至高のバクティ
私はやはり、バクティ・ヨーガが最高だと思う。
これが完成すれば、すべてが整う。何もいらない。
しかし実際は、これはとても難しい。
バクティ・ヨーガとは、簡単に言えば、神(如来)に完全に心を開くことだ。明け渡すことだ。
もちろん、世界の宗教で、神への帰依、信仰を教義の中心に置いているものは多い。
しかし彼らの多くは、信仰の名のもとに他者を排斥する。彼らの多くは煩悩から解放されず、悟りもなく、チャクラも崩壊せず、エネルギーは重い。
真にバクティが成功し、パラー・バクティ(至高のバクティ)に到達すると、これはヴィヴェーカーナンダも言っているように、衆生に対する、無条件の慈悲の心、四無量心の心がわいてくる。
また、完全な放棄の感覚がある。バクティが成功している者に、一切の煩悩や雑念はない。
また、神=如来=真理の本質に溶け込んでいるので、その者はこの世の実体のなさ、マーヤー(幻影の魔術)を悟り、マーヤーを超えた空、明智の真理を悟る。
そしてそこには本質的な光の輝きと、無上の至福がある。
そのとき体中のナーディは通り、結節は開き、エネルギーは上昇して頭頂のサハスラーラ・パドマを突き抜ける。不死の甘露が滴り落ち、体中を満たし、体の感覚はなくなり、心は止まり、サマーディへと至る。
チベットには『食事をしたかどうかは、顔が赤くなっているかどうかでわかる』ということわざがあるそうだが、バクティが成功したかどうかは、上記のような現象がすべて生じているかどうかでわかるのだ。
しかしほとんどのバクティ・ヨーガの実践者、そして世界の信仰者たちは、これらを経験していないだろう。
このような現象が生じていないのに、自分は信仰をなし、それに成功していると思い込んだ場合、大きな危険がそこには生じる。
偽物のバクティは、偽善的な感覚となり、狭い心を作り出し、他者を排斥するか、あるいは無智的な意味ですべてを認めるようになる。あるいは大変観念的になり、自分の観念的物差しで真理を計り、真理を語ろうとする。
バクティが最高なのは間違いない。しかしこのように多くの危険もあり、達成が難しいバクティ・ヨーガをスムーズに達成するためには、バクティの完成によって生じるとされる上記のような境地を、別の角度から実質的に求めていくのが、とてもよい。
つまりまず、衆生への慈悲の心を磨く。四無量心だ。一人の例外もなく、すべての衆生の幸福を願い、すべての衆生の苦悩を哀れむ。彼らが悟ってほしい、無上の至福に到達してほしいと願う。他者の中に魂の進化や優れた要素を見たら心から喜び称賛し、そして自分のことは捨てる。苦しかろうが楽しかろうが、頓着しない。成功と失敗、苦しみと喜び、得ることと失うことへの頓着を放棄し、ただただ衆生への慈悲の実践を行なう。
そしてバクティが成功すると自然に放棄の心が生まれるが、それは難しいので、意識的に日々、放棄の実践をする。バクティが成功すればそもそも戒律など一切必要ない。しかし心が汚れているので、バクティに至れないので、まずは戒律で自分を縛る必要がある。教えにのっとって、すべてを放棄し、一切を必要とせず、一切に執着を向けず、ただ与えられたものに満足する。
また、バクティが成功した者は、自然にすべての真理を悟るが、それはなかなか難しい。悟っていないのに、悟ったような気分になってはいけない。
よってまずは聖者が説いた教えを学ばなければならない。教学を徹底的に行ない、それを思索し、日々実践する。そして瞑想し、心の汚れを取り除き、日々、心の本質に心を向けるのだ。
また、バクティに成功した者は、自然にナーディが通り、甘露とクンダリニーのヨーガの完成を得るが、それは実際は難しいので、日々、地道にナーディを通し、甘露を落としていく、クンダリニー・ヨーガの修行が必要だ。
バクティは最高である。しかし偽物のバクティは最低である。だからバクティを志向しつつ、それが偽物に陥らず、速やかに本当の結果を得るために、慈悲の訓練、放棄の訓練、智慧の訓練、クンダリニーの訓練などで、脇を固める。それらを地道に進めていくことで、本当の至高のバクティが生じやすくするのだ。
そしてこれらの訓練の進化とともに、本当の意味で神(如来)に心を開くことが自然にできるようになり、そのとき手段と結果は合一する。
そしてこれらの道を歩むにあたって必ず邪魔をしてくる自己のエゴのマーラの障害に打ち勝つには、現実の生きた師への帰依、すなわちグル・ヨーガが必要になってくる。師は自己のエゴの言い訳を許さず、偽善を許さず、エゴが崩壊するように、巧みに追い込んでくれるからだ。逃げさえしなければ、真の師は最良の道しるべ、最良の友となる。
慈悲の訓練、放棄の訓練、智慧の訓練、エネルギーの訓練、師への帰依・・・これらを日々繰り返し修行し、神(如来)に心を開け。
それに成功したならば必ず、衆生への慈悲、放棄、智慧、エネルギーの昇華、サマーディが、自然に生じる。
生じていないならば、自己の汚れを懺悔し、ひたすら謙虚に修行に励め。
瞬間的に生じるけれど持続しないならば、持続させるように努力せよ。