例え話ってなんなのかっていうと、つまり、もう一回言いますよ。絶対者――まあ至高者、ブラフマンと言ってもいいんだけど。クリシュナと言っても、ラーマと言ってもいいんですが――絶対者がいらっしゃり、で、われわれ、相対世界にいる、神を恋い焦がれるわれわれがいると。で、われわれはその神に対して、いろんな修行をしたり、あるいは懇願をしたり、バクティを向けたりして、「神にお会いしたい」と。「絶対なる神にお会いしたい」と。すごくその、なんていうかな、強烈な愛を捧げるわけだね。で、ラーマクリシュナもおっしゃるように、ね、このまず強烈な愛がないと駄目ですよ。強烈な愛とか、あるいは精進っていうかな。懇願っていうか、努力っていうか、このこっち側の強烈な力がないと駄目なんですよ。自分は努力せずに、ほかのものに目を向けてて、「神よ」とか言っててもそれは扉は開かれない。本当にその熱意を持って、神だけを求める心が必要なんだけども。
 で、それがある程度伝わったとき、ある程度伝わったときに何が起きるかっていうと――いいですか?――その鍵を開けてくれるのが女神様なんです。うん。つまりその、われわれ相対者が絶対者を見れることができるかの、なんていうかな、鍵を握ってるのが女神様なんだね。
 だからこれはまた別の話で、ラーマクリシュナや弟子たちが言ってる話であるんですが、まあ特にそのラーマクリシュナは、カーリー女神のことをすごく信仰してたわけだけども、なぜ女神様がそんなに信仰されるんだと。つまり今の話で言うと、女神っていうのは、この宇宙を作り出すマーヤーの大元ではあるけども、絶対者そのものではないんだね。なんで女神様がそんなに信仰されるのかっていうと、女神が鍵を握ってるからなんです(笑)。女神様がその気になって扉を開けてくれないと、われわれは絶対者にたどり着けないんだね。これがそのマハーマーヤーといわれる、この宇宙の女神を表わしてるんですね。で、このシーターっていうのは、その女神の一つの現われなんだね。
 前も言ったけども、その、まあ結局は単純な話であってね。単純な話っていうのは、この宇宙には唯一の絶対者しかいらっしゃらない。で、その女神として表わされるマーヤー、つまり、この宇宙を作り出す――まあシャクティとかも言いますが――この神秘的な力を司る女神様も実は――まあ変な言い方すれば、お一人しかいらっしゃらないんです。お一人っていうのも変なんだけど、まあお一人しかいらっしゃらない。で、その女神が、まああるいはその絶対者が、絶対者はもちろんわれわれを救うためにさまざまな形、さまざまなスタイルに姿を変えて、いろんな形でこの地上とかに現われて救済をしてくださるんだね。で、女神様も同じように、さまざまなスタイルに姿を変えて、まあその役割を果たすっていうかな。われわれに道筋を見せてくれるんだね。で、このラーマーヤナの中ではもちろんこのシーターっていうかたちで女神様が現われ、あるいは絶対者はラーマというかたちで現われるわけだね。しかしそれは、もう一回言うけども、唯一の至高なる存在の一つのパターンであって、あるいは唯一の至高なる女性性っていうかな。女性的なエネルギー、女神の一つの現われが、まあ例えばこの『ラーマーヤナ』ではシーターっていうことですね。

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