自己の明け渡し(4)
しかし私たちは、神について、いい加減な考えを持ってはいけません。
私たちは、この壁はリアルで、あの少年はリアルだが、神は何かあいまいで、はっきりしないものであると思いがちです。
しかしこれは、全くの誤りです。
もしそこに、曖昧で、不明確で、はっきりせず、不安定なものがあるとしたら、それは私たち自身なのです。
そして神は、この宇宙で唯一の確かなものなのです。
ゆえに、私たちが神に自分を明け渡すときには、私たちは、彼が実在者であると知らなければいけないのです。
神の写真や絵を祭壇に置くときには、私たちは、それを絵や写真だと思ってはいけません。
私たちは、神ご自身がそこにいらっしゃると感じなければなりません。
これを、疑いなく理解してください。
さもなければ、自己の明け渡しは、私たちにとって永遠に不可能なものとなります。
そして、自己の明け渡しによってのみ、私たちは神に至ることを望むことができます。
私たちが自己を完全に明け渡したまさにその瞬間に、謙虚さが生じ、悟りが生じ、神のヴィジョンが生じるのです。
神を悟った者には、永遠に、何も欠けることがありません。
彼にはコートが必要でしょうか?
コートは彼のもとへやってきます。
靴が必要でしょうか?
靴も彼のもとにやってくるでしょう。
お金が必要でしょうか?
お金ももちろんやってきます。
このような理由のために、キリストは、
「そなたたちは、まず天の王国を求めなさい。
そうすれば、すべての物事は、そなたに添え加えられるだろう。」
と言われたのです。
これは文字通りの事実であり、そして、歴史上でも証明され続けています。
大工、牛飼いの少年、貧しいアラビアの砂漠にいる羊飼いの若者、乞食――誰が彼らのことを気にかけましょうか?
それにもかかわらず、彼らは世界を統治し、この世の人々が必死になって得ようとしている評判と名声などを、どんな皇帝よりも遥かに多く得ています。
必死に仕事をしているある男は、ほんの僅かな名声を得ますが、しかしそれは、なんと短い期間で消えてしまうのでしょうか!
一方、すべてを主に放棄して、神以外に魅力を感じなくなった者たちは、世界から尊敬され、崇拝されます。
ゆえに、皇帝でないにも関わらず、彼は誇りを持って「私はクリスチャンです。キリストの崇拝者です」と言うのです。
すべてのあなたの心配やトラブルは、自己中心癖(エゴイズム)から生じたものです。
あなた自身を完全に明け渡しなさい。
そうすれば、すぐにそれらは消え去るでしょう。
そのとき、微笑みは常にあなたの唇の上で戯れ、あなたの顔は輝き、あなたの心は穏やかで平安になるでしょう。
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