シュリーラーマチャリタマーナサ(7)「物語の成立」
「物語の成立」
ラーマ様はわたしのひねくれ根性を、徹底的に直してくださる。ラーマ様にまさる良き主はなく、わたしより劣悪なしもべもまたいない。慈悲心そのものの海のように、主はそれでもわたしを見捨てることなく、温かい保護の御手を差し延べられる。願いごとを聞くより早く、わたしの熱い胸のうちを察してくださる。
慈愛心豊かなラーマ様の特質は、世俗にも経典にも広く知られるところである。ただ、“感謝”“感謝”と繰り返すだけでは十分ではない。例えばここに理想の王国があるとしよう。富者貧者、賢者愚者、善人悪人、都人いなか人、大詩人三文詩人など、国じゅうのあらゆる階層の人々が持ち前の知識を傾け、口をきわめて王の威光を賛嘆するとき、自らを神の分身と自覚する慈悲深い大王は、すべての話を聞いたうえで一人ひとりの言語、能力、信仰、要望、策略などを明察し、それぞれに最もふさわしい措置を講ずる。これが王者たる者の理想の姿である。アヨーディヤの国主ラーマ様はそうした大王のなかの珠玉ともいうべき、王者のなかの王者であった。
ラーマ様は純粋無垢、聡明な精神を尊ばれる。それなのにわたしにまさる愚か者、汚れ果てた知識の持ち主がほかにいるだろうか? 石で舟を造り、猿や熊などの野獣を有能な味方に仕立てあげられたラーマ様なら、わたしのような低劣卑賤なしもべの愛と願いでも、必ずや快く受け入れてくださるに違いない。
誰もがわたしのことをラーマ様のしもべという。わたしも恥もためらいもなく、そう自らも言い、人にも言わせる。ラーマ様はトゥルシーダースのような下賤な男が、しもべであると名乗る僭越をあえて忍ばれる。それはラーマ様のご慈愛の広大さ以外のなにものでもない。厚顔無恥、罪辣非道のわたしの過去を知れば、地獄の鬼でさえ鼻をつまむだろう。地獄にさえ、わたしの居場所はないのだ。どこにも行きどころのないわが身の行く末を想像するだけで、これまで重ねてきた己の罪の深さに慄然とする。ラーマ様はそんなわたしの罪をゆめにも咎められない。それどころか、わたしの魂のなかにも純粋な信仰心や叡智があるのを、澄み切った心眼で明察されて、惜しみなく賞賛される。わたしが口では主のしもべであると言ったり言われたりして間違いを犯しても、内心では自分が全くそれに値しないことを認め、日夜深く悔いているのをよしとせられたのであろう。このように、ラーマ様は罪深いしもべの心情の善い傾向を賞でて満足されるのである。
ラーマ様は信者のしでかす間違いや不始末を覚えてはおられない。すぐに忘れられる。反対に、正直な心、素直な心情は、何百回も何千回も思い出される。神は猟師が獲物を射とめるように、物陰にかくれて猿の王ヴァーリンを射殺された。許しがたい不倫の罪を犯したためだが、同じ罪はヴァーリンの弟スグリーヴァも犯している。ラーヴァナの弟ヴィビーシャナも犯した。それなのに、ラーマ様は彼らの罪を咎められない。それどころか、弟バラタ様に両者を引き合わせるときに口を極めて徳性を賛嘆し、王室会議の席ではみなの前で特に彼らの功績を顕彰された。
一方は菩提樹下に結跏趺坐する至尊の聖者、大宇宙の主神の化身、片方は樹の枝から枝を跳び回る野獣、その差は計り知れないが、ラーマ様はその猿をご自身と全く同格に扱われる。
トゥルシーダースは言う。
「まことにも、ラーマ様は至尊の主であります。ラーマ様よ!至聖の主よ!一切衆生に福音をもたらす慈愛心の泉よ! あなたに比肩できるものは誰もいません。この言葉に偽りがなければ、トゥルシーダースもまた永遠に幸せであります。」
わたしはこうして、自分の長短、徳不徳を洗いざらいさらけ出したうえで、もう一度すべての善男善女にうやうやしく礼拝を捧げて、聞くだけで末世の罪が消滅する、ラグ族の主ラーマ様の浄く麗しい賛歌を綴る。
