切り結ぶ 太刀の下こそ 地獄なれ
切り結ぶ 太刀の下こそ地獄なれ
一歩進めば あとは極楽
ここでも何度か書いているように、私はヨーガ修行を始める前、中学生の頃、宮本武蔵が好きで、特に吉川英治の小説などをよく読んでいた。
この歌は武蔵の作といわれていて、剣術の極意を説いたものとも、精神論的なものともいわれ、いろいろな解釈があるようだ。まあ歌とはそういうものなので、それぞれがそれぞれに合った教訓が得られればそれでいいと思う。
それで私がこの歌に感じることも、簡潔に少しだけ書いてみたいと思う。
まずこれは技術論というより、数十回の死合(試合ではなく文字通りの殺し合い)を繰り返して生き残って来たという武蔵ならではの、武術家としての一種の悟りの境地ではないかと思う。つまりその勝負の最中、剣と剣による技術や思考や概念的なやりとりから「一歩進んだ」とき、ある種の無我の境地、つまり自分が勝つために戦っているのに無我であるという、矛盾した境地に進み入ったとき、そこには二元的な苦楽を超えた超越的意識、極楽がある。
しかしこの境地を引き出すには、竹刀の戦いではダメかもしれない。ちょっとでも間違ったら命を失う、あるいはかたわになるという危険性とリアルに隣り合わせの、真剣による戦いだったこそ、この境地に踏み出せたのだろう。
そして私はもちろんこれを、剣術の話だけではなく、人生全体に対するアドヴァイスとして勝手に受け取っている。
つまり我々は中途半端なのだ。竹刀やゴムや新聞紙の刀でチャンバラをしているようなものだ。
日々、小さな苦しみと楽しみの概念に縛られ、そこから出ようとしないので、「極楽の境地に一歩進む」なんてことはできはしない。
もちろん、最初から達人に生きるか死ぬかの真剣勝負を挑むのはただのアホである。
しばらくは、自分を鍛える時期も必要だ。
しかしそのような意味で自分を鍛えている人がどれだけいるか。
そして、目の前に何かやるべきことがやって来たら、真剣に戦うべきだ。
ヨーガや仏教などの修行者は、真剣に修行し、日々教えに心を合わせることに真剣になるべきだし、
修行者でない人も、自分の仕事や目の前のやるべきこと、あるいはその人の人生のメインテーマとすることに対して、全魂を傾けるべきだろう。
あるいは祝福があると、自分ではそういう生き方を望んでいないのに、勝手に人生が苦難の渦に巻き込まれることもある。
これは祝福なのだ笑。あなたがうじうじしているので、神が真剣勝負の場に背中を押してくれたのだ笑。
逃げるな。負けてもいいというわけでもない。しかし勝ちに固執することもなく。
いってみればこれはカルマ・ヨーガでありバクティ・ヨーガなのだが、神の栄光に身を任せ、すべてを母に任せている赤子のように安心して、全力をぶつけるのだ。
それにはやはり「一歩踏み出す」勇気が必要だ。
エイッと、踏み出してみよう。
覚悟を決めるということだ。
そして後ろを振り返らない。
本当に踏み出すと、
「あれっ?」
という感じになるだろう。
希望も恐怖もどこかへ行ってしまい、
世界や自分が消えたような感じになるだろう。
歓喜のままに、無思考に、なすべきことをなすような感じになるだろう。
そしてそういう意味ではあらゆる苦悩も、この苦楽を超えた境地へのスイッチを入れるための、神の祝福だったということがわかるかもしれない。
このようなことを、ミニマムな意味で何度か経験している人は、修行者にも、一般の人にも、いると思う。
しかし難しいのは、すぐにまた通常の二元的な意識に引き戻されるということだ。
苦楽や、恐怖や希望や後悔や執着という悪魔が、我々を二元の世界、つまり太刀の地獄や、その前の中途半端な世界に引き戻す。
修行の面でいうならば、それゆえに、教学、念正智や六つのパーラミターなどをはじめとした、日々のコツコツとした努力が必要だ。
そして神仏への完全な投げだし(バクティ)ができるならば、それが一番重要であり、効果的なことだ。
神仏への投げ出しは、決して甘えや逃げの道ではない。だって神仏は、恐ろしい太刀の地獄の向こう側で、やさしくほほえんでいるのだ。あそこへ行くには、自己(エゴ)が作った苦楽の概念を捨てて、一歩踏み出さねばならないのだ。
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