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忘我の愛

 聖ラーマクリシュナはおっしゃった。

「一言で尽くすなら、――サチダーナンダへの忘我の愛を養うべきだ。」

「どんな様子の愛か。人はどんなふうに神を愛するべきなのか。ゴウリがよく言っていたが、ラーマを知ろうと思えばシーターのようにならなけりゃならぬ。バガヴァ―ン(ここではシヴァ大神)を理解するには、バガヴァティー(シヴァの配偶者)のように――。バガヴァティーがシヴァのために苦行をしなさったように、あんなふうに苦行もしなけりゃならぬ。プルシャが知りたければプラクリティーの態度をとる必要がある――つまり、女友達か侍女か母親の態度だ。
 私は、シーターの姿を見たことがある。彼女の心のすべてはラーマにささげられていた。彼女は性器にも手にも足にも、衣服にも、そのほか身を飾る宝石にも――全く無関心だった。生命のすみずみまでがラーマで満たされていて、ラーマなしには彼女は生きていられないだろうと思われた。」

M「そうでございます。狂女のようになっていたのです。」

聖ラーマクリシュナ「キチガイ女!――それだ。神を悟るためにはキチガイにならなければならない。愛欲と金を思っている間は到底駄目だよ。女との性生活、そこに何の幸福があるというのか。神を悟ることができたら、その千万倍もの歓喜だよ。ゴウリはよく言っていた、≪マハーバーヴァを得ると、体にある穴全部――肌の毛穴に至るまでが大きな女性性器のようになり、その数知れぬ穴を通して、真我との交接の喜びを味わうんだ。≫」

「夢中になって、一心不乱にあのお方を呼ばなけりゃいけない。グルの言うことをよく聞いて、その通りに実行しなければいけない。どのようにしたら神を悟ることができるかを教えてくれるから――。
 グルは、自分が完全な智者であれば、弟子に道を示してやることができる。
 人は完全智を得ると、すべての欲望を捨てることができる。彼は五歳の子供のようになる。ダッタートレーヤやジャダバラタのような賢者たちは、子供のような性質を持っていた。」

M「彼らの話は聞きますが、世間に知られていない、彼らのような智者もたくさんおりました。」

聖ラーマクリシュナ「はい! その通り。賢者はあらゆる欲望から解放されている。何かが残っていても、それは何の害にもならない。賢者の石に触った剣は黄金に変わるのだ。そうすると、もうその剣は人を殺したり傷つけたりはできない。それと同じように、賢者の愛欲や怒りは、ただ見かけ、真似のようなものとしては残っている。名前だけのものだ。あっても何の障害にもならない。」

(「ラーマクリシュナの福音」より)

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