「神を悪魔に変えない」
◎神を悪魔に変えない
【本文】
⑰神を悪魔に変えません(教えの実践が、いつのまにかエゴの増大などにつながらないように注意する)。
これもさっきの、ちょっと前に出てきた「エゴや、八つの世俗的思いといった毒を、教えに混入させません」ともちょっと近いけども、これもそうですね、修行を長くやってる人はピンとくるところが多分あると思う。
つまり、頑張って修行してるんだが、あるいは教えを実践してるんだが、いつの間にかそれがエゴの増大に繋がってしまってる。その全体ではないけど、その一部がね。そういうときってあるよね。例えば修行が進んだはいいが、その進んだが故に慢心が強くなっちゃってるときとかね。
つまり、悪魔っていうのは常にわれわれを狙ってるって考えてください。こう狙ってるんです、本当に。比喩じゃなくて。狙ってて、侵入経路を常に探してるんです。で、われわれは結構無防備なんです。無防備に歩いてるんだね、バーッて。ただ、われわれは一応教えっていう鎧をまとっている。だから普段、普通は悪魔は入ってこないんだけど、その鎧の隙間からこう入ろうとするんだね。で、われわれが心に隙をちょっとでも見せると、バーッと入ってくる。
だからよくあるパターンとして、修行頑張って――修行頑張ってるのは素晴らしい。修行頑張って達成しました。しかし達成したが故に慢心が出ました。そこを悪魔に突かれて、自分では達成したと思ってるから、結構今いい段階にいるって思ってるんだけど、そこで慢心を突かれたが故に、まあある意味逆転されて、いつの間にか心が魔でいっぱいになっているっていう危険性もあるんだね。これは一つの例だけど。
これもだから非常にとらえどころがないっていうか、例を挙げられない。なぜ例を挙げられないかっていうと、ここで例を挙げても、全く違うパターンでみんなに来るからです(笑)。だからあまり例が役に立たないんだね(笑)。
もしさ、いくつか、例えば五つくらい例があって、「絶対これで来ますよ」だったらやりやすいじゃないですか。こう準備してればいいから。「あ、そうか、こういうふうに来るのか」と。「よし頑張るぞ!」「それが来ても大丈夫だ」って思ってるんだけど、絶対気づかないとこから来ます。で、いつの間にか魔にやられてるんだね。いつの間にか、教えを実践しているはずだったんだが、なんか魔的な人になってる。
だからこれは、断定的な例は挙げられないので、「どんな隙もわたしは悪魔に見せないぞ」っていうような――まあ念正智だけどね――自分の心を常に見守って、心を訓練し続けるっていう心構えがやっぱり必要ですね。
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