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至高者の祝福(16)「バクティの真の意味」


第二章 第11話 バクティの真の意味

 デーヴァフーティは言いました。

「あなたは、マハト・タットヴァ、プラクリティ、そして真我について、語ってくださいました。どうか主よ、次に、それらの議論の目的である、バクティ・ヨーガについて詳しく説明してほしいのです。
 衆生は実体なき肉体を自分と同一視して、智慧を奪われ、行為に執着して疲れ果てています。そしてまことに長き時間を、無智という底なしの闇で眠り続けているのです。
 そんな私たちを目覚めさせるために、あなたはヨーガの光を広げるために、大空に輝くあの太陽のように、この世に姿をあらわされたのです!」

 至高者は答えられました。

「バクティ・ヨーガは、人の心の持ち方によって、多様な姿となってあらわれるでしょう。
 怒りやすく、自分自身をこの私とは別と捉え、私に対する信仰を、害心、偽善、ねたみの心でなす者は、タマス的な信仰者といわれます。
 この私を、神像などを通して、この私とは別個な存在とみなして、感覚的喜びや名誉、権力などを得たいがために崇拝する者は、ラジャス的な信仰者といわれます。
 またこの私を自分とは別な存在と考え、自分の罪をあがなうために、また至高者に捧げるために行為を行ない、この私への崇拝こそ自分の義務だと考える者、こういう人は、サットヴァ的な信仰者といえるでしょう。
 しかし、すべての者の心に住む至高者であるこの私に、全く私心を持つことなく、永遠の愛を捧げる信仰、それこそが、完全なバクティ・ヨーガと呼ばれるものなのです。

 至高者から自分に与えられた義務を、私心を持つことなく忠実に果たし、
 日々の供養と礼拝を、殺生をすることなく、欲望を持たずに行なって、
 私の像などを見て、あがめ、賛美し、礼拝して、
 すべての生き物を私の現われとみなし、
 忍耐と離欲を実践して、
 立派な心の持ち主を尊敬し、
 苦しむ者には哀れみを抱き、
 五つのヤマ(非暴力・不盗・誠実・禁欲・不所有)を実践し、
 五つのニヤマ(清浄・知足・苦行・聖典学習・至高神の祈念)も実践し、
 心・言葉・行為を調和させて、
 聖者に心から仕え、
 自己本位な思いを持たず、
 私を満足させるために行為をなす。

 このように努力する者は、やがて完全な浄化を得、私への愛を持つようになるでしょう。

 バクティの実践によって心の調和を得たなら、その人は私へといたることができるのです。
 私はすべての生き物の中に、真我として宿っているのです。それゆえ、万物に宿る私を軽視するなら、たとえ神像などを崇拝したとしても、彼は礼拝について曲解した者なのです。
 
 自尊心が強く、他の身体に宿る私を憎み、私を自分とは別の存在とみなして、他の生き物に深い悪意を抱く者は、決して心の平安を得ることができないでしょう。
 たとえうわべだけの信仰心で神像を崇拝しても、彼が他の生き物を蔑視するなら、私は決してそれを喜びはしないでしょう。
 自分自身や他の生き物の中に、等しくこの私が存在することを悟るまでは、人は自らの義務を果たしながら、神像などを通して、最高の支配者である私を礼拝すべきなのです。

 ゆえに人は、すべての者を平等に眺めて、布施や慈悲の行為を行ない、また親切な態度で接することで、真我として万物に宿るこの私を満足させるべきなのです。

 人間の中では、ヴェーダを知る者が立派な者とされますが、彼よりもより優れているのは、ヴェーダの意味をよく理解する者でしょう。
 彼よりさらに立派なのは、人々の疑いを晴らすことのできる人です。
 それによりもさらに立派なのは、自分の使命を果たす者です。
 それによりもさらに上位にあるのは、執着を放棄して、報いを求めることなく、自分の使命を果たす者でしょう。
 そして彼よりも優れた者は、自分の行為とその結果、さらに自分自身をも私に捧げ、私と自分との間に区別を設けぬ者でしょう。
 そして最後に、自分の心と行為をこの私に捧げ、自分が行為者だという思いを全く持つことなく、すべての者を平等に見る者、彼よりも偉大な者は存在しないでしょう。

 バクティ・ヨーガとアシュターンガ・ヨーガのいずれの道を通っても、人は至高者である私に至ることができるのです。

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