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真髄は一つ

◎真髄は一つ

【本文】
『感覚の対象を見、また思うことで、人はそれに対する愛着心が芽生え、またその愛着心によって欲望がおこり、欲望が遂げられないと怒りが生じてくる。

 その怒りによって迷妄が生じ、迷妄によって記憶が混乱し、記憶の混乱によって知性が失われ、知性が失われると、人はまたもや低い物質次元へと堕ちてしまう。』

 はい。ここは非常に面白いですね。これはこれだけ見ると、ちょっとこんがらがってくる感じがしますが、これは仏教の十二縁起の法と完全に同じです。言っていることは。
 十二縁起の法をもう一回ちょっと言うと、まず無明によって行が生じますと。この行っていうのはね、記憶・経験の残存印象みたいなものなんだけど。
 つまり無明、迷妄なるが故に過去の記憶みたいなものに翻弄され、次、識――識別、固定的な観念、識別が固まり、それによって名色、つまり自分っていう観念が強まって、で六処、触――六処、触、受っていうのは、実際にわれわれが感覚的経験をしているということ。
 それで愛、つまり渇愛とその裏側の嫌悪が生じますよと。
 で、それによってそれが完全にとらわれてしまい、とらわれによってわれわれはこの現実世界に結び付けられ、この現実世界で様々な苦しみを味わうと。
 これが十二縁起なんだけど、今上からばーっと言っただけなんだけど、実際この十二縁起っていうのはね、これでこれでこれっていうよりは、これでぐっと一に戻ったりするんだね。これは、今の説明でいうとね、「感覚の対象を見、また思うことで、人はそれに対する愛着心が芽生え、またその愛着心によって欲望がおこり、欲望が遂げられないと怒りが生じてくる。」――これはちょうど十二縁起でいうと、われわれが対象と接して、接してきたその喜びに対して渇愛を持ち、とらわれると。あるいはその、とらわれがあるんだけど、それが遂げられないときに、苦しみを感じたり怒りを感じたりするプロセスだね。そこで、われわれが対象に対して喜びや怒りを持つことによって、迷妄が生じると。迷妄によって記憶が混乱すると。一に戻ってるんです。
 われわれがこの世でいろいろな欲望を経験することによって、無明が強まるんです。無明が強まることによって記憶が混乱すると書いてあるけども、つまり、われわれの経験の残存印象みたなものが混乱するんです。混乱するってどういうことかっていうと――つまりわれわれはね、コンピューターにしろそうだけど、情報を意のままに使えていれば問題ないんです。例えば、私は智慧を悟っていますと、しかし私は今日こういう経験をしましたと。それをぐーっと分析して、人間とはこのようなものであると。これはこうこうこうでこうだと。これは問題ないんです。でもそこに、あまりにも無智が強くなって、経験が増えてくると、経験に巻き込まれるんです。で、混乱するんだね。つまり自分が経験を使っているというよりは、自分が経験に翻弄されるような状態。
 そして、記憶の混乱によって、知性が失われる。知性が失われるイコール、固定的識別が確定されるってことです。つまり経験の混乱から来る、経験に引きずられた状態から「これはこうでしかない。」っていう確定が生じる。イコールこれは智慧がなくなるってことです。
 智慧っていうのは、固定的識別がまったくない状態なんです。つまり「これはこうだ」っていうのがないから、リアルにありのままにその本質を見抜ける――これは智慧です。でも記憶が混乱して、「こうだ」っていうのが強すぎるから、ミスを犯す。
 つまり例えば、N君にK君がいっぱい意地悪されたとして、「もうNは嫌なやつだ」っていう固定が生じてしまうと、N君がものすごい悟りの言葉を言ったときに、それを受け入れられなくなる。「ああ、またあんな変なこと言って」と。でも本当はそれは、K君を目覚めさせる素晴らしい言葉だったかもしれない。そこでだから、ミスが生じる。あらゆることにおいてわれわれは、過去の経験をもとに生きちゃっているんです。過去の経験をもとに、固定的な観念を作っちゃってる。イコール智慧がなくなってるんです。
 はい、そして「知性が失われると、人はまたもや低い物質次元へと堕ちてしまう。」つまりこの繰り返し。経験によって知性が失われ、観念が強まり、よってまたその観念によって経験するんだね。観念によって「よし俺は、こういうのは好きだ、嫌いだ」といって人生を経験して、またその経験によってまた観念が強まる。で、どんどんどんどんわれわれはこの粗雑な物質次元に結び付けられていくんです。だからまさに十二縁起なんです。だから結局、ヨーガも仏教も真髄は同じなんだね。

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