ヤージュニャヴァルキャ仙人が、バーラドヴァージャ仙人に限りなく魅力ある麗しい説話を語り聞かせたという、古い言い伝えを心で賛嘆しながら話をすすめる。善男善女の諸兄姉よ!あなた方が一人も漏れなく、法説と愛に浸りながらこの話を聞かれるよう、祈念する。
この麗しい説話を最初に説き起こされたのは、シヴァ様である。シヴァ様は深い祈りをこめてまずパールヴァティー様に語られた。次にローマシ仙人の呪いでカラスになった、カラス仙人ブシュンディをラーマ信者と知り、神話を聞くにふさわしい宝器と認めて、語り継がれた。その後カラス仙人ブシュンディからヤージュニャヴァルキャ仙人へ、ヤージュニャヴァルキャ仙人からバーラドヴァージャ仙人へと伝授された。説話者はそのつど、物語を歌唱に託して語り伝える。歌い手も聞き手もともに、似たような気質である。平等観を信じ、大智に通達し、神の御業に精通している。それぞれ、太古の話についても掌の上のマンゴーの実を見るように熟知している。もとより深遠な神のご徳風にも明るくて、いろいろな形式でラーマ様のご功業を語り、聞き、そして理解した。
その物語をわたしは最初豚小屋の脇で聞いたが、あまりに幼かったので理解できず、ほとんど分からないままであった。ラーマ様の霊妙不可思議な物語は、語り手も聞き手も明悟の人、真理の通暁者でなければならない。末世の罪業に縛られて身動きのでいない大うつけ者、鈍根劣機のトゥルシーダースごときに、もとより理解できるわけがなかった。それでも、師は諦められなかった。何遍も何遍も同じことを歌い聞かせられる。しまいに乏しい知識なりに、わたしにも分かるところが出てきた。それでいまは、わたしの理解したことを正直に綴って、それで満足するしかないと思っている。
わたしの持つ些少の知識と悟性に基づいて、一心に神のご加護を祈念しながら、説きすすめるつもりである。煩悩の大川を渡して彼岸に到達させる渡し舟ともいえる。疑念、無智、迷妄の霧を払う神聖な物語をわたしはこれから祈りとともに構築していく。
ラーマ様の物語は、学僧たちには安息をもたらし、一般大衆には法楽を授ける。またそれは、一切生類の罪障を消滅させる救いの力をも秘める。末世の罪業を蛇に例えるならば、この物語は蛇を食う雌孔雀である。真理を火に例えれば、この物語は火起こしの板木の役割をする。この物語をとおして、迷える衆生は智慧の眼を開くのだ。特に末世においては、この物語は望みのものをすべて与える聖牝牛カムデーヌーの働きをする。善男善女にとっては生命に活力を与える天与の薬草となる。病める大地にとっては、不死の良薬アムリタの大河となって広く流域を潤す。生と死につきまとう恐怖と迷妄を蛙を常食とする蛇に擬せられる。
この物語はまた、阿修羅の軍団のように地獄を破壊する。善良なる僧俗の集団を天人に見立てれば、天界に福楽をとどけるパールヴァティー様、すなわちドゥルガー女神に相当する。清浄無垢な行者の社会を乳の海に見立てれば、乳の海から現れ出たラクシュミー様に相当する。閻魔大王の使者を追い払うのには、ヤムナー川にも劣らぬ威力を発揮する。一切生類の魂を解放することでは聖都ヴァーラーナシーにもひけをとらない。安定性においては、全世界を支え持って微動だにしない大地に等しい。ラーマ様ご自身、この物語を聖樹トゥルシーにもまして愛しておられる。トゥルシーダースにとっては、この物語はわが母フルシーにもまして福徳具足の慈母である。
シヴァ様はこの物語を、ナルムダ川のように愛される。ナルムダ川と同じく、繁栄、安寧、理想などの目的を達成するための源流だからである。ダルマ、慈愛、善行を天人天女に見立てるならば、この物語は天界の住人すべてを生み、育て、保護する天母アディティーに相当する。またこの物語は、神に対する信仰と愛念を凝集した、信者の憧れの象徴である。
トゥルシーダースは言う。
「この物語をラーマ様が一時住まれた森を流れるマンダーキニー川に見立てられるとすれば、純粋な信仰心は川のほとりに聳る輝く峰チトラクータに相当する。信者の優美な憧れは、シーター様とラーマ様が散策された森自体に擬せられる」
ラーマ様の浄く貴いご行跡は、望みのものをすべて叶える如意宝珠に似る。一点の曇りもない聖者の智見を絶世の美女とすれば、美女の身を飾る光り輝く装身具である。世間の闇を照らす、真理の浄光と言ってよい。自由、繁栄、ダルマを地上にもたらし、いつかは極楽世界を現世に創り出す慈悲の太陽と言ってもよい。苦行者や隠者にとっては、無類の導師となる。世間の恐るべき疾患を跡形もなく癒やす天下の名医、アシュウィニークマールに比せられる。この物語はまた、シーター様とラーマ様に対する愛情を生みだす点で父母に等しい。行、道、法を成就させるための種子とも言える。罪障、熱悩、悲苦の傷を治し、衆生に福楽を与え、天界、俗界を護る良薬に例えてもよい。
真理を大王に例えれば、大王に忠実を尽くす明敏な大臣に相当する。貪欲を底知れぬ深海とすれば、それを飲み干すアガスティヤ仙人に見立てられる。信者の心を森に例えるならば、欲情、憤怒、嫉妬など末世の罪障という名の野象を森から駆遂する若獅子に似る。あるいは、シヴァ神ご自身が最高の敬愛をこめてもてなされる神の賓客と言ってもよい。貧困を野火に例えるならば、猛炎を消す雨雲に相当する。毒蛇に等しい淫欲を退散させる解毒の呪文、または解毒の宝珠とも考えられる。人の運命に刻みこまれた不幸の烙印を綺麗に削りとる研磨剤、無智の闇を退散させる智慧の光明、信者の財産という名の種子を養い育てる恵みの雨である。
願いごとをすべてかなえる点で、神樹カルパブルクシャに劣らない。信者の身を保護することにかけては、シヴァ、ヴィシュヌ両神の加護にまさり、万が一にも遺漏がない。詩人を爽やかな秋の季節になぞらえるならば、この物語は澄み切った詩心という名の夜空を彩る群星の輝きを放つ。その一つひとつが、信者にとっては至宝の珠玉である。激動的な物語の展開は、興味津々の娯楽に見立てられる。この物語はまた、信者の心という名の湖に泳ぐ大白鳥、あるいはガンガーの川面に立つさざなみの模様に見立てられる。いずれも掛け値なしの福楽をもたらす点で、行者や聖僧の徳風に似通う。あるいは、悪行、悪論、策略、欺瞞、倨傲、偽善、背徳を焼き尽くす猛火と言ってもよい。ラーマ様の物語はまた、満月のように明るくて、一切生類を柔らかな幸せの光明で包みこむ。中でも月夜に花開く白睡蓮クムディニと、月の恩寵を一身に集めるチャコール鳥にも比すべき信者の心には、計り知れない福運と利益の喜びをもたらす。
パールヴァティ様がシヴァ様に問いかける。それに応じてシヴァ様が懇切丁寧に答えられる。物語はそこから始まる。わたしはシヴァ、パールヴァティ両神の問答が端諸となって展開する物語を、独自の詩型で歌いあげつもりである。
一度でもこの物語を聞いた人は、神の御業には限界も終末もないことを知って驚かれることもあるまいが、初めての人は肝をつぶさないようにお願いしたい。ラーマ様は、過去世にも数限りない下生を繰り返しておられる。十億を超えるラーマ神王行伝は、無限の展開、果てしない時の流れを示す。あらゆる時劫のなかで、そのときどきに出現する賢者が言葉の限りを尽くしてラーマ神王行伝を、独自の詩型で歌いあげる。まずそのことを念頭において、疑念を抱かずに尊敬と愛情をこめてこの物語を聞いていただきたい。
「神の化身ラーマ様には限界がない。当然ラーマ様の物語の端諸や帰結にも限界はない。」
この道理に明るい篤信者なら、素直な気持ちで物語が聞けると思う。こうしてまず初めに、諸兄姉が疑念を払ってくださることを願いながら、教主大導師の蓮華にも例うべき御足の塵を額に推し戴き、再三再四合掌礼拝を繰り返して祈念を捧げる。
「願わくば、物語を進めるなかでいかなる障害もわたしに近づかないように、なにとぞお守りください」
さて、敬虔の念をこめてシヴァ神の御足にうやうやしく頭を下げて、仕事にとりかかる。
時まさに西紀一六三一年。わたしは浄く貴いラーマ神王のご生涯の伝記にいま筆を染める。