サラハの「王女のためのドーハー」(1)
サラハの「王女のためのドーハー」
translation&arrange:Keisho Matsukawa
大楽、勇敢な心、明智と全智を持つ主に
そして三宝に
合掌し、礼拝いたします。
私は今から、非二元の法であるマハームドラーについて説こう。
煩悩のつる草によってとらえられた衆生は
我執という悲しみの砂漠で干からびている。
彼らは、父である王から切り離され、国を追放された若い王子のようである。
彼らには幸せになるチャンスがなく、彼らの心は苦しみに満ちている。
サラハが、自らの経験からそれを宣言しても、
この存在の無垢の認識を十分に認識することのできない多くの衆生は、煩悩にふけり続ける。
そうしてさらに多くのカルマを積み、さらに分離されていく。
教えを学んだ人々は、まるで心臓が毒で満たされたかのように、自らの状態におびえるようになる。
存在の静寂なる点、ダイナミックな原初の心は、理解しがたい。
両極性によってけがされていない完璧なエネルギー、それは存在それ自体の最高の力として生来的なものであり、散漫に対処される何かではない。
それが、まるで毒蛇に噛まれたように、散漫になる。
知性によって準備される我々の「現実」の実体は、どんな物質もあることはなく、ただ自分自身の中にある。
この「現実」を作り出す必要条件から自らを解放せよ。
我々がそれらに対して作り出すすべての仮定は、存在しないのだ。
自然発生の本性の中に溶解する自由を行使するプロセスを知っているならば、
視覚も聴覚も、他のどんな知覚的な活動もない。
そしてそれによって人は、存在の本性と相容れないことから解放される。
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