解説「ミラレーパの十万歌」第三回(14)

◎六つのエッセンスの歌
わたし、ミラレーパは、世を憂いて、それを捨てた。
ラシの雪山にやってきて、
「悪魔を征服する洞窟」に一人住んだ。
丸六ヶ月間、瞑想の経験は増大した。
今それらを、この「六つのエッセンスの歌」の中で明かそう。
まず第一に、六つの外的あらわれのたとえ。
第二は、注意深く考察すべき、六つの内的悪業。
第三は、われわれを輪廻に縛りつける六つの縄、
第四は、解脱を達成するための六つの道、
第五は、確信を得るための六つの智慧のエッセンス、
第六は、至福に満ちた六つの瞑想経験である。
この歌を記憶にとどめないなら、
いかなる印象も心に残らない。
注意して、わたしの説明を聞きなさい。
もし障害があるなら、空間と呼ぶことはできない。
もし数えられるなら、星とは呼べない。
もし動き揺れるなら、山であるとはいえない。
もし増大し縮小するなら、大海とは呼べない。
もし橋を必要とするなら、泳げるとはいえない。
もしつかむことができるなら、虹とは呼べない。
これらが、六つの外的なたとえである。
限界の限定は、理解に限界を作る。
昏眠と散漫は、瞑想ではない。
受容と拒絶は、意志の行為ではない。
思考が流れつづけることは、ヨーガではない。
もし西と東があるなら、それは完全なる叡智ではない。
もし生と死があるなら、それはブッダではない。
これらが、六つの内的過ちである。
はい。「限界の限定は、理解に限界を作る。」――これはさっき言ったことにも関わるけども、つまり観念があるとわれわれは観念以上のものは得られません。ね。これは分かるよね。観念があると、観念以上の理解は得られない。よって観念を壊さなきゃいけないんだけど。ほんとはだから一番いいのはですよ、これにとって一番いいのは、師と弟子の関係なんです。つまり、一般的な教えではあんまりそういうこと言わないんだけど、密教においては法よりも師の方が上なんです。つまり教え、文字に書かれた教えよりも、師匠の方が上に置かれると。なぜかと言うと、法というのは観念だから。
ここで言う観念っていうのはどういうことかっていうと――なんていうかな、ずっと前にちょっと言った記憶があるけど、よく昔、コントとかで志村けんとかがやるような、都合のいいことだけ聞こえるおばあちゃんみたいな感じね(笑)。都合のいいことっていうか、「はい、おばあちゃん、これやってくださいよ」とか言っても、「え? 何? 何?」とか言うんだけど、「クソババア!」とか言われると、「何だこのやろう!」と(笑)。そういうコントとかあったと思うんだけど(笑)、そういう感じ。つまりフィルターがあるんです。ね。フィルターがあって、観念に適合することしか理解できない。ほんとは観念を超えたことを理解しないと意味がないんだけど。だって観念っていうのはもう自分の中にあるわけだから。それを超えたことを理解しなきゃいけないんだけど、それはもう自動的に理解できなくなってる。つまり、教えがありますよ、教えの中にもし百パーセント真理が詰め込まれてたとしても、われわれはフィルターを通して見るから、そのわれわれの心を破壊するほどのものにはならないんだね。
もちろん、たまにはあるよ。皆さん、例えばさ、聖典を読んで、「あっ!」とガラガラって心が崩壊して、「そうだったのか」――こういう経験あるかもしれない。これは聖典によって観念崩壊にちょっと効果があったっていうことが言えるかもしれない。でもほとんどの場合はそうならないんだね。つまり聖者が書いた教えを読んでも、「あ、なんだ、そうなんですか」――つまり自分の観念内で判断するから、全くその真意っていうのが読み取れていない。よって、ここで重要なのが、実際にそれを壊してくれる師なんです。
つまりどういうことかと言うと、大前提として、「わたしは師についていきます」って決めるわけだね。まさにミラレーパみたいに。つまり自分の考えよりも師を上に置きますと。もうまさにね、ヤクザみたいな関係です。師が黒を白と言えば白ですっていうそういう関係(笑)。なぜこれが必要かっていうと、何度も言ってるから分かるよね、つまり観念を壊すためなんです。つまり、「師匠、ちょっと教えでこうなってますけど」「違う」と(笑)。「こうだ」って言われたら、「ああ、分かりました」と(笑)。
つまりわれわれは――もう一回言うけども、無意識のうちに、教えよりもエゴっていうものを上に置いてるんです。で、このエゴのこと、エゴを守るために、教えを利用してるんです。「いや、教えでこうなってますから。いいじゃないですか」って、エゴを守ってる。で、これを打ち砕くために、教えよりも上に師を置く。で、教えはしゃべれないでしょ? 教えはしゃべらないから、勝手に解釈できるけど、師はしゃべるから(笑)、「おまえ違うよ」って言われちゃうわけです(笑)。ね。「いや、師がこういったからこうかな?」とか言ってても、「いや、それ違う」と。そうするともう、エゴの言うとおりにできない。観念を壊されざるを得ないんだね。だからこういう密教的な世界の師匠の役割っていうのは、いかに弟子の観念を壊すかなんです。
またね、別の、もうちょっと過激な言い方をすると、師匠の役割は、いかに弟子を裏切るかなんです(笑)。変な話だけどね。いかに弟子を裏切るか。「師匠はこうしてくれるだろうな」って思ったら、全然違うことされるとか(笑)。ね。あるいは、「師匠は優しいからこうだろうな」って思ったら、なんか置いてかれちゃうとかね(笑)。「それでもついていけますか?」「いや、それでもついていきます」――これを何度もやられるうちに、もう自分の観念なんてめちゃくちゃになるんだね。こうしてやっと光が差し込む。だからこういう世界っていうのはね、すごく、なんていうか、普通は理解できない世界。でもまあ、非常に実質的な世界なんだね。実質的にその人の観念を打ち破っていく。
で、皆さんがそういう道を歩むかどうかは別にして、観念があるうちは、つまり自分の中に思考の限界があるうちは、それを超えた智慧っていうのは百年かかっても得られないっていうのはちゃんと理解しといた方がいい。つまり何度も言うけども、教えの中に真理はない。教えっていうのはある意味ヒントに過ぎない。それをなんらかの方法で、つまり教えに対するフィルターみたいなものを打ち破らなきゃいけないんだね。
(T)「グルの恩寵によって完成に至る」っていうところで、この段落って結構その当時の話をいっぱいしてると思うんですけど、このときってマルパと一緒にいたわけではないと思うんですけど、これはどういうふうに解釈したらいいか。
え? どういうこと(笑)?
(T)この「雪山の水は、最も純粋な生ビールであった」とか、その場の話をしてるじゃないですか。でも「グルの恩寵により完成に至る」っていうのは、そのときのミラレーパの気持ちとして、どういう感じで言ったのかなっていう。
このブロックは前半は状況描写だけども、後半は例えば「わたし自身の心を見ることによって万物は見られる」とかね、後半は一般的な教えのことを言ってるよね。それは一般論だと思えばいいよ。深く解釈しようと思えば解釈できるけど、まあ、一般論だと思ったらいいね。
(T)分かりました。
はい。第一話の勉強会で学んだと思うけど、もともとミラレーパっていうのは、すごいマザコンだったとかでも分かるけども、情がすごく強かったんだろうね。だからもちろんグルであるマルパに対しても、すごい愛情というか、もちろん弟子としてのすごい信仰もあったけど、愛着みたいなものも強かった。で、ミラレーパがマルパのもとを去って、まだ心が完全に悟りに達してないときに、すごく寂しくなるんだね。「マルパに会いたい」と。すごく、そういう悲しみに襲われるんだけど、そしたらマルパが、光り輝く雲に乗ってバーッて現われてきて(笑)、「おまえはまだそんなことを言ってるのか」と。「わたしとおまえは、どこに行っても離れ離れにならないっていうことを忘れたのか」ということを言うわけだね。
で、そこでミラレーパはある悟りを得るんです。「あ、我がグルというのは遍在していた」と。つまり、「あの地にいるグルに会いたい」って思ってたけども、完成者マルパっていうのは、いつでも全世界に存在してるじゃないかと。これを頭ではなくて、ほんとに悟りとして分かったわけだね。で、そのときからミラレーパは寂しくなくなったと。ね(笑)。つまり、もういつでもどこにいてもグルと一緒だと。で、すべてはグル・マルパの恩寵であると。そういうような境地に達したわけだね。
はい。それからさっきのところ、もうちょっとだけ説明すると、「昏眠と散漫は、瞑想ではない。」――これは分かるね。つまり眠くなったり、あるいは心がちょっとあっちこっち行っちゃうようなのは、そんなのは瞑想じゃないよと。だからそれはしっかりと調御しなきゃいけない。
「思考が流れつづけることは、ヨーガではない。」――つまりこれは、ヨーガっていうのは――これは『ヨーガスートラ』でもね、「ヨーガとは、心の作用を止滅することである」っていうので始まるんだけど、つまり普段のわれわれがああだこうだ考えてる心っていうのは少なくともストップしなきゃいけない。そうじゃなくて、いろいろ流れ続けるなら、それはヨーガじゃないよと。
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