女中のようであれ
◎女中のようであれ
【本文】
『しかし、自分の感覚を制御しつつ、対象物を楽しみながらも、それに対する好悪の感情を全く持たず、自己の魂を完全に統御している人は、至高者の恩寵たる心の絶対平安を得る。
この絶対平安の境地においては、その人のあらゆる苦は消滅してしまう。何故なら、その安らかな心境に入るや否や、ただちに真の知性が確立されるからである。』
はい。これもちょっと、理想論ではありますけどね。結局このバガヴァッド・ギーターの世界っていうのは、現世から離れろとは言ってない。つまりヒマラヤに入って、一切の現世の刺激から離れて、悟りを目指すと言ってるのではなくて、この世で――まあ、楽しみながらって書いてあるけども、別に積極的に楽しめって言っているわけじゃなくて――食事はおいしいし、友人との語らいは楽しいだろうと。それはそれとして、全くそれがうまくいってもそんなに喜ばず、それが駄目になっても悲しまず。
ラーマクリシュナの言い方でいうと、ラーマクリシュナはいろんな面白いたとえを言っているわけだけど、例えば一つは、「女中のようであれ」と。女中のようであれっていうのは、女中っていうのは、お金持ちの家に働きに来て、その家の子供――私もね、実は小さい頃、うちのおじいさんがちょっと小さな会社の社長をしてて、その親族っていうのはみんなその会社で働いてて、共働きだから子供たちはおばあちゃんの家に昼間預けられてたんだね。そこにお手伝いさんがいた。だから昼間、そのお手伝いさんに育てられた感じだったんだけど。私もそのお手伝いさんの女性に、よく遊んでもらったり育てられたりしたんだけど、自分の子供のように育てるわけだね。当然、ずーっといるから、そのご主人の子供をまるで自分の子供のように、かわいがって育ててた。「ああ、かわいい○○ちゃん」とか言ってやるわけだね。しかし、そのように、「ああ、かわいい○○ちゃん」ってやって、ご飯も食べさせてもらったりして、まるで家族の一員のようでありながら、女中の心は常に本当の家にあるんです。つまりまるで本当のその主人の子供のお母さんのように振舞いながら、笑ったりいろいろしながら、常に心は本当の家族のことを忘れていない。――このようであれと。つまり、この現世の中にいて、演技してるんだね、われわれはね。現世で家族と共に暮らして、「ああ、私のかわいい子供」とか、「私の愛する旦那さん」とか、「ああ友人たちよ」とかやりながら、本当の家族は神のところにあって、本性っていうか、自分の本音は、潜在意識は常に神でいっぱいなんです。神でいっぱいなんだけども、この世で演技して生きてるっていうか。それが一つのパターンだね。そのようであれとラーマクリシュナは言ってる。そのようであったら素晴らしいね